第29話

「キヌさん?」

 男性は立ち尽くし、老婆を見ていた。老婆のほうといえば、顔を背けて、俯く。男性は吠える犬にも構わず、つかつかと老婆に近づいてきた。

「やっぱりキヌさんだ。僕、吉原ですよ。隣に住んでいた吉原の家の末っ子。小学生だった和也ですよ。おばあちゃん、カズくんって、僕をすっごくかわいがってくれた……」

 そこまで言って、吉原と名乗る男性は、首を傾げた。

「あ、でも……」

 はっと我に返ったように、男性は由香里を見た。

「すみません、人違いです。似てるけど、違う人だ。だって、僕が小学生のとき、キヌおばあちゃんは、もう、キヌおばあちゃんだったんだから、生きているはずはない」

 ほんとにすみませんと、男性は何度も頭を下げ、吠え続ける犬を引っ張って去っていく。

その後ろ姿を見つめながら、老婆が呟いた。


「わしも変わってしまったんじゃ」

「え」

 老婆の声の暗さに、由香里はたじろぐ。

「息子たちが化け物になるにしたがって、わしにも変化が起きた。その変化はすぐにはわからんかった。だけども、数年経ってはっきりわかった。わしも化け物になっとったんじゃ」

 意味がわからなかった。老婆はごく普通の老人にしか見えない。

「わしはいくつに見える?」

 訊かれて、由香里は首を傾げた。

「さあ、八十代になっているかいないか」

 ふっと、老婆が笑った。

「もう、自分でもはっきりとは覚えとらんが、おそらく、百二十は超えとるじゃろな」

「え」

「年を取らんようになってしまったんじゃ。息子たちを見送ってから、わしはずっとそのときのままじゃ」

「――まさか」

「さっきの男は見間違えたわけじゃない。わしのほうでもよう覚えとる。わしが八十代のとき、隣に住んでおった家族の子どもでな。かわいい子じゃった。よくわしの家へ遊びにきておった」

「――八十代。でもあの男性は」

 由香里は去っていく男性の後ろ姿を見つめた。五十は手に届きそうな年齢に見える。あの男性が小学生のときこの老婆に会っていたとすれば、四十年は昔の話だ。そのとき老婆は八十代なら、今では百三十歳を優に超えているはず……。

「この水はな」

 老婆は湧き水の暗い水面を見つめた。

「本物の化け物を作り出す。息子たちやわしのように」

 荒唐無稽な話だが、由香里には信じられた。自分の体の変化をたしかに感じている。


「この水は、どうして」

 由香里は石桶を振り返った。

「どうして、この水にはそんな力があるんでしょう」

「わからん」

 老婆は吐き捨てるように、言った。

「ここは狭間神社と呼ばれとる。だが、狭間というのはほんとうの名前じゃない。元はなんといったか覚えておらんが、いつかしらこの土地のもんが言い出したようじゃ。あの世とこの夜の狭間にある場所、それがここじゃということなんじゃろう」

「――あの世とこの世の狭間」

「そうじゃ。その狭間に湧き出た水。それが、この湧き水なのかもしれん。この水は、あの世のモノを、化け物として生き返らせる水じゃった」

「――化け物として生き返らせる水」

「あんたの霊は、人を襲ってどこかへ行ってしまったんじゃな」

由香里は呆然としたまま頷いた。

「いつ」

「昨日の夜」

「急いだほうがええ」

 老婆はうわ言のように呟く。

「生き物を貪り食う化け物にとって、いちばん欲しいのは人間じゃろ」

「――そんな、まさか」

「そうなる前に、あんたのその子を、その子が死んだ場所へ戻したほうがええ。その場所へ戻してやれば成仏できるじゃろ」

 老婆の声は、かなしみを帯びていく。

「わしの息子たちも、川へ帰っていった。命の水を与えるふりをして、わしは二人を川へ誘導していった。二人はわしが投げた命の水を追って川へ入り、川の水に呑まれながら、成仏していった」

「でも」

 タクヤがどこで死んだのかわからない。それどころか、タクヤが誰の子どもで、どこに住み、どんな暮らしをしていたのか、何も知らないのだ。

「急いだほうがええ。早う、その子を成仏させてやれ。その水を」

 老婆は由香里の胸のボトルホルダーを見た。今日も、由香里はいつもの癖で、ボトルホルダーにペットボトルを入れていた。中には命の水が入っている。

「二度とあんたの霊に与えんことじゃ」

 そう言うと、くるりと由香里に背を向けた。


「ま、待ってください」

 老婆は振り返らない。

「おばあさん、待って」

 小さな老婆の姿は、あっという間に闇に紛れてしまった。ザワザワと風が吹き、木々が揺れる。

――あの世とこの世の狭間。

 由香里はぞくりとして、周りを見渡した。ただ、冷えた静寂があるだけだった。



 早くタクヤを見つけなくては。

 そのためには、生前のタクヤについて調べなくてはならない。霊となったタクヤが現れたのは、ホームセンターだ。ということは、タクヤはホームセンターに何らかの関係があるのかもしれない。

 ホームセンターへ向かいながら、スマホでタクヤという名を検索しても、ホームセンターの名を検索しても、関連した出来事は何もヒットしなかった。

 古くから、あの職場に勤める誰かに話を聞けないものだろうか。三加茂さんや庄司さんの顔が浮かんだが、由香里は首を振って否定した。二人共、由香里を避けている。こんな話を持ち込んでも、ろくにしゃべってはくれないだろう。

 由香里は急いた気持ちで、ホームセンターの従業員通用口に向かった。ロッカールームに入ろうとしたとき、廊下をやって来た売り場主任に出くわした。

「ちょうどよかった」

 売り場主任は慌てた様子で言った。

「これからね、北野社長が来るんだよ。それで、ほら、あんたが選ばれた『今月の働き者さん』の賞金を渡すことになってさ」

 そういえば、そんなことがあった。すっかり忘れていた。

「何、あんた。もっと嬉しそうな顔しなさいよ、三万円だよ」

「あ、はい」

「銀行振込の予定だったんだけど、どうせなら、みんなの前で渡したほうが、他の従業員たちの励みにもなるだろうって社長がさ」

 今夜はとても人前で笑顔を見せる気分じゃない。無理に作った笑みが強張る。

「仕事前にね、売り場のレジ前に、みんな集まってもらうから」

 みんなの前で北野社長に表彰される。志穂美が見たら、また、嫌がらせをしてくるだろう。そう思ったとき、主任が続けた。

「こんなときに、チーフが欠席じゃなあ」

由香里は細く息を吐いた。安堵している場合じゃない。早く、タクヤを見つけて、志穂美を取り戻さないと。


 作業用の制服に着替え、レジ前に行くと、昼間の従業員たちが、輪になって集まっていた。その端には、清掃担当の同僚たちの姿もある。由香里はそっと彼女たちの後ろに回った。

 輪の中心にいる北野社長が、挨拶を始めた。日頃の従業員たちへの感謝の言葉に始まり、今後の事業展開の方針へ移る。

 変わらず、北野社長は、さわやかな青年実業家といった雰囲気をまとっていた。今夜は紺のストライプ柄のスーツにレジメンタルタイを締め、掃き溜めに鶴といった印象だ。

 北野社長に抱いた淡い憧れが懐かしかった。ほんの三ヶ月ほど前の出来事なのに、随分遠い日のことに思える。

「とても子持ちには見えないわねえ」

ふいに、聞こえた誰かの声に、由香里は顔を上げた。

「独身でしょ? 北野社長」

声は、由香里の右手にいる、売り場の従業員のほうから聞こえてきた。肩までの髪を後ろでまとめた中年の女性と、茶色い髪の若い女性の二人組がしゃべっているようだ。

「独身だけどね、……前に付き合ってた女がいて、……の子どもがいたそうよ」

「ほんと?」

小声で話しているせいで、全部は聞き取れない。由香里はそっと二人に近づいていった。

「ほんとよ。籍を入れてたかどうかは知らないけど、家族同然で暮らしてたのは確か。だって、あたし、見たことあるもん。小学生くらいの男の子を連れて、女の人と買い物してるとこ。スーパーでさ、ネギとかホウレンソウとかさ買ってて、夕飯の買い物って感じだった」

「えー?」

 えー?と叫びだしたいのは、由香里のほうだった。北野社長に、小学生くらいの男の子どもがいた?

――あの子を殺したんだ!

 隣の女は叫んだ。アパートの隣の女は、北野社長が子どもを殺したと言った。

 従業員たちの話は続く。

「だけど、社長、今は独身じゃん。その親子、どうなったの?」

「知らない。別れたんじゃないの?」

「そっか」

「手切れ金いっぱいもらって、どっかへ行っちゃったのよ、きっと」

 そうだろうか。

 もし、北野社長と家族同然の暮らしをしていた女が、アパートの隣の女だったとしたら。

 

 もっと詳しく話を聞きたい。中年の女性従業員のほうが北野社長親子を見かけたのはいつなのか。北野社長が連れていた男の子の名前はなんというのか。

 動き出そうとしたとき、由香里は名前を呼ばれた。

「真行寺由香里さん!」

 拍手が起こる。由香里は体の向きを変えて、仕方なく前へ進んだ。

 アパートに戻って、隣の女に、もう一度話を聞こう。

 おめでとうございますと封筒を差し出してくれた北野社長は、穏やかな笑みを浮かべている。

 由香里は思わず目を逸らしていた。



 今頃、ホームセンターでは、由香里の姿が消えてしまい、同僚たちは狐につままれた思いをしているだろう。

表彰されて、その足で仕事場から姿を消すなんて。


 一刻の猶予もならないのだ。タクヤを見つけるために、タクヤの素性を知らなくてはならない。

 アパートに走り戻ると、息が切れた。片方の足の小指がなくなったせいで、こんなに走りにくいとは。

 

 息を整えて、由香里は目的の女の部屋のドアを叩いた。さっきから絶え間なく、木魚の音が聞こえている。

 立て続けにドアを叩くと、ようやく女が顔を見せた。


「何の用?」

 女は由香里を睨【ね】めつけてきた。

「確かめたいことがあるの。あんた、今朝、北野社長が子どもを殺したって言ってたわよね。どうしてそんなことが言えるの?」

「どうして?」

 女が怯えたような目になった。その瞬間、由香里は慌ててアパートへ戻ったのを後悔した。こんな女の言うことを、なぜ、間に受けてしまったんだろう。

 表彰式で従業員の話を小耳に挟み、北野社長と暮らしていたらしき女が、目の前のこの女かもしれないと疑うなんて、なんて愚かだったのだ。

 こんな女、北野社長が相手にするはずない。

「――あたしは何でも知っているんだ」

 女は続ける。由香里は焦った。こんなところで時間を潰している場合じゃない。早く、タクヤを見つけなくてはならないのに。

 だが。

 由香里は思い直した。

 今朝、この女のほうから北野社長の名を口にした。この女は、北野社長となんらかの接点があるのかもしれない。

「もしかして、あんたが以前、北野社長と暮らしてたって人なの?」

 目の前の女の目が見開かれた。

「なんだって!」

 みるみる女の表情が歪む。

「ち、ちょっとどうしたのよ」

 由香里は慌てた。女の態度の豹変が理解できない。

 ふいに、女はバチを掴んだ片手を振り上げ、開いたドアを叩いた。

「な、何?」

「おまえなんかふさわしくない! おまえなんか!」

意味不明だ。言いながら、女は激しくドアと言わず、壁や玄関の棚をバチで叩き始めた。

「ちょ、ちょっと、どうしたっていうのよ!」

 制御不能だった。女は目の前の何かを追い払うように、バチを振り回す。ドアや壁にバチが当たり、すさまじい音を立てた。

「やめて! どうしたっていうのよ!」

 女の動きは激しさを増した。ガシャンと大きな音がしたと思うと、玄関の棚の上にあった置物が割れて落ちた。陶器の破片が散らばる。


「わああ!」

 バチが由香里目がけて飛んできた。

 と、そのとき、由香里は背後から腕を掴まれ、引っ張られた。

「やめなさい!」

 怒鳴り声が続く。

 由香里は玄関から引きずり出され、アパートの廊下に尻餅をついた。

「落ち着きなさい!」

 目の前で、初老の女がバチを掴んだ隣の女の腕を抑える。

 初老の女は、大家だった。



「真行寺さん、だいじょうぶ?」

 アパートの契約の際に会っただけの大家のおばさんの顔は、記憶にあるより膨らんで見えた。細い目が、目の前でおばさんの腕に抑えられている娘とそっくりだ。ただ、おばさんのほうが、あたたかみがある。

「ほら、もういいから。中に入ってなさい」

 目を剥いたままの娘を強引に部屋の中へ押し込んで、大家は由香里の腕を取った。

「すみませんねえ、怪我はしてない?」

「だいじょうぶです」

 尻についた汚れを払いながら、由香里は言った。

「あの子、ときどきああして興奮するもんだから」

「はあ」

「木魚の音。わたしからも注意しときますから」

 騒ぎを聞きつけて飛んできた大家は、由香里と娘の諍いの原因は、木魚の音にあると思ったようだ。

「木魚じゃないんです」

 大家の細い目が、見開かれた。

「突然、怒り出して」

 由香里が続けると、大家は肩を落とした。

「ごめんなさいね。普段はおとなしい子なんだけど」

 おそらく隣の女はとうに四十は超えている。その娘を、まるで小さな子どものように言う。予想していたことではあったが、隣に住む女は、精神的に大人になれていないのだ。

「いえ、すみません。わたしも悪いんです。訊きたいことがあって、突然押しかけたから」


「訊きたいこと? 何かしら。部屋のことならわたしに言ってもらえば」

 一つの部屋を二つに分けて貸している店子に、何か不都合な問題が生じたと思ったようだ。

「あの――」

由香里は思い切って、口を開いた。

「北野社長と娘さんは」

 大家の表情が歪んだ。

「まだ、そのことを」

「え?」

「あなたはあのホームセンターに勤めているから、どうしても耳に入っちゃうんでしょうけど、もう九年も前の話なんだから、いい加減忘れて――」

「あの、何のことですか」

「うちの娘が、あそこの北野さんを追い掛け回してたのは悪かったと思ってるのよ。でも、ちゃんと謝罪もしたし」

「追い掛け回していた?」

「ストーカーだのなんだのって騒がれて。あの子はただ、北野さんに憧れてただけなのに」

「ストーカー……。北野社長と付き合ってたんじゃないんですか?」

 大家がフッと笑いを漏らした。

「まさか。北野さんは、別に付き合ってる方がいましたよ。うちの娘は、あの通り、幼いままでしょう? ホームセンターで北野さんを見かけて、昼も夜も追い掛け回すようになっちゃって」

 おまえなんかふさわしくないと叫んでいたのは、北野といっしょにいた女が由香里と重なったのかもしれない。


「娘さんは、北野社長の子どものことを」

「子ども?」

「そうです。北野社長が子どもを殺したって」

「……」

 大家はうなだれて、由香里を見つめた。

「すみませんねえ、そんなことを言いふらして」

「だから、わたし、娘さんと北野社長の間には子どもがいて、その子を北野社長が殺したということなのかと」

「そんな、恐ろしい」

「娘さんは、その子が成仏できないまま、ホームセンターにいると」

「どこからそんな迷いごとを思いついたんだか」

「北野社長は独身で、子どももいませんよね?」

「詳しい話は知りませんけど」

 大家の話によれば、当時、北野社長には籍は入れてないものの、いっしょに暮らす女性がいた。彼女には連れ子がいたという。

 九年前、ちょうど、大家の娘が北野社長にストーカー行為を始めた頃、先代の社長に、北野は女性と別れさせられた。

「奥さん同様に暮らしてた女の人と子どもは、どこか遠くの、たしか、その女の人の田舎へ帰ったと聞きましたよ。突然いなくなったんで、うちの娘の妄想が膨らんでしまったんでしょう」

「その子どもは何歳ぐらいだったんですか」

「そうね。小学校の低学年、八歳か九歳ぐらいに見えたけど」

 タクヤと重なる。

「その子は死んでしまったんですね」

「ええ? 死んでなんかいませんよ。当時、このアパートにその子と同級生の子のいる家族が住んでましてね。年賀状のやり取りは続けているって言ってたから」

 タクヤじゃない。タクヤはあのホームセンターとは関係ないのだろうか。


「タクヤという名の子どもを知りませんか」

「タクヤ?」

 大家は首を傾げた。

「ホームセンターに関係のある子どもだと思うんですが」

「知らないわねえ。ホームセンターに関係ある子どもって、あそこには家族連れのお客も多いんだから、そんな名前の子どももいるでしょうけど。それに、娘の騒動があってから、ホームセンターに買い物には行かないようにしてるの。従業員の人たちと顔を合わせるのもばつが悪いし」

「最近じゃありません。どれくらい前なのかはわからないんですけど、八歳から十歳くらいの男の子で、あのホームセンターに関係していたかもしれなくて、タクヤという名前で」

「さあねえ」

 興味がなさそうに、大家は自宅へ戻ろうと歩き出したが、ふと足を止めた。

「そういえば、昔、あのホームセンターで子どもの失踪事件があったわ」

「失踪事件? いつのことですか」

「娘の騒動があった頃だから、ホームセンターがオープンした年ね」

 ホームセンターが営業し始めて、九年目だと聞いている。

「あの頃は、今と比べ物にならないくらい繁盛してたのよ、あの店。土日にはすごい人出だった。この辺りには、他に行くところもないから。確か、家族といっしょに買い物に来ていた小学生の男の子が迷子になって」

「見つからなかったんですか」

「そう、見つからなかった。警察が来て、捜査もされたけど。確か、誘拐されたんだろうってことになったと思うわ。しばらく、店の前に男の子の顔写真のポスターが貼られていたから。だからだわ」

 大家は納得したように、頷く。

「だから、うちの娘は、北野社長が子どもを殺したなんて言ったのね。引っ越してしまった北野社長と暮らしていた子どもと、別のいなくなってしまった子どもが、娘の頭の中でつながってしまったんでしょう」


 失踪した子ども。それがタクヤかもしれない。


 どうしたら、大家の話してくれた子どもの失踪事件について調べられるだろう。

 大家と別れ、ふたたびホームセンターへ向かいながら、由香里は悩んだ。警察へ行き、当時の失踪事件について知ることなど可能だろうか。突然交番を訪れて、十年近く前の子どもの失踪事件を口にして、警察は答えてくれるものなのだろうか。映画やテレビで、主人公が昔の事件を探る場面を見た憶えもあるが、どんなふうに行動していくのか、由香里には見当もつかない。

 まずは、ホームセンターの従業員たちに尋ねてみよう。

 あのホームセンターが営業を開始した当時から勤めている者なら、きっと憶えているはずだ。

 すぐに浮かんだのは、三加茂さんと庄司さんの顔だった。二人は古株だと、萌から聞いた記憶がある。

 問題は、二人が素直に由香里の話に耳を傾けてくれるかどうかだ。幽霊騒ぎのせいで、二人からは避けられている。子どもの失踪事件などを口にすれば、ますます怪訝な顔をされてしまうだろう。

 由香里はホームセンターに戻った。表彰式の途中で抜け出してしまった由香里を、誰もが無視で迎えた。売り場主任は帰っているから、声を上げて咎める者はいない。

 売り場を見渡すと、売り場の奥のほうで動いている庄司さんの姿があった。業務用資材売り場辺りで、掃除機を引っ張っている。

 

 由香里はまっすぐ、庄司さんに向かって行った。

「庄司さん、ちょっと」

 掃除機のコンセントを避けながら、由香里は声をかけたが、返事はなかった。ゴウゴウと唸る掃除機の音は止まない。

「お願い、訊きたいことがあるの」

 掃除機の音に負けないよう、声を張り上げなくてはならなかった。

「何よ」

 そう返した庄司さんは、顔をフロアに向けたままだ。三加茂さんよりはいくつか年下のはずだが、制服の帽子を被った首筋から真っ白な白髪がはみ出し、老けて見える。

「昔、ここで、子どもの失踪事件があったって聞いたんだけど」

 庄司さんは、答えない。

「この店がオープンしたばかりの頃よ。庄司さん、オープン当時から働いてたでしょう? 何か知らない?」

「何で、あんた、そんなこと言ってんのよ」

 庄司さんが顔を上げて、気味悪そうに、由香里に目を向けた。

「突然、こんなこと訊いて悪いとは思うけど、どうしても知らなきゃならないの」

 目を逸らして、庄司さんはふんとため息を漏らした。

「そのときのこと、覚えてる?」

 さあと言ってから、庄司さんは由香里の足元に掃除機の先端を動かす。

「いなくなった子どものことを知りたいの。名前は、タクヤって言うんじゃなかった?」

 庄司さんが、目を剥いた。


「あんた、表彰されたからって、いい気にならないほうがいいよぉ」

「そんなつもりじゃありません」

「じゃ、なんだってそんなこと言い出したんだよぉ」

「――それは」

「あのね」

 庄司さんが、掃除機を止めた。

「その話、ここでしないほうがいいよ」

「どうして」

「いなくなった子どもはね――」

 庄司さんがそこまで言ったとき、由香里の足元に、モップの先が置かれた。

 千佳だった。

「あんた、何やってんの。仕事サボる気?」

 志穂美がいないとき、千佳は志穂美の代わりを務めるように、由香里に辛く当たる。

「あんたがサボった分、こっちにしわ寄せが来るのよ!」

 まるで志穂美の言い草だ。まったく、チーフが無断欠勤するからと、ブツブツと千佳は続ける。

 横顔で頷きながら、由香里はもう一度庄司さんに声をかけた。

「ねえ、庄司さん。知っていることがあるなら」

 そのとき、バシャンと、水がこぼれる音がした。

 顔を向けると、三加茂さんだった。30番台棚の前で、フロアに広がったバケツの水の前で呆然とたたずんでいる。

「いやあね、三加茂さん。どうしたっていうのよ」

 千佳が呟く。

 こちらに顔を向けた三加茂さんは、由香里を睨み、そして踵を返した。そのまま、売り場を走り去っていく。

「なあに? いったい」

 千佳が不思議そうに言い、三十番台棚へ向かう。

 ぽそりと、庄司さんが呟いた。

「昔、ここで行方不明になった子どもはさ、三加茂さんの孫なんだよ」


「え」

「長い時間をかけて、ようやく傷が癒えてきたところなんだ」

「三加茂さんの孫……」

「あの人にとってはここは特別な場所。いなくなった孫がさあ、いつかは戻ってくるんじゃないかって思ってんのよぉ。それでここで働き始めたんだよぉ」

「あの――その子の名前は」

「タクヤって言ったよ、確か」

 由香里は従業員出口の扉から出ていこうとする三加茂さんを見た。



「待って! 三加茂さん!」

 建物から出た三加茂さんは、表通りの国道とは反対へ向かって走っていく。

 闇の中に、三加茂さんの小さな制服姿が溶け込んでいく。

 裏口から続くその道の先は行く手は行き止まりで、沼地の名残りの空き地がひろがっている。

 ホームセンターの敷地とは金網のフェンスで仕切られていた。フェンスの前に、等間隔で敷地内に向けて街灯が設置されている。光は空き地側へも漏れているが、先へ行くほど闇が増す。

 躊躇なく、三加茂さんは、その暗闇に向かって進んでいるように見えた。

 

 どこへ行くつもり?

「三加茂さん!」

 叫びながら、由香里は後を追った。冷えた夜の空気の中に、由香里の声が響く。

三加茂さんは振り返らない。フェンスにたどり着き、迷うことなく左手に向かった。

フェンスはところどころに穴がある。建物の裏側のせいか、修理されず放置したままのようだ。

 三加茂さんがしゃがみこんだ。空き地へ入るつもりだ。

 遅れてたどり着いた由香里も、その穴を目指した。

 空いていた穴は、人がようやく一人入れるかどうかぐらい小さかった。だが、入り易いように、フェンスのアルミの先端が折り曲げられている。


 ここから誰かが出入りしている?

 

 この先の空き地には、何もないはず。

 フェンスから離れると、途端に足元が怪しくなった。湿っている。整備されたと聞いているが、いまだ雨水が滞りやすい場所なのだろう。

膝上まで伸びる雑草を踏みしめて、由香里は先へ進んだ。足元は真っ暗だ。前を進む三加茂さんの制服の背中が、建物から漏れる光でかろうじてわかる。


「三加茂さーーーん」

 由香里は叫んだ。足元はますます悪くなっていく。このまま進めば、沈んでしまうのではないか。そんな恐怖に襲われる。

「来るなー!」

 三加茂さんが叫んでいる。

 いったい、どこへ向かおうとしているのか。

 ふいに、三加茂さんの背中が止まった。そして、消える。

「ど、どこなの?」

 泥に足を取られた。ねっとりとした泥に絡み取られて、足首から下が重い。

 そのとき、頼りない光の中で、しゃがみこんだ三加茂さんの姿が草の合間に見えた。

「来るな! 来るんじゃない!」

 あれは――。

 由香里は息をのんだ。

 三加茂さんの足元は、草の間に、ほんのわずかに土が盛り上がっていた。その上に、子どもサイズの青いスニーカーが、揃えられて置かれている。まるで、お供えものでもするかのように、きちんと揃えられている。


「タクヤの墓を誰にも汚させない」

 三加茂さんはそう言うと、青いスニーカーを胸に抱いた。

「お墓って、どういうこと……」

 足を泥から引きずりながら、由香里は前へ進む。

「三加茂さん、教えて! タクヤはなぜ死んだの?」

「誰にも知られるもんか。タクヤはこうして、あたしが供養してやってるんだ」

 こちらを見つめる三加茂さんの目には、異様な光があった。由香里を見ているようで、視線は虚ろだ。

「タクヤは化け物になってしまったんです。何とかしないと、大変なことになってしまうんです。タクヤはチーフを襲ってどこかへ行ってしまったんです!」

 目を覚ましたように、三加茂さんが由香里を見た。

「チーフを襲って?」

「もう、タクヤは、哀れで小さな霊じゃないの。タクヤは恐ろしい化け物になってしまったのよ」

「化け物……」

「タクヤは人を襲い始めた。三加茂さん、あなただって襲われるかもしれない!」

「そんなことがあるもんか。あの子はあたしのかわいい孫……」

 胸のスニーカーをふたたび土の上に置き、三加茂さんはスニーカーを掌で撫でた。

「あんたが真夜中に妙なことをしているせいで、何もかも台無しなんだよ! そっとしといて欲しいんだ。天井にぶら下がっったタクヤも、この墓も」

「――三加茂さん、み、視えてたんですか」

 頷いた三加茂さんは、うっすらと微笑んだ。

「タクヤを死なせてしまってから、あたしは何度もホームセンターに行ったんだよ。孫を探しているフリをするためだ。そして、何度目かのとき、見つけた。タクヤだった」


 この空き地には、水が溜まった部分とそうでない部分があるようだ。知っている者は、足を泥に取られないよう、土が乾いた場所を進むのだ。

 

 ようやく泥から抜け出して、由香里は三加茂さんの前に立った。

 三加茂さんが、怯えた目で由香里を見上げる。

「どうしてここに、タクヤのスニーカーを」

 由香里の問いに答えた三加茂さんの声は、優しかった。

「こうして揃えておいてやるんだ。いい子だったんだよぉ。どんなときでも、こうして行儀よく靴を脱ぐ子だった。あの子はここに戻ってくれば成仏できる。あたしはそう思ったからいつもここにこの靴を揃えて……。でも、あの子はずっとホームセンターの天井にぶら下がったままで」

「どうして、タクヤは死んだの?」

 由香里は青いスニーカーを見つめた。

「死なせるつもりなんかなかったんだ。かわいがっていたんだよ」

 九年前、三加茂さんの息子は国道沿いにうどん屋を開いた。夫婦が忙しいとき、三加茂さんが孫の面倒をみていたという。

「息子は新しい人生を始めようとしていたんだ。うどん屋を開くために、方々走り回って借金をしてさぁ。それまでは何をしてもうまくいかなかった。大体がこらえ性のない子だったから。あたしは必死に応援したんだよ。貯金も全部はたいた。うどん屋を始めるのを反対していた嫁なんかより、ずっと親身になって応援してやった。それなのに」

 三加茂さんが嗚咽を漏らす。

「店がうまく回り始めると、掌を返したように、息子たちはあたしを邪険にし始めたんだ。嫁ときたら、まるで、自分の支えで開店できたような気になってさぁ。繁盛するのは、自分の内助の功のおかげだって、吹聴する始末さ。経営には口出しするなって言い出したんだ。その上、いい年なんだから、そろそろどこかのケア・ハウスに入ったらどうかって。そんなときに、孫を事故で死なせてしまったとわかったら、追い出されると思った……」


「事故――事故だったんですか」

「あの日はホームセンターがオープンした最初の日曜日だった。オープン記念の風船が貰えるっていうんで、孫を連れ出したんだ。すごい人ごみだった。気がつくと、タクヤとはぐれていたんだ。タクヤは目の前の物に気を取られると、他の物が目に入らなくなる性分でね、何かおもしろい物でも見つけたんだろう。気づかないうちにあたしから離れてしまって」

 そして、三加茂さんは、売り場の中を探し回ったあと、駐車場へ向かった。案の定、タクヤは駐車場で右往左往していた。タクヤのほうでも、はぐれてしまった祖母を探していたようだ。

 三加茂さんは、自分が運転してきた車から離れた場所にいたタクヤを、車で拾おうとしたという。タクヤは駐車場の端のほうにいて、三加茂さんの車は店の入口のすぐそばに駐車してあったから。

「あたしは年だけど、運転には自信があったんだ。大きな事故を起こしたことはない。だけど、あの日は、車が多すぎて見通しが悪くてさぁ。タクヤがこっちへ駆け出してきたとは気づかなかった。そして、何かブレーキに違和感があって……」

 タクヤを轢いてしまったとわかって、三加茂さんはパニックを陥ったという。

「もちろん、すぐに病院へ連れて行こうと思ったんだ。でも、打ちどころが悪かったのか、タクヤは事切れていた。あたしは、若い頃、看護助手をしていた経験がある。タクヤが死んでしまったのはすぐにわかった。もう、病院へ連れていっても手遅れだろうと、すぐにわかった」

 タクヤを抱き上げて、しばらく三加茂さんは呆然としていたという。運がいいのか悪いのか、周りには人の姿がなかった。まるで、そこだけ音を失くしたように、しんと静まり返っていた。

 そのとき、三加茂さんは、目の前のフェンスの向こうに広がる空き地に気づいたのだという。


「あの頃、この空き地には、もっと水があってさぁ。背丈の長い草で覆われてたんだ」

 衝動的に、三加茂さんはタクヤをおぶって空き地へ向かった。誰もいなかった。水のあるところまで行き、水の中へタクヤを沈めた。

 タクヤが沈んだのを確かめると、三加茂さんはホームセンターの売り場に戻った。売り場の店員に、タクヤがいなくなったと慌てた様子で言いに行ったのは、三十分ほど経過してからにしたという。

夜になると、タクヤがいなくなったと騒ぎが始まっていたけれど、孫の姿を必死で探す祖母の行動に不審を抱く者はいなかった。

 都合よく、タクヤに似た子どもの姿を、国道のほうで見たという証言が出たせいで、はじめの数日は、空き地とは反対側を中心に捜索が行われた。

「あれからずっと、あたしはタクヤが見つかるんじゃないかとビクビクしながら生きてきたんだ。だから、店で幽霊話が持ち上がったとき、騒ぎが大きくなるのは困ると思った。どんな騒ぎでも、大きくなれば警察がやって来るかもしれない。警察が来て、もし、空き地を捜索するようなことにでもなれば……」

 幽霊騒ぎで警察が来るはずがない。だが、三加茂さんは警戒した。

「頭のおかしい霊媒師みたいな女が騒ぎ立てたとき、警察はやって来たから」

 アパートの隣の女だ。大家の話と合致する。

「だから」

 三加茂さんに見据えられて、由香里はたじろいだ。この人は、こんな恐ろしい目をする人だっただろうか。

「あんたが真夜中に居残っていると知ったとき、どうしてもやめさせたかった。あんたも、あの霊媒師女と同じように妙な騒ぎを起こすかもしれないと思ったから」


 丑三つ時は怖いよ。


 三加茂さんが呟いていた声が蘇る。


 ああして警告していたのだ。

「タクヤは沼の底に沈んだ。ところが、去年ぐらいから、なぜか沼の水が干上がってきたんだ」

 その噂を聞いた三加茂さんは、慌てて空き地へ行った。噂通り、水はかなり引いていた。なんとかしなくちゃいけないと思った。もし、沼底からタクヤが出てきたら、すべてが明るみになってしまう。

駐車場や空き地でたむろする不良たちの行動も、三加茂さんを不安にさせた。空き地でタクヤを見つけたら、あの不良たちは騒ぎ立てるに決まっている。

三加茂さんは、空き地に行ってタクヤの骨を探し出した。

「――見つかったの?」

 三加茂さんは、ゆっくりと首を振った。

「でも、このまま水が干上がったら、出てくるかもしれない。だから不良たちがホームセンターの駐車場でたむろし始めてから見張るようになった。見張るときは、あの子のスニーカーを置いて成仏してくださいと祈った」

「どうしてスニーカーを?」

「このスニーカーは、あの子が死んでしまったとき履いていた靴なんだよ。水の中に沈めたとき、スニーカーが脱げて浮かんだ。それを見たとき」

 三加茂さんが、両手で顔を覆う。

「かわいそうなことをしたと……。だから、ずっと捨てられなかった」

「……」

 タクヤが死んだのが事故だったのは、ほんとうだろう。だが、その後の行動は、息子夫婦に見捨てられたくないという保身のためだ。身勝手な行動としか言えない。

「どうして――どうして早く成仏させてあげなかったの? あんなさびしい場所にぶら下がったたまま……」

 三加茂さんが目を大きく見開いた。

「祈ったよ。呼んだんだ、何度も。だけど、あの子はあの場所から動けなかったんだ」


 命の水があったからだ。


 由香里は思った。あの湧き水があったから、タクヤは蘇り動き出せた。


 三加茂さんが、のろのろとスニーカーのほうへ進んでいく。

「もう一度会いたい……」

 その呟きを耳にした途端、由香里は胸に下げたボトルホルダーを掴んでいた。

――二度とあんたの霊に与えんことじゃ。

 神社の老婆の言いつけを、由香里は破ろうとしていた。いけないとわかっている。だが、この気持ちは抑えられなかった。

 ペットボトルの蓋を外し、スニーカーに注ぐ。

 息を詰めて、見つめた。三加茂さんは呆然としたままだ。

 スニーカーがわずかに動いた。控えめながらむずむずと、震え始める。

 足首が見え始めた。タクヤが現れようとしている。人の姿が、徐々に上へ。膝から、そして胴体へ。

「――タクヤ?」

 三加茂さんは、呻き、泥の上に膝をついた。

 よかったのだ、これで。

 涙を流す三加茂さんの隣で、由香里も泣いていた。

 

 タクヤ、おばあちゃんだよ。

 

 だが。

 タクヤは、三加茂さんや由香里の知るタクヤの姿とは様変わりしていた。もう、そこに立つのは、小さく哀れな子どもの霊ではない。

 醜悪な姿だった。髪はとぐろを巻くようにうねり、雫を垂らしている。つり上がった目はさらに大きくなり、口は裂け、長く伸びた尖った歯を覗かせている。奇妙に長く伸びた手足は泥をまとい、蛙のヒレのように見える。


「ひー、ひいっ」

 三加茂さんが叫んだ。タクヤの姿がはっきりしてくるにしたがって、タクヤの後ろに倒れている志穂美の姿も見えてきた。体を九の字に曲げている志穂美は、血まみれで息絶えている。

 間に合わなかったのだ。タクヤは志穂美を殺してしまった。絶望感に襲われたとき、

「ずううぅうおおぉ」

 低い唸り声とともに、タクヤが三加茂さんに覆いかぶさった。


「やめて! タクヤ!」

 由香里は叫んだが、タクヤの動きは止まらない。獣のように三加茂さんに食らいつく。

「やめて、タクヤ! やめてえええ!」

 由香里は三加茂さんの足を掴んで引っ張った。が、即座に引っ張り返される。ものすごい力だった。小さな子どもの力ではない。

 タクヤの鋭い歯が、三加茂さんの肩に食い込んだ。

「ぎゃああああ」

 三加茂さんが目を剥いて、叫んだ。


 ああ。

 タクヤは本物の化け物だ。志穂美を襲ったときよりもさらに、醜い化け物になってしまった。


 由香里の目に涙が溢れた。初めて由香里の前へ現れたときの、不確かな姿。さびしそうな姿。頼りなくよるべなく、由香里の横に擦り寄ってきた小さな子ども。小さな魂。

「ごめんね、タクヤ」

君はあの世へ戻らなくては。

でも、どうすれば。

 シャクシャク

 タクヤの咀嚼する音が響く。三加茂さんの片側の肩は、もうなかった。由香里の歯がガチガチと鳴り出した。三加茂さんをたいらげたら、タクヤは由香里に向かってくるだろう。

 ああ、どうすれば。

 どうすれば、タクヤを成仏させられる?


 風が吹き、ザワザワと草が揺れた。背後に視線を投げたとき、平らな水面がちらりと見えた。まだ、沼に水が残っている場所があるようだ。

――わしが投げた命の水を追って

 狭間神社の老婆は、たしかそう言った。

――二人は川へ入り、水に飲まれながら成仏していった

 老婆の息子たちは、そうして消えていったと、あの老婆は言った。

 息子たちは、川に溺れて死んだ。だから、川へと帰っていった。タクヤは、この沼に三加茂さんによって沈められた。それなら、タクヤが帰る場所は、ここ。この沼、しかない。

 由香里は首から下げたペットボトルを掴んだ。

「タクヤ! 見て!」

 ペットボトルを首から外すと、由香里は頭の上に掲げた。

「君のために汲んできた水よ!」

 タクヤが咀嚼を止めて、顔を上げた。つり上がった目が、ペットボトルを見る。

「飲んで。もっと飲んで!」

 言いながら、由香里は沼のほうへ後退する。


 ドサリと三加茂さんを腕から落とし、タクヤが立ち上がった。

「もっとおいで、こっちへおいで」

 由香里はズブズブと音をさせながら、足を運んだ。足首から膝下へ、氷のように冷たい水に浸される。

 構っていられなかった。タクヤを沼の中へ。その一心で由香里は後退していく。

 タクヤが近づいてきた。水は由香里の腿まで来ている。

「タクヤさよなら」

 水が胸まで来たとき、由香里はペットボトルの蓋を取って、そのままボトルを遠くへ投げた。

 ボトルは弧を描いて飛んでいく。

 タクヤがペットボトルを追って、水の中へ入っていった。小さな体はみるみるうちに水に浸され、うねった髪が水面に広がる。


「あぐうぅ」

 奇妙なうめき声を上げて、タクヤは沈んでいった。水面が波立つ。

「さよなら! タクヤ」

 声を上げたとき、由香里の足元が深く泥にはまりこんだ。

「あっ」

 ずるりと体が引っ張られるように、由香里は水に沈んだ。

げほげほっ。

 砂を含んだねっとりとした水が口に入り込んでくる。

 由香里はもがいた。死ぬわけにはいかない。まだ、やらなければならないことがある。

 由香里は懸命に水を掻いた。

 

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