第5話

 奏の声には、覇気がなかった。たぶん奏は、死のうとしている。突然の事故で足を失い、なにより大好きだったサッカーがもう一生できないと言われている。絶望するには十分だ。

「ねぇ奏、今どこにいるの?」

『どこって……病院だよ。入院してるんだから』

 それはそうだ。だけど……。

『じゃあ、もう切るよ。またな』

 奏が通話を切ろうとする。

 やだ……やだ。待って。行かないで。

 私は必死に奏に呼びかける。

「奏! 私ね、私……やっと気付いたんだよ」

 奏に訴えながら、私は病院へ向かって走る。

「私、お母さんが退院した日、言ったんだ。一緒に京都に帰りたいって」

 そう言うと、スマホの向こうでひゅっと息を呑むような音がした気がした。

「そうしたら、大人になりなさいって言われたんだ。でも私……その意味がずっと分からなかった。だけどね、さっきようやく分かったんだ」

 奏はなにも言わず、私の言葉に耳を傾けてくれている。

「私ね、お母さんのために一緒に帰りたかったんじゃなかった。私が京都に帰りたいのは、ぜんぶ私のためだったの」

『え……?』

「私がただ、お母さんと離れるのが怖かったんだ。ひとりになるのが怖くて、寂しいだけだった」

 お母さんに恩返しをしたいからなんて都合のいいことを言っておきながら、本当はただ、私がお母さんと離れる勇気がなかっただけ。

「私……これまで、お母さんがいなくなっちゃうことなんて一度も考えたことなかった。卒業しても、大人になっても、ずっとこのまま、お母さんや奏たちと一緒にいられると思ってた」

 でも、違う。そんなわけはないのだ。

 転んで泣いたとき、優しく抱き起こしてくれるお母さんはいつまでもいるわけではない。

 赤信号で立ち止まり、その間に息を整える。すぐに信号が変わり、再び走り出す。ようやく、病院が見えてきた。

「私……最低だよね。お母さんが倒れたあとも、まだお母さんに頼ろうとしてたの」

『ことり……』

 病院のベッドで眠るお母さんを見て、急に現実が押し寄せてきたような気がした。

「当たり前だけど、お母さんは私より先に死んじゃう。どんなに願ったって、ずっと一緒にいることはできないんだ」

『……うん』

 この身体は、私の意志を無視してどんどん大きくなっていく。ならば同じように、私たちは心も成長しなければならないのだ。

 院内に入り、エスカレーターを駆け上がる。奏の病室は、もうすぐそこだ。

 扉に手をかけ、勢いよく開く。ベッドに座り、窓の向こうへ身体を向けていた奏が驚いたように振り向いた。

 奏がいる。そのことにホッとしながら、私は続けた。

「だからね、私はいつまでも幼い子どもみたいに甘えているわけにはいかないんだ。それで私、お母さんになにをしたらいいのかって一生懸命考えたの」

 そして分かった。

「私がお母さんにできる一番の親孝行……それは、私が夢を追いかけること」

 でも、私は弱いから、ひとりじゃ頑張れない。

 だから、

「大好きな人と、一緒に」

 奏が目を瞠る。

「大好きな……人?」

「そうだよ。大好きな人」

 私は奏をまっすぐに見つめ、頷く。

 お母さんに大人になれって言われたとき、鈍器で頭を殴られたような感覚になった。

 私は、夢を見ていたのだ。カラフルで、安全な夢を。

 大人になりなさい。

 その言葉で、私は目が覚めた。

 大人になるということは、単に高校を卒業して、大学に行って、就職することではない。

 しっかり自分の意思を持って、自分の足で生きていく覚悟を持つことなのだ。

 明日は当たり前じゃない。

 人生は一度きり。

 それはとても当たり前のこと過ぎて、私はこれまでぜんぜん意識していなかった。

「明日、もし自分が死ぬなら、せめて今日は大好きな人と笑っていたい。明日、もしお母さんが死んじゃうとしたら、せめてお母さんが応援してくれていた夢に向かって全力で突き進む私の姿を見ててほしい。そう思ったんだ」

「……ことり……」

 奏の手から、スマホが滑り落ちる。

「だから私、京都に行くのはやめる。夢を追いかけるよ」

 私はゆっくり奏に歩み寄る。

「奏と一緒に」

「え……」

「私、奏と別れないよ。だって奏のこと大好きだもん」

「……でも、俺はもうこれまでのような生活は送れない。大学どころか、就職だって……」

 奏は苦しそうに俯き、目を伏せた。

「そんなこと、関係ないよ」

 かすかに肩を震わせる奏を、私は強く抱き締める。

「私は、奏の優しいところが好き。声が好き。泣くと頭を撫でてくれる大きな手も大好きだし、私が怒るとすぐに謝ってくるところも好き。ぜんぶ好き。奏はなにも変わってないよ。私が大好きな奏のまま……だから、こんなことで挫けないでよ」

 身体を離し、奏と視線を合わせる。

「奏はなにも失ってないよ。私がいるもん。私がいる限り、奏は大丈夫でしょ?」

 すると、奏はくすりと笑った。

「……なんだよそれ。脅しかよ」

「へへっ……そうかも」

 奏は力のない声でぽつりと零した。

「……本当は、ことりにぜんぶ伝えたら、死のうとしてたんだ」

 私は目を伏せる。

「……知ってるよ。でも、そんなの許さない。だって、奏も私が夢を諦めようとしたら怒ったじゃん。絶対ダメって言ったじゃん。それなのに、自分はやめるなんて、そんなのはなしだよ。ふたりで夢を追いかけるって約束したんだから」

「でも、俺にはもう……」

「あるよ。夢」

「え?」

 奏が戸惑いがちに私を見る。そんな奏に、私は優しく微笑んだ。

「夢なんて、いくらでもあるよ。春になったらお花見をしに行こうよ。動物園にパンダを見に行きたいし、駅前にできたカフェのパンケーキも食べてみたい」

「……それ、夢じゃなくて予定じゃない?」

「そうだよ。それじゃダメ?」

 素直に頷くと、奏は黙り込んで私を見つめた。

「夢なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないけどさ……もし明日世界が終わるならって、そう思って生きていたら、人生なんてきっとあっという間に終わっちゃう。だってほら、季節って一年にたった四つしかないんだよ。落ち込んで俯いていたら、ほら、もうあっという間に春が来ちゃうよ」

 私はそう言って、窓のすぐ横にある桜の木を見つめた。まだ、花はないその木には、しかしたしかに蕾があった。

「……そっか。まぁたしかに、そうかもしれないな」

 気の抜けたような、呆れたような奏の声に、私は少しホッとする。

「私はできれば……大人になっても大好きなものと、大切な人たちに囲まれて生きていたいんだ。だから、上を向こうよ」

 窓の向こうの空を見上げた。冬のどこまでも澄んだ空が私の視界をカラフルに彩る。

「私ね、もし明日死ぬとしたらって考えたとき、一番に奏の顔が浮かんだよ」

「え……俺?」

「うん。お母さんでも、友達でもなくて、奏だった。私さ、クリスマスに奏に告白されたとき、あんまり深く考えてなくてね。ただこれからも奏のそばにいたいなって思って頷いたんだ。今思えば、好きってことをちゃんと理解してなかったんだと思う」

 でも、病院で奏に拒絶されて、ようやく分かった。やっと気付いた。

 たぶん、大人になるということは、失うことなのだ。いろいろなものを失って、そして自分の意思で選んでいくことの繰り返しなのだと思う。

 だったら、私は、奏を選ぶ。これからの人生を、奏と生きたい。

「私、奏が好きだよ」

「ことり……」

「残酷なことを言うかもしれないけど、生きてほしい。私と一緒に」

 足を失って、夢を失った人にかけるべき言葉じゃないかもしれない。ちっとも奏の気持ちなんて考えていない、ただの私のわがままだと分かってる。

 でも、それでも今私が奏に一番訴えたい言葉は、それだった。

「生きてよ、一緒に」

 私も一緒に頑張るから。

「辛いなら、私が寄り添うから。助けるから。怒ったっていいよ。私がぜんぶ受け止めてあげる」

 私がこれまで、奏に助けられてきたように。お母さんに抱き上げてもらってきたように。

「一緒に生きよう」

 そう言って、私は奏を抱き締めた。奏の身体はかすかに震えていた。痛々しくて胸が押しつぶされそうになりながらも、私は涙を堪えて奏を抱き締める。

「ことり……ごめん……」

「なんで謝るの。そこはありがとうでしょ」

「うん……」

 今まで、奏は私の前で泣いたことなんてほとんどなかった。子供の頃だって、泣いている彼を見たことなんてほとんどない。そんな奏が、泣いていた。

 これまで私はいろんな人に抱き締められてきた。ぬくもりを与えられてきた。それなのに私は、いつも抱き締められるばかりで、そのぬくもりを返したことなんてなかった。

 でも、今は。

「奏、これからもよろしくね」

 大好きな幼なじみの男の子に……初めて好きになった男の子に、精一杯のぬくもりを伝えたいと思う。

 私はすすり泣く奏の背中を、優しくさすり続けた。

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