第3話
あれから奏とは気まずいまま時は過ぎ、あっという間に新学期が始まった。重い気持ちのまま、私は家を出た。いつもなら家の前で奏が待っている時間。しかし、今朝はいなかった。
少し待ってみたけれど、奏がやって来る気配はない。うちのアパートのとなりにある立派なレンガ造りの家を見上げる。インターホンを鳴らしてみようかとも考えたが、やめた。
早朝の色褪せた通学路を歩きながら、もやもやと考える。
あの日、あの電話の後から、私は一度も奏と顔を合わせていない。それどころか、連絡すら取り合っていない。
こんなことは始めてだった。
まさか、奏がそんなに怒るとは思わなかったのだ。私たちは今恋人同士。だから、離れても繋がっている気がして、奏とは大丈夫だと思っていた。
でも……奏の方は違った。彼氏なのにそばを離れる選択をしてしまったから怒ったのか、それともまたべつの要因なのかは分からない。とにかく、彼を失望させたのは私だ。
「はあ……さむ」
ひとりで河川敷を歩きながら、マフラーに顔を埋める。
奏はもう先に行ってしまったのだろうか。教室で顔を合わせたらなんと言おう。気まずい。
真冬の空を見上げながら、ぼんやりと考える。
今まで、喧嘩したときってどうやって仲直りしていたっけ……。冷たい風に、思わず身をすくめて立ち止まる。
目を閉じると、
『ごめん』
と、奏の頼りない声が聞こえた気がした。
目を開くが、そこに奏の姿はない。ベルを鳴らして、自転車が追い抜いていく。その背中を見つめ、ふと思い出す。
……そうだ。いつもは奏が謝りに来たのだ。泣きながら、さっきはごめんって謝ってきた。いつもいつも。奏が先に折れてくれたから、私たちはすぐにいつも通りに戻れた。
……それなのに。
スマホを見るが、奏からの連絡はなかった。
「……ごめんって言ってよ。奏のバカ」
そんなに怒らせたのだろうか。
私が悪いの? 私はただ家族を心配しただけなのに。
私にはお母さんしかいない。お父さんも、兄妹もいない。大切に思うことのなにがいけないのだろう。
きっと、奏には分からないのだ。奏にはしっかりとしたお父さんとお母さんがいる。裕福な家庭だし、ふたりとも元気だから。家族を失う怖さが、ひとりぼっちの寂しさが分からないのだ、きっと。
学校へ着き、昇降口に入ったところでクラスメイトの
「あけましておめでとーっ! ことり!」
「あ、みなちゃん。あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「こちらこそ! ……ってあれ? 今日は
美奈子がきょろきょろと辺りを見回す。
「あー……」
いつもは奏と登校しているから、私ひとりというのが物珍しく映ったらしい。
「……うん。今日は別々」
沈んだ声を出す私に、美奈子が首を傾げる。
「おや? どうした? 喧嘩でもした?」
「……いや……喧嘩というかなんというか」
曖昧に返すと、美奈子はくすりと笑った。
「珍しいねぇ。おしどり夫婦なのに。ま、どうせすぐ仲直りするんだから、そんな気にしなくてもいいんじゃない?」
「……うん」
頷いたものの、やはり教室に入っても奏の姿はなかった。始業時間になっても登校してこない。
さすがに心配していると、先生が入ってきた。先生の顔を見るや、うろついていた生徒たちは慌てて席に着く。
「えー、おはよう、みんな。まずは新年、あけましておめでとう。今年はそれぞれ勝負の年になりますが、頑張っていきましょう」
先生が教室内をぐるりと見渡す。奏の席をちらりと見て、少し表情を曇らせた。
なんだろう、と違和感を覚えていると、先生は言った。
「それからな……一条なんだが、残念ながら一条はしばらく休むことになった」
「えっ……」
休み? どうして?
しかし、先生はそれ以上理由は言わない。
困惑していると、後ろの席の美奈子が私の背中をノックした。振り向くと、こそっと声をかけられる。
「ことり、聞いてた?」
「いや……」
首を振る。
聞いていない。
しかも、今日だけでなくしばらく休むって、一体どういうこと?
私はこっそりスマホを出して通知を確認する。やはり、奏からの連絡はない。
「どうしてなにも言ってくれないの……?」
休み時間に奏にメッセージを送ったものの、返事どころか既読マークすらつかなかった。
さすがに焦り、電話をかける。
ぷつりとコール音が途切れた瞬間、私は早口でまくし立てた。
「あっ……奏!? ちょっと、どうしてメッセージ返してくれないのよ! そんなにあのときのこと怒って……」
『――もしもし?』
強い口調で責め立てていると、予想外の声が聞こえてきた。私はぎょっとして口を噤む。
「あ……あ、あれ? えと……?」
『ことりちゃん。私よ、奏ママ。ごめんねぇ、私が出たからびっくりしたでしょ』
出たのは奏ではなく、奏のお母さんだった。奏のお母さんはのんびりとした声で笑った。
「あ、あの……奏は? 今日、学校に行ったら奏はしばらく休むって先生が言っていて……私、そんなことぜんぜん聞いてなかったからびっくりしちゃって」
『あぁ。そうよね。いろいろと立て込んでいたから、ちょっと連絡ができなくて……ごめんなさいね。実は奏ね……』
奏のお母さんの話を聞いている間、私の胸はざわざわと騒いでいた。
***
流れていく景色も、信号機の音も、車のクラクションも。私の五感を刺激するすべてがガラス一枚を隔てたかのように遠い。
お母さんが倒れたあの日から、私は何度この道を通ったか分からない。
たった二週間あまりの間に、見知らぬ道からよく見知った道になったこの道を、まさかまたこんな気持ちで通らなきゃならないだなんて……。
走りながら、荒い息を吐きながら、瞳に涙を溜めながら、いやだと叫ぶ。
いやだ、奏……お願いだから、死なないで。
祈りながら、私は病院へ向かった。
「奏っ……!」
無機質な白い建物に入り、まっすぐ受付へ向かう。
奏のお母さんから聞いた部屋番号を訊ね、病室へ駆け込んだ。
濃い薬液の匂いが漂う部屋。飾り気のない清潔なシーツの上に、青白い顔をして眠る奏がいた。
全身の体温が、急激に下がっていく心地になる。
「奏」
絞り出すように名前を呼ぶけれど、奏はぴくりともしない。辛うじて、奏の胸が微かに上下していることに安堵する。
よかった。生きている。
上がった息を整えながらよろよろとベッドへ近づくと、ベッド脇のスツールに腰を下ろしていた奏のお母さんが、私を見て立ち上がった。
「ことりちゃん。来てくれてありがとう。ごめんね、心配かけて」
「奏ママ! あの、奏は……?」
一体、なにがどうなっているのか。目の前の状況がまったく理解できない。
「あぁ、大丈夫よ。今は眠ってるだけだから」
「そうですか……」
奏ママの話によると、奏は年末に交通事故に遭い、ここに救急搬送されたのだそうだ。
神社に行った帰り道、信号無視した飲酒運転の車に撥ねられたのだという。
話を聞きながら奏を見つめる。奏の身体はあちこち擦り傷や痣だらけで、とても痛々しかった。
涙が込み上げ、小さく嗚咽が漏れた。
「奏……奏。私だよ。分かる?」
しかし、奏は目を開けない。ぴくりとも動かない。辛うじて胸が上下していることに安堵するけれど、儚いその横顔に、苦しいほど胸が締め付けられる。
「奏ね、事故の日、神社にお参りに行ってたみたいなの」
「神社?」
合格祈願ではない。だって奏はそのとき既に大学に受かっていた。
なら、なんのために……。
黙り込んで考えていると、冷たい声が響いた。
「――余計なことを言うな」
私でも奏のお母さんでもない声。
ハッとして顔を向けると、奏が目を開け、こちらを見ていた。
「奏!!」
奏の傍らにしがみつくように泣く私を、奏がちらりと見る。
しかし奏は、私を見ても表情ひとつ変えることはなく、
「母さん。なんでこいつを呼んだんだよ」
と、驚くほど低い声で言った。
「こいつって……」
奏らしからぬ口調に戸惑いを隠せないでいると、奏のお母さんが深いため息をついた。
「こら。ことりちゃん、すごく心配していたのよ。学校だって始まったんだから、ずっと言わないわけにもいかないでしょう」
「勝手なことするなよ。……よりにもよって、なんでことりに言うんだよ。こいつはもう幼なじみでもなんでもない。赤の他人だ」
奏はそう、淡々と言った。
「待ってよ、奏。……どうして? だって私たち、恋人じゃ……」
ふっと、奏は吐き捨てるように笑った。
「は? 恋人?」
睨むように私を見つめる奏に、背筋がぞくりと粟立つ。
「なにが恋人だよ。ことりにとって一番大切なのは、お母さんなんだろ? どうせ、高校を卒業したら俺のことなんてあっさり捨てて京都に行っちゃうんだから、もう関係ないだろ」
「関係ないって……どうしてそんなこと言うの……?」
すると、奏は冷ややかな視線を私に向けた。
「……被害者面すんなよ。お前が先に俺を捨てたくせに」
「え……」
「お前は、大好きなお母さんのそばにいられればなんでもいいんだろ。これまで必死に追いかけてきた夢だって、簡単に諦められるくらいお母さんが大好きなんだもんな。俺はそんな奴好きじゃない。好きになりたくもない。お前なんか、勝手に生きたらいいんだ」
人が変わったように声を荒らげる奏に、私は呆然とした。俯きかけて落ちた視界の中に映りこんだものにハッとする。奏の足が伸びているはずの右側部分だけ、異様にシーツが平らになっていた。まるで、そこにはなにもないかのように。
奏の右足が、失くなっていた。
「奏……その、足……」
奏が私から目を逸らす。
「帰れ」
「奏。いい加減にしなさい。せっかくお見舞いに来てくれたことりちゃんになんてことを言うのよ。ことりちゃんは事故となんの関係もない。身体が上手く動かなくていらいらするのは分かるけど、ことりちゃんに当たるのはやめなさい」
奏ママの言葉に、奏が再び声を荒らげる。
「うるさい! お前らになにが分かるんだよ! こっちは……目が覚めたら、足が失くなってたんだぞ! 元の生活どころか、今後一生サッカーはできないって言われたんだ! 大学の推薦も白紙になって……その気持ちがお前らに分かるのかよ? 分かるわけない。お前らには足がある。大学だって決まってる」
奏が私をキッと睨む。
「……代わってよ。夢を諦めるんだろ? 夢より家族を取るんだろ? それなら、俺にその足をくれよ。突然もうサッカーはできないなんて言われたって、納得できないんだよ。お前には思う存分絵を描ける腕があるのに……! なんで俺なんだよ……ずるいよ……。俺が失ったものをぜんぶ持ってることりは、ずるい」
憎しみの籠った瞳で、奏は私を睨みつけていた。
「…………」
泣き喚く奏に私は、なにも言えなかった。奏が足を失くした。その現実に耐えられなかったのは、私も同じだった。
「もう、帰って。お前の顔なんて、二度と見たくない」
奏はひどく静かな声で言った。
「……ごめん」
なにに対してのごめんなのか、言った自分でさえ分からない。無意識に口から零れたその言葉は、その後もずっと私の心の中で渦巻いていた。
病室を出た瞬間、涙が溢れた。
立っていられなくて、私はその場にしゃがみこむ。
奏の怒鳴り声なんて、初めて聞いた。いつだって穏やかで、声を荒らげることなんてなかった。私がどんなわがままを言っても、笑っていた。
温厚という言葉をそのまま抱いて生まれてきたような人だったのに。
どうして? あんなの、奏じゃない。
怖かった。
まるで、仇でも見るような顔をして、私を見ていた。睨んでいた。
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