小話 ナークじいさん

 おれの名前はナルメルナーダ。幻羊牧場の孫息子。来年正式に跡を継ぐんだ。

 父ちゃんはハルゲナージュ、じいちゃんはニメナークイ、通称ナークじいさん。村落で一番の年寄りで、こないだ流石にもうしんどいわ、と言いつつ長老職を引退したばかりだ。

 そうだよな、もう百歳越えたもんな。羊に愛された男だもんで、いつまでも羊番が辞められない、と、今日も楽しそうに羊たちと戯れているけど、村が今の場所に来るまでは、冬に羊の頭数調整をしなくちゃいけなくて、そのたびに泣いてた、優しすぎるじいちゃんだったそうだ。

 今は東方では珍しい幻羊種を増やさなくちゃということで、頭数整理で締めたりはしなくてよくなった。

 でも新しい土地に増えた羊を分ける時は、やっぱり泣いて旅の無事を祈ってる。


 ただ、新しい土地に行くと、結構な確率で普通の羊になっちゃうらしい。もと幻羊は、もともとの東方の普通の羊より羊毛の品質はいいんだけど、幻羊の特徴の、月明かりにぽやんと光るってのがなくなっちゃうんだって。そうだろうな、うちですら、普通の羊と幻羊は結構ちょいちょい、入れ替わってんだぜ。

 どんだけ気を付けて幻羊だけの群れをつくろうとしても、いつの間にか普通の羊になるやつがいる。逆も、実はそう。

 だから、幻羊牧場といっても、うちの羊のだいたい二割は、いつでも普通の羊だ。

 入れ替わるからか、全体的に他所のより毛の質はいいし、八割が幻羊の群れが作れるのは、隣の、これも前から村にいる羊飼いにも無理で、うちだけだそうだけど。


 俺も爺ちゃんほどじゃないけど、羊には好かれてる。賢くてかわいいうちの幻羊たちは、おれたち一家の、ううん、村の皆の自慢だ。

 賢すぎて、俺たちがやることって、あんまりないな、って感じる時もあるけどな。以前どこか遠い所から来た盗賊団、あいつら自力で撃退しちゃったもんなあ。犬たちがドン引きするって、どんだけ。

 草はいいのがたくさん生えてる場所に住んでるから、たまに近場に連れ出せばそれで足りるし。

 ただ、塩は買わないといけないから、俺らの仕事は基本毛の手入れと春の毛刈りと、たまに迷子の子羊の捜索、あとは水と塩の供給だ。羊、結構塩食べるんだよねえ。

 これも国境のほうにでっかい塩の湖が、じいちゃんが成人した頃くらいにできたそうで、昔と比べたらすごく安くなってありがたいんだそうだ。

 湖って、そんな急にできるもんなの?と聞いたら、そりゃ、月が湧いて出るくらいだから、なんでもあるんじゃねえか?って言われた。


 なんでも、その湖ができるころまで、月なんて名前もなかったそうだ。そんなことってあるの?

 いやでも、歴史の教科書も、先史文明時代、喪月時代、月の時代って区分だった。月の時代が、じいちゃんにまだ髭がない頃の話だとはいえ、まだ始まったばかりの現代だ。

 月の時代になる前は、先史の時代とそれからあと全部、みたいな大雑把な感じだったし、月という単語すらなかった。

 先史文明の本には載ってたそうだけど、月が現れるまで、何故か誰も読めなかったんだって。


 東方連邦史だと、もっと細かい、連邦ができるまでの各国歴史時代とか、いろいろ分けられていて、覚えるのは結構大変だった。

 じいちゃんは、おれたちは西から戻った民で、大人になってから覚えたからもっと大変だったんだぞーって言ってたけど。

 確かにじいちゃんは、今でも読み書きはちょっと苦手だそうだ。



 最近のじいちゃんは、よく羊と月を眺めている。

 そういえば、うちの村は祖霊様……ご先祖様と一緒に、お月様もお祀りしている。理由は跡を継ぐときに教えてもらうことになってるから、おれはまだ知らない。

 なんでも、その理由を最初から知ってるのは、今ではもうナークじいちゃんだけらしい。あとはもう皆、祀られる側になってしまった。


 西に居た頃のお葬式は、死んだ人を骨になるまで焼いて、骨も砕いて、地下深くに埋めて、あとは墓地に参ることもなかったそうだけど、今は骨も砕く、までは変わっていないけど、石造りの祖霊社の奥、慰霊碑のある場所に埋めて、毎年そこで祭礼をすることに変わっている。

 東方の習慣をちょっとだけ取り入れたんだそうだ。


 誰も大怪我や病気をしなければ、次はじいちゃんなんだろうか。いやでもじいちゃん、よそんちの年寄りより元気だよな、今んとこ。


 一緒にお祀りしてるとはいっても、ご先祖様の祭礼と、お月様の祭礼は日が別だ。

 まあ月の祭礼はだいたい靄の日と呼ばれている、喪月の時代が終わった記念の日の翌日に、大中央街道沿いではどこでもやっているんだけど。

 それ以外の地域は、靄の日のほうをお祝いするんだって。



 その日は綺麗な満月で。

 じいちゃんはやっぱりぼんやり光る羊たちと、月を眺めていた。真っ白な髪と髭も、月明かりに照らされて、幻羊みたいに、とまではいかないけど、光っているように見える。


 季節はもう晩秋で、そろそろ戻って寝ようよ、とじいちゃんを呼びに来たんだけど。


 いきなり、訳もなく足が竦んだ。

 反射的に、草むらに身体を伏せる。なにか、こわいものが、いる?


 月を眺めていたじいちゃんも、気配に気づいたのか、視線を月から、どこかに向けた。


「……おお……おお、まさか、そんな……」

 恐怖ではない、純粋な驚きの声。立ち上がり、歩み出すじいちゃん。

 その視線の、歩む先にいたのは。


 あれ、こんな子村にいたっけな?

 村で昔からよく着られているような、ごく普通の、でも清潔そうで質もいい服装の、成人はしていなさそうな男の子。

 柔らかそうな癖のある、明るい茶色の髪を後ろで纏めて、ふわっとした微笑みを浮かべている。

 ああでも、あんな緑色っぽい瞳の子なんて、村にはいない。なにより。


 ひとめで、判ってしまった。あれは、ひとではない。もっと、なにか、ちがうものだ。

 ただ、見てしまったら、不思議と怖さはどこかにいってしまったけど。


 じいちゃんが、誰かの名前を呼ぶ。なぜか、その名は聞き取れない。少年は、にこりと笑う。


「……ごめんね、全然、来れないままになっちゃって」

 優しい声。


「ああ、本当に!ずっと、ずっと待っていたのに!おれも、レックも、ケネムも、クルフェも!もう、残っているのはおれだけだ!」

 絞り出すような、じいちゃんの声。初めて聞いた、声音。そのまま、おいおいと泣き出すじいちゃん。

 呼び名を出されたのは、みんな、じいちゃんより先に旅立った、じいちゃんの同世代の仲良したちのはずだ。


 少年は、ほんとうに、ごめんね、といいながら、じいちゃんの肩を抱いて、背中を叩く。


「……俺はもうずっとこの姿のままだからさ、暫く会えなかった間に、皆は大人になっちゃったろうから、混乱させちゃうかな、って」

 ぽつんと、少年がこぼす、多分本音。あんなにちからのあるなにかでも、恐れるものは、あるんだ。


「そんなわけ、あるか。どんな姿だろうと、おまえは、おまえだろ?むしろ、判りやすいわ!……おれは、こんな爺になっちまったけどよ」

 涙目のじいちゃんが、声音だけはしゃっきりと告げている。


「はは、ナークのそういうとこ、変わらないんだな、安心した。正直いうと、もう会えないって、思ってた」

 少し震えて聞こえる声の少年の眼にも、ちょっと涙。


「ははっ!気合で百年生きたったわ!見ろようちの羊、八割光るんだぜ?お前がいた頃と割合逆転!なんでかは知らんけど!」

 じいちゃんが、自慢げに自慢にならないことを言ってる。でも実際なんで幻羊が増えたのかは、育ててる俺たちにも謎のままだ。


「八割?それはすごいな。俺がいたときは数えさせてもくれなかったのに」

 手近にいた羊を撫でながら少年が驚いた顔。めえ、と得意げに鳴く羊。ああ、前からそうだとは思ってたけど、うちの羊、やっぱ人間の話を完全に理解してるなあ。


「ああ、おれも失敗しまくったあれな。光が羊から羊に入れ替わるから数えようがないって結論になったっけ。

 その性質は今も割とそのまんまだな。他所の土地に送り出すだろ?何日かすると普通のが光って、送った先のが普通のになっちまう。

 最近ようやっと、他所でも光ったままになるやつが増えてきたかなあ。政府の希望数には全然足りないけど」


「そればっかりは、羊の元締め次第だからねえ。今は希少種指定で政府の管理が入ってるみたいだけど、お上からの無茶振りとかで、苦労させちゃってる?」

 不思議なことを少年が言う。ひつじのもとじめ?


「いんや?上も羊様次第なのは判ってくれてるし、おれとしては、官費でずっと羊と遊んで暮らしてたようなもんだからなあ。体力と寿命さえあればまだまだこいつらと遊び暮らせるだろうが、流石にもうしんどいわ。

 ****という極上の土産話もできたし、そろそろあいつらに会いに行く支度でもするさ」

 じいちゃんは、そういうとははは、と笑った。


 霞んだように聴こえなかったのは、多分この少年の名前。なんで聞こえないんだろうな。

 いつの間にか俺の両隣に羊が座っていて、めえ、と小さく鳴いた。


 そういうものだから、あきらめなさい


 そう言われたように感じるのはなんでだろうね。



 気が付いたらもこもこの羊に挟まれて寝てしまっていて、いつもの顔のじいちゃんに起こされた。あれ?

 ふたりで黙って月夜の草原を家に帰る。石の家に住む人も多いが、うちはいまだに天幕だ。まあこの辺は天候は基本穏やかだし、普通に居心地いいからな。



 それきり、その話は誰にも、じいちゃんとすらしないまま。

 その次の満月の夜、じいちゃんは羊たちに見守られながら、旅立ってしまった。

 家族より羊とは、本当に、最後までじいちゃんらしい話だ、と皆で泣き笑いしながらお葬式をした。



 あれから何年も経って、気が付いたらおれも大概なじいちゃんになってしまった。

 息子は特に何事もなく後継ぎをやってくれているけど、孫の一人が、随分とおれのじいちゃんに似て、やたらと羊に愛されている。


 かえってきたわねえ びっくり


 誰かがそんなことを言っていたけど、誰だったかね、これ。良く知ってるのに、知らない声。いかんな、呆けたつもりはまだないんだが。


 十数年に一回くらいか、新月の、羊だけがぼんやり光る夜の草原で、知らない少年が立っているのを見かけることがある。

 余所者に容赦しないうちの羊たちが、めえめえと話しかけたり、おとなしく撫でられていたりするから、悪いやつじゃあないはずだ。

 でも、そのことを不思議なくらい、普段は忘れている。見かけたときだけ思い出す感じだな。


 うん、今その子がいてね。珍しく、まだ夕方だというのに。

 光る羊に乗っかって遊んでるうちの孫息子に何か話しかけてるんだ。孫もにこにこと返事をしている。まあうちの一族は人見知りしないほうだがね。


「ぼくはねえ、にすてるなーく、なーくていうんだよ!」

「そうか、ナーク、また、羊たちをよろしくね」

「わかったー!ひつじたちとなかよくするね!」


 そんな会話が、聞こえたような、聞こえなかったような。

 呼び名をじいちゃんと同じナークにするように名付けたのはおれだけれど。


 そっか、さては、また、羊と遊びにきたんだな。


 おれも、じいちゃんの歳には大分届いちゃいないし、もうちょっと、頑張るか。

 背もたれ代わりになってくれている、光る羊をもふっと撫でると、めえ、と優しい声がかえってきた。




 草原の春の宵、月は、僅かに細く尖って、地平の彼方。

 それにしちゃ、ちょっと月の光が妙に強いな、と思った時には、少年はいなくなっていた。

 まあ、そのうちまた羊と遊びにくるだろう。それまでは、別に覚えていなくたっていいだろうさ。



 ――――――――――


 ※相談役の姪がナークの嫁。なのでナーダはちょっと髪の色が若い頃のナークより明るいよ。

 光る羊は、姫ちゃんの回復次第で増えるよ。

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