授業を抜け出して

 まだ授業中の校舎を二人は黙って歩く。

 

 三階の教室から渡り廊下へ。歩みを進めるほどに雑音は遠ざかる。チョークが黒板をなぞる音、生徒のざわめきがダイヤルを回したようにミュートされて行く。


 消えゆく音とは逆に沸々と笑いが込み上げてきた。それは二人で教師を騙したからだ。『くっしゃみ講釈こうしゃく』で。


 ――くっしゃみ講釈とは。主人公は講釈師のせいで恋人にフラれた。その怨みを晴らすためにくしゃみをさせるという、楽しい復讐の落語。


 部室棟に入ると足を止める。二人は静かに笑い出した。


「上手く行ったな。仮病の算段」

「ドキドキしたあ。サンちゃんの演技凄かったわ」


 サンダは教室でやったのと同じように、寒がるフリをしてみせる。顔は青ざめて体は少し震える。芝居が終わると顔色はすぐに良くなった。


「おまえのくしゃみ、あれはあかんわ」

「ええ~結構頑張ったのに」

「じゃあもう一回やってみてよ」


 ハナはちっちゃな手を口元に当てる。


「くちん、くちん、くちゅん」

「ほらあかん。可愛すぎるもん」


 ハナは照れて顔を隠した。わざとじゃなくて天然だから余計に可愛い。それほど純粋だから皆は騙された。まさか仮病なんてするはずないと。


 どう転んだところで勝算はあった。道徳の授業で人を信じましょう、なんて講釈を垂れている最中だ。「あいつは仮病だ」なんて指摘できるわけがない。


 こうして二人はくしゃみで教師を騙したわけだ。


「逆に心配してるかもな。道徳に反した不良とおることに」

「サンちゃんは優しいよ。それはみんな分かってると思う」


 曇りのない瞳でそんなことを言う。このお姫様は本当に無垢で人を疑わないらしい。そんなお人好しにサンダは呆れたし、また好きになった。


 好きだからこそ意地悪をしたくなる。


「優しい、こんな悪いことをしても?」


 廊下がキュッと音を立てた。ハナの小さな体を引き寄せて抱きしめる。小鳥がさえずるように唇を鳴らす。ハナは上目遣いで彼女を見つめてゆっくりと瞬いた。


「ほら優しい。優しいキスやわ」

「ハナは悪い子や。オレなんかと付き合って、サボって」

「だって好きやもん。それにサンちゃんは良い子やから」

「いや、オレは悪いよ」


 ぶつけあうように唇を重ねる。舌にちゅうと吸い付いて甘い唾液を飲みほす。ハナは腰に手を回して愛を受け止めた。柔らかなリップはてらてらと濡れて輝く。


「今からお姫様を連れ去るから」

「どこに連れてってくれるの?」

「とっておきの場所」

「屋上?」

「保健室」


 ほけんしつ。言葉が理解できず頭にハテナマークが浮かぶ。


「でも風邪はひいてへんよ?」

「鈍感やな。ハナはほんまに熱あんの」


 きょとんとする恋人のおでこに手を当てる。


「ほら熱い。もう、何年一緒におると思っとるんよ」

「えっとその、ずっとです♡」

 

 確かに体はぽわぽわしている。でもそれはキスのせいだと思っていた。どうやらその前から熱はあったらしい。分からないのはサンダの行動だ。ハナはぼーっとする頭で考える。


「なんで仮病を?」

「風邪ひいたフリをすれば保健室で一緒におれるからね。それに今は仮病やないよ。ちゃんと熱はあるから」


 そう言ってまたキスをする。ゆっくりと互いの熱を移すように。


「ハナは寂しがり屋やから。できるだけ傍にいてあげたいの」


 ぼわんと湯気が出た。ハナの頭から湯気が見えた気がした。それはもう温泉地のようにもくもくと。真っ赤な顔を彼女の胸にうずめて謝る。


「ごめん。やっぱりサンちゃんは悪い子や」

「分かってくれた?」

「うん。わるーい殺し屋さんやわ」

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