第4話


 私は、重い足取りで家に帰った。お母さんはまだ入院しているため、今はひとり暮らし状態だ。

 鍵を開け、電気を付ける。ひとりきりの家には音も温度も色もない。

 初めて、孤独を感じた。

 心臓に釘を打ち込まれたみたいに、胸がズキズキする。

 私はこの家で、これまで一度も寂しいと感じたことはなかった。お母さんが家にいるときは、いつも調理の音や笑い声なんかが耐えることなく響いていたし、絵で結果が出せなくて辛いときも、だれかと比べて落ち込んでいるときも、お母さんが慰め励ましてくれたから頑張れた。

 お母さんが家にいないときだって、スマホでメッセージのやりとりをしたりして、常にその存在をすぐ近くに感じていた。

 ……でも。

 お母さんが京都に帰ってしまったら、私はひとりきりだ。

 家のことも自分のことも、すべて自分でやらなくちゃいけない。学校の愚痴だってだれにも言えなくなる。耐えられるだろうか。私に……。

 ――それなら、と思う。

 お母さんがこうなったのはぜんぶ私のせいなのだから、今度は私がお母さんを支えてあげなくちゃいけない。



 ***



 二月の初め。

 自由登校になった今も、私はひとりぼっちの生活をしている。まだ慣れない家事にあくせくしていたら、一月はあっという間に終わっていた。

 スマホを開くと、美奈子からたくさんの写真やメッセージが届いていた。彼女は今クラスの仲良しメンバーと卒業旅行で沖縄に行っている。

 美奈子たちと予定を立てていた卒業旅行。私はキャンセルをした。とても旅行なんて気分じゃなかったし、お金だってかかる。今は無駄遣いする余裕はうちにはない。

 美奈子が送ってきた写真をスクロールして見ていると、壁掛けの時計が軽やかなメロディを鳴らした。十一時だ。

 今日はお母さんが退院する日。手続きもあるだろうし、そろそろ行かなくてはと腰を上げる。

 病院まで迎えに行くと、お母さんは既に帰り支度を終え車椅子に座り、私を待っていた。

「ことり。お迎えありがとうね」

「ううん」

 お母さんはまだ自力で歩くことはできない。車椅子に乗ったお母さんはやっぱり小さくて、胸がぎゅっとする。

 帰り道、お母さんは私に、公園に寄ろうと言った。そこでお母さんは、おばあちゃんがいる京都に帰ることを告げた。

「ごめんね。でも、ここにいてもことりの負担になっちゃうだけだから」

 車椅子の取っ手に力が篭もる。

「……ねぇ、お母さん」

 私は車椅子の前に回り、お母さんを見つめる。

「私も、一緒に行く」

「え?」

 お母さんが驚いた顔をする。

「私も京都、一緒に帰る」

「なに言ってるの? あなたには大学があるでしょ」

「大学行くの、やめる」

 お母さんが目を瞠る。

「私ね、お母さんが倒れてから、ずっと考えてたんだ。これまでお母さんは、私のためにずっと頑張ってくれてた。それなのに私、いつも自分のことばかりでぜんぜんお母さんの手伝いもしてなかったし、苦労も理解してなかった。……だから、これからはお母さんのために頑張りたいの」

「待って、ことり」

 お母さんがしんとした声で私を呼ぶ。

「絵は?」

「絵は……もちろん大好きだけど、大学に行かなくても描けるし……。そもそも絵なんて描かなくてもだれも困らないし、私くらい上手い人はいっぱいいるし。だから……」

「ことり」

 お母さんは静かに私の話を遮った。私は口を噤み、お母さんを見る。

「いい加減、大人になりなさい」

「え……?」

 ひとこと、お母さんはそれだけを言って、それ以上はなにも言わなかった。

 私は困惑して、なにも言葉を返すことができなかった。



 ***



 家に帰ると、お母さんは拍子抜けするほどいつも通りだった。

 私は、精一杯お母さんの手伝いに励んだ。

 買い物に行って、お母さんの指示のもと食事を作って、形の悪いハンバーグとびちゃびちゃのごはんとしょっぱい味噌汁をふたりで食べた。

 洗濯物を畳みながらのんびりテレビを見てお茶を飲み、ふたりでお風呂に入って布団に横になる。そんな日々を数日過ごした。

 こんなにお母さんと一緒にいたのは、どれくらいぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。物心ついた頃からお母さんは働き詰めだったから。だから私は、いつも家でひとりで絵を描いたり奏の家に行って遊んだりしていた。

 あの日々に文句なんてこれっぽっちもない。だって、あの日々がなかったら今の私はいないのだから。

 でも、やっぱりこの家には、お母さんの柔らかな笑顔がないとダメなのだ。

 だって、私ひとりじゃなにをしたらいいのか分からない。


 倒れたことをきっかけに仕事を辞めたお母さんは、私が家にいる間、録画して溜め込んでいた映画をのんびりと観ていた。

 卒業式の予行練習を明日に控えた、二月の下旬。私はだいぶ家事にも慣れてきた。

 洗濯物を畳み終えてお風呂掃除も終わると、手持ち無沙汰になってしまった。夕飯の支度までには時間もあるし、昨日買い物にも行ってしまった。

「お母さん、私、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」

「うん。分かった。気を付けるのよ。暗くなる前には帰ってきてね」

「はーい」

 コートを羽織り、家を出た。

 宛もなく街の中をふらふらして、最終的に家の近くにある公園に入った。ベンチに座り、寒いなか遊具の間を駆け回る子供たちを眺める。

 子供の持つカラフルな色や声が、すっかり錆び付いた公園を彩る。

 ふと、四歳くらいの男の子が砂に足を取られた。

 あっと思った。

 男の子はそのまま、ころんと転ぶ。砂の上だから怪我はないだろうが、びっくりするには十分だったのだろう。一瞬ぽかんとしたあと、男の子は我に返ったように大きな声で泣き出した。

 すると、すぐに泣き声に気付いたお母さんが駆けつける。泣き喚く男の子を、お母さんは笑いながら優しく抱き上げた。

 お母さんに抱っこされたら、男の子はあっという間に泣き止んで、けらけらと笑い出した。

 その幼い声に、ついこちらまで表情が綻んでしまう。

『――いい加減、大人になりなさい』

 不意に、お母さんが私に言った言葉を思い出した。

「…………」

 お母さんは、どうしてあんなことを言ったのだろう。

 私はただ、お母さんにこれまでの恩返しをしたくて決断をしただけなのに。

 それなのに、あのときのお母さんは今にも泣きそうな顔をしていた。

 嬉しそうではなかった。むしろ、とても悲しげな……。

 公園で遊ぶ子供たちと、子供たちを見守るお母さんたちを眺めながら、ぼんやりと考える。

「――あ」

 そっか。肩から力が抜けるような心地を感じる。

 ようやく分かった気がした。

 お母さんがあんな顔をしたのは――。

 そのとき。スマホが振動した。

「奏……」

 久々に見るその名前に、私は一瞬迷ったものの恐る恐る通話ボタンをタップする。

「もしもし」

『…………』

「……奏?」

『……この前は、ごめん。ひどいこと言って』

 今にも消え入りそうな声で、奏が言う。

『事故に遭って、動揺してたんだ。完全に八つ当たりだった』

 その声は私がよく知る幼なじみそのもので、少しホッとする。

「……ううん。私こそ、奏の気持ちぜんぜん分かってあげられなくてごめん」

『……俺さ、ことりとずっと一緒にいたかっただけだった』

「うん。分かってるよ」

『ことりが、小春さんのことをとても大切に思ってることは分かってた。でも……だから悔しかったんだ。俺だって、ずっとことりの近くにいたのに、ことりは迷いなく俺よりも小春さんを選んだ。それがなんだか寂しくて……』

「それは」

『でも、考えたら当たり前だよな。小春さんはことりにとって、たったひとりの家族なんだから』

「……奏」

『だから、バチが当たったんだと思う』

「え?」

 バチ? どうして、奏に?

『彼女のたったひとりの家族なのに、その家族に少しでも嫉妬した。そんな自分を誤魔化そうとして、小春さんが倒れたって聞いてから、毎日神社にお参りに行ってたんだ。……でも、神様はきっと俺の本心を見抜いてたんだな』

 まさか、神社に行っていたのは、私のお母さんのために……。

『……ことりはさ、いつ京都に帰るんだ?』

「あ……いや」

『まだ決まってないか。まぁ、小春さんも退院したばかりだしな』

「あの、奏……」

『ことり、今までありがとう。それから……いろいろ、ごめんな。それじゃ、元気でな』

 その瞬間、底知れない恐怖が胸を占めた。このまま通話を終わらせたら、すべてを失ってしまうような、そんな不吉な予感が。

「――待って!」

 咄嗟に、叫んでいた。

「奏! お願い! まだ切らないで」

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