第30話 エピローグ

      エピローグ



 モップの水を切り、はめていた両手の手袋を外す。

 素手になった手で、首筋の汗を拭った。喉の乾きを覚えたが、飲み物はない。もう、由香里の首にペットボトルは下げられていないのだ。

 

 モップの柄にもたれ、後ろを振り返って、自分が担当した通路を眺めやった。フロアには塵ひとつなかった。最後の仕事をきっちりやり終えたと思う。

 モップとバケツをカートにしまい、掃除機を引っ張ろうとしたとき、萌が近づいてきた。

「ほんとに、辞めるの?」

 頷いて、由香里は歩き出した。

「さびしいわあ」

 顔を萌に向けると、潤んだ萌の視線にぶつかった。

「いろいろ――」

 ありがとうと言うつもりが、胸が詰まって声にならなかった。

「気は変わらない?」

 次の仕事はまだ決めていない。だが、ここにはいてはならないと、自分に言い聞かせている。アパートも明日には出るつもりだ。大家には話をつけてある。

「こんなこと言っちゃなんだけど、チーフがいなくなってさ、働き易くなったんだし」

 志穂美は行方不明のままだ。無断欠勤をしてそろそろ四日が経つ。志穂美の家族が、捜索願を出したと聞いた。

 萌と並んで通路を進んでいくと、同僚たちが口々に挨拶を投げてくれた。志穂美がいなくなって、すっかり精彩を欠いた千佳や聖子も、遠慮がちに別れの言葉を寄越してくる。


「若いんだから、頑張んなね」

 そう言いながら、近寄ってきたのは庄司さんだった。

「休みを取ってさぁ、あんた、少し太ったほうがいいよぉ」

 由香里は笑みを返した。もう、体重は戻らないだろう。肌にできたシミも次第に数を増している。そのうち、土色のシミは全身に広がり、体全体が土色の生き物となる。右足の小指はすっかり姿を消してしまった。いまでは、薬指がむずむずとし始めている。そうして一本一本なくなっていくのだろう。


 本物の化け物になると、老婆は言った。老婆の場合は、永遠の生をさまよい続ける化け物になった。自分のなれの果てはどんな姿だろう。

 はっきりしているのは、ここにいてはならないということだけだ。

「あんたまでいなくなってさぁ、どうなっちゃうんだろうねえ」

 志穂美に次いで、三加茂さんまでいなくなったことを、そろそろ皆が本気で不思議に思い始めている。今夜、仕事に入る前に、従業員出入り口で、三加茂さんの息子さんらしき男性が、売り場主任と話しているのを見かけた。警察に届けを出すつもりだと言っていた。

 だが、庄司さんの口調には、この仕事への負担を重荷に思っているのが見え隠れする。こんな短期間に、人が三人も足りなくなったのだ。募集をかけても、すぐにアルバイトは来ないだろう。そうなると、残りの人数でフロア全体を受け持たなくてはならない。


「どこに行っちゃったんだろうねえ、二人共」

 庄司さんの呟きに、誰もが頷いた。由香里は黙ったまま、売り場を出る観音開きのドアを押した。二人がどうなったのか、由香里は胸に秘めたまま、この町を去るつもりだ。一生この秘密を抱えて生きていくつもりだ。


 タクヤが沼に沈んだあと、由香里は志穂美と三加茂さんを引きずって沼に沈めた。死んでしまった二人を、そのままにしておくわけにはいかなかったのだ。沼に沈めれば、町の不良たちが空き地に入っても見つける心配はないだろう。


 ロッカールームで着替えを済ませ、制服を畳んで、ロッカーを開けたまま、中に入れた。明日、総務の人が制服を取り出し、新しい物と入れ替えるはずだ。

 わざとゆっくりそれらの作業を進め、由香里はロッカールームを最後に出た。もう一度、一人、売り場に戻ってみるつもりだった。タクヤはもういないが、タクヤがいた売り場で祈りを捧げたい。

 みんなが建物を出たのを確かめてから、由香里は廊下へ出た。売り場に戻ろうとしたとき、後ろから由香里を呼ぶ声がした。

 新さんだった。タクヤとの交流を見せてから、顔を合わせるのは久しぶりだった。

 避けられていたのだろう。無理もない。


「辞めると聞きました」

 新さんは、静かに言った。由香里は頭を下げた。言いたいこと、謝りたいことがたくさんあったが、言葉にはならない。

「お世話になりました」

 ようやくそれだけ口にして、ふたたび頭を下げると、由香里は売り場へと体を向けた。

「また売り場へ行くんですか」

「ええ。最後に見ておこうと思って」

 新さんは追って来ない。


 由香里は一人、薄暗い廊下を進み、売り場へ戻った。観音開きのドアを開け、フロア全体を見渡す。静寂に包まれた空間は、ごく普通の、ホームセンターの売り場でしかない。


 さよなら、タクヤ。


 由香里は手を合わせ、出口へ戻ろうとした。そのとき、由香里の目の端に、何かが揺れた。

 由香里は顔を上げて、天井を仰ぎ見た。

「あっ」

 揺れていた。

 志穂美と三加茂さんだ。薄い影のような二人の姿が、天井の梁にぶら下がっている。

 彼女たちは、ずっとあの姿のままだろう。命の水を与えない限り、化け物に成長していくことはない。

 由香里は観音開きのドアを閉めた。

                             了

 

 

 

 




 

 

 

 

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育霊ーいくりょう・丑三つ時 popurinn @popurinn

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