第2話
お母さんが倒れたという連絡が入ったのは、その直後だった。
職場で突然昏倒し、救急車で運ばれたらしい。
検査の結果、お母さんはくも膜下出血という脳の病気を患っていて、緊急手術に入るということだった。
急いで病院に駆けつけた私は、慣れない病院という場所で、薬液の匂いを嗅ぎながら呆然と立ち尽くしていた。
くも膜下出血というものが、どれだけ恐ろしいものなのか分からない。でも、病院になどほとんどかかったことのない私ですら知っている病名だ。簡単な病気ではないことだけは分かった。
「どうしよう……お母さん、死んじゃったらどうしよう」
恐怖が胸を支配する。
お母さんは、お父さんと別れてからずっと私をひとりで育ててくれていた。絵の道に進みたいという私を予備校に通わせるため、夜もバイトをかけ持ちしてくれていた。こんなに、ボロボロになるまで……。
「お母さんが倒れたのは、私のせいだ……」
思い返せば、私はいつもわがままばっかりだった。お母さんの苦労を省みたことなんて一度もなかった。
私は、自分のことばっかりで……。
「大丈夫だよ。
呆然とする私に、奏はずっと寄り添ってくれていた。
手術中という赤い看板のライトが落ちて、術衣を着たドクターが出てくる。
そして、手術は終了したと告げられた。
まるで、ドラマのようだと思った。
思い足取りで、お母さんがいるICUへ向かう。
白いシーツの上で眠るお母さんは、とても小さく見えた。
その後、お母さんは翌日には目を覚ました。しかし、目覚めたお母さんには右半身の運動麻痺が残ってしまっていた。
覚悟はしていた。
後遺症が残るかもしれないということは、手術の前に担当のドクターにいろいろと聞かされたから知っていた。
お母さんが目覚めるまでの間、自分でもネットでいろいろと調べた。
脳の病気は、運動麻痺だけでなく、吃音障害や記憶障害などの
幸い、お母さんは意識と言語はしっかりしていた。けれど、右半身がうまく動かせないようで、特に重いのは右足だった。自力で立つことすらままならない。
「ごめんね、ことり。びっくりしたでしょ」
お母さんが申し訳なさそうに私を見る。私はぶんぶんと首を振った。
「私こそ、ごめん……ずっとお母さんに無理させてたよね。こんなことになるまで私、ぜんせん気が付かなくて……」
「なに言ってるの。私は親なんだから、子供のために無理をするのは当たり前なのよ。あなたはなにも悪くない」
顔を上げなさい、とお母さんは言う。けれど、私の後悔が薄れることはなかった。
お母さんが目覚めて数日が経ち、京都からおばあちゃんがお見舞いに来た。
京都に一人暮らしするおばあちゃんは、今年六十歳。下鴨でひっそりと小料理屋を営んでいる。
それは、私がおばあちゃんが持ってきてくれたバラとカーネーションの花を飾るため、家に花瓶を取りに帰って、戻ってきたときのこと。
「――だから、そんな身体じゃひとりでまともな生活なんてできへんやろ」
中から聞こえてきた会話に、私は咄嗟に扉の影に身を隠した。
「うちへ戻ってきなさい。ことりももう大学生やし、ひとり暮らしにちょうどいいタイミングや」
「そうねぇ……」
「ことりに負担かけたらあかんでしょう」
「……うん。少し考えてみるわ」
お母さんが……京都に。
花瓶を持つ手に力が籠った。
「……とり……ことり?」
ぼんやりしていると、ふとお母さんに肩を揺すられてハッとする。顔を上げると、お母さんが心配そうに私を見つめていた。
「あ、ごめん。なに?」
「ことり、もうすぐ冬休みも終わりじゃない? 課題はちゃんと終わってる?」
「……あ」
ハッとする。
そういえば、来週には学校が始まるのだった。卒業を待つだけの身とはいえ、一月末にはテストもある。
「そ、それは……うん、大丈夫。これからやるから」
「これからって……学校はもう明後日からなのよ?」
進路が既に決まっているせいか、課題の存在をすっかり忘れて放置していた。
「まったく……大学が決まったからってサボっちゃダメよ。ことりの推薦が通ったってことは、落ちた子がいるってことなのよ」
「あ……うん。そうだよね」
「絵はちゃんと描いてるの? 予備校もサボってないわよね」
「うん……大丈夫。ちゃんと描いてるから」
嘘だ。描いていない。だって、お母さんのことが気になって、絵を描く余裕なんてなかった。
「私のことは気にしなくていいから。ことりはちゃんと目の前のことをやりなさいね」
そうは言っても、と思いながら私は小さく頷いた。
とぼとぼと家路を歩いていると、奏から着信が入った。
「……もしもし」
『あ、ことり? 今どこ?』
「もうすぐ家だけど」
『そっか……。小春さん、目を覚ましたんだってな。よかったよ。安心した。今度お見舞いに行くな』
「うん」
『食べ物はなんでも食べれる? お見舞いには果物かなって考えてたんだけど……』
「うん……」
『……どうした? なんか元気ないな』
「……お母さん、麻痺が残っちゃった」
『え……』
スマホの向こうで、奏が息を呑むのが分かった。
「私のせいで、お母さんずっと働き詰めだったから……」
声が震える。
「私……こんなことになるまでお母さんの体調にぜんぜん気が付かなかった。お母さん、倒れるまでに相当な頭痛を感じていたはずだって先生言ってた。探したら、家に頭痛薬がいっぱいあったんだ。体調悪そうにしてたこともあったかもしれない。それなのに、私……いつも自分のことばかりで」
『ことりだって受験で忙しかったんだし、仕方ないよ』
「……お母さん、私のことは気にしないでって言ったんだ」
帰り際、お母さんは私に言った。
でも、そんなわけにはいかない。だってお母さんは、これから働くどころか自分のことだって満足にできないかもしれないのだ。
「今日、京都のおばあちゃんが来たんだ」
『お見舞いに?』
「うん。それでね……お母さん、私が大学に入ったらおばあちゃんと一緒に京都に帰る話をしてたの」
『まぁ……ひとりじゃ大変だもんな』
「……私、大学行くのやめようかな」
ぽつりと呟くと、奏が戸惑いの声を上げる。
『は? いや、なんでそうなるんだよ?』
「だって、私のせいでこんなことになったのに、私だけ夢を追いかけるなんてできないよ! 今度は私がお母さんを支えてあげなきゃ……」
『なに言ってんだよ、ダメだよ! 小春さんは、そんなこと絶対望んでない! そもそも小春さんは、お前を大学に行かせるために仕事を頑張ってたのに……』
「分かってるよそんなこと!」
言われなくたって分かっている。でも……。
「ICUにいるお母さんを見て気付いたの。お母さん、すごく小さくて……歳とってた」
私の中のお母さんは、若くて可愛くて、大きかったはずなのに。いつの間に、あんなに……。
病室で見たお母さんは皺がたくさんあって、顔色も悪かった。
いつもはきれいに化粧をしてるから、気付かなかった?
いや、そんなことはない。私が現実を見ようとしていなかっただけだ。お母さんの優しさに甘えて、私は今を見ていなかった。
『まぁ、俺らももうすぐ大学生になるんだし……それは仕方ないだろ』
「……考えたんだ。私がお母さんと一緒にいられる時間って、あとどれくらいなのかな」
『それは……』
奏が言葉に詰まったように黙り込んだ。
入院しているお母さんを見て確信した。お母さんと一緒にいられる時間は、きっともうそんなにない。
それならば、私はもうお母さんをひとりになんてしたくない。無理させたくない。
すると、奏が寂しげに言った。
『……なんでそんなこと言うんだよ。一緒に夢を叶えようって約束したじゃん。あれはどうなるんだよ。諦めるのか? じゃあ、俺は? ことりが京都に行ったら、それこそ離ればなれじゃん。小春さんと離れるのはダメで、俺と離れるのはいいの? なんだよそれ……俺はいやだよ。ことりと一緒にいたいのに』
「……それは……」
返す言葉を探していると、奏が不意に言った。
『ことりにとって、俺ってそんなもんだったんだな』
寂しげな声にハッとする。
「違うよ、かな……」
慌てて弁明しようとしたものの、プツッと通話が切れてしまった。
無情な機械音を聴きながら、私は今度こそ立ち尽くした。
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