第28話
第四章
ポク、ポ、ポクポクポク。
地獄へ落ちろ。
ポクポ、ポク、ポクポ。
闇へ落ちろ。
責めるように音が響く。
待って、行かないで。
「タクヤ!」
自分の叫び声で目が覚めた。
木魚を叩く音が聞こえてくる。絶え間なく攻めてくる。
朝が来たのだ。由香里は布団の脇に転がったスマホを掴み、時刻表示を見た。
午前七時二十四分。
ポク、ポポククポク。
音が不安を蘇らせる。
まさに悪夢だった昨晩の出来事が、蘇る。
涙がこみ上げてきた。タクヤの恐ろしい形相、志穂美の無残な姿。フラッシュバックのように、惨劇が蘇る。
このままでいいはずはなかった。タクヤの行方を探し出さなければ。そして志穂美を助け出さなくては。
ポクポクポク、ポク。
うるさい!
タクヤの向かった場所なんか、わかりっこない。タクヤはあの世のモノだ。どこか、人間にはわからない暗闇の中へ志穂美を引きずり込んでしまったとしたら……。
ああ、どうしたらいいの。
ポク!
一際大きく木魚が叩かれた。
由香里はガバと起き上がった。
「あ」
右の方から肘にかけてひどく傷んだ。タクヤが志穂美を咥えてどこかへ行ってしまった後、フロアに落ちた志穂美の血を拭った。範囲は思ったよりも広く、元通りにするには時間がかかった。必死にモップを動かしていたときは気付かなかったが、力を込めすぎた右腕の筋を違えてしまったようだ。
腕をさすりながら、由香里は隣へ通ずるドアを叩いた。
「ちょっと!」
穏やかな物言いをする気はなかった。する余裕もない。
音は止まない。ドアに耳を付けてみた。何やらわけのわからない声も念仏も聞こえる。カッと頭に血が上った。由香里は足でドアを蹴った。
「うるさいって言っているのよ!」
乱暴にドアが開いて、女が姿を現した。ふてぶてしい表情で由香里をねめつける。
「いい加減にして! 迷惑よ!」
もう、遠慮するつもりはなかった。もう、こんな部屋、出てやる。志穂美をあんな目に遭わせて、この町にはいられない。こんな女にどう思われようと構わない。
叫ぶ由香里とは裏腹に、女は落ち着いていた。
「うるさいって?」
「そうよ。人の迷惑を考えなさいよ。朝っぱらから――」
ふふふと女が笑い声を漏らした。
「な、なんなの?」
もう、無理。由香里は指先でこめかみを抑えた。理解を超えている。そう、何もかも理解を超えている。
「あんたのためにやってるんだよ」
女は木魚を叩いていたバチを、由香里の鼻先に突きつけた。
「迷った魂を成仏させるために念じてるんだ」
「――迷った魂」
「あんた、あのホームセンターで取り憑かれただろ」
「ど、どうしてそんなこと――」
「あそこには成仏してない魂が巣食っているから。そいつがあんたに取り憑いたって、あんたの顔を見ただけでわかった」
「な、何を言っているの」
こんなおかしな女の言うことをまともに聞いてはいけない。この女は、自分で作り上げた妄想をただしゃべっているだけだ。
「かわいそうな魂なんだ。だけど、子どもの魂は案外恐ろしい」
「え」
冷水を浴びせられた気がした。
「し、知っているの?」
ふふふふと、ふたたび女は笑い、それから女の目は据わり、由香里を見据えた。
「あの子をね成仏させてやれと、何度も言いに行ったけどね、誰もあたしの言うことを聞きゃしなかった。馬鹿な連中だから」
三加茂さんたちが噂していた胡散臭い霊媒師というのは、この女のことだったのだ。
「成仏させてやらないとね、そのうち大変なことが起きるって忠告してやったんだ。それなのに」
「あの子は――あの子はどうして成仏できないの?」
「殺されたんだ」
「殺された?」
「そう。そして土に埋められているんだ」
「――そんな」
タクヤの吐く腐った土の臭いの息が蘇って、由香里は思わず両手で鼻を覆った。
「暗い土の中にね、もう、九年もいるんだ。成仏できないまま――」
「――九年? 九年前に殺されたの?」
女は頷いた。
「誰に、殺されたの?」
由香里がそう返した途端、女の目が忙しなく瞬きを繰り返し、唇が震え始めた。
「雅彦だよ! 雅彦が殺したんだ!」
「雅彦? 雅彦って、誰」
女の目が異様に光って、今にも失神しそうに思えた。女は両手で頭を抱える。
「ああ、あの子を殺したんだ!」
「だから、雅彦って、誰なの?」
「北野だよ! 北野雅彦!」
「北野雅彦? ホームセンターの社長の?」
女がよろめいた。ドアにもたれて、苦しそうに息をする。トンと、女の手からバチが足元に落ちた。
やっぱりこの女はおかしい。なぜ、北野社長の名前が出て来るのだ。
由香里は大きく息を吐いた。
こんな女を相手にしている場合じゃない。由香里はドアに手をかけた。その手を女に掴まれる。
「あの子はね、北野を恨んでるんだ。だから、あの場所にいるんだ」
「いい加減にして!」
由香里は女の手を振り払って、ドアを力強く閉めた。
北野社長を恨んでいるなんて。
――頑張ってますね。
そう声をかけてくれたときの北野は、穏やかな笑顔だった。。
北野がタクヤを殺したなんて。
ブルルッと由香里は首を振った。あんな女の妄想に惑わされている場合じゃない。
だけど。
由香里は我知らず立ち止まって、殺風景な部屋の壁を見つめた。
タクヤはなぜ、あの場所に浮遊しているのだろう。
ほかの場所ではなく、なぜ、あのホームセンターなのか。
元は沼地だったというあの場所。あそこに、タクヤの魂が留まる特別な理由があるのだろうか。
もしかして。
由香里は壁にある画鋲を抜いた痕の小さな穴を見つめた。
隣の女が言うように、タクヤはあの場所で北野に殺された?
ううん、有り得ない。
殺人を犯した場所で、あんなに落ち着いていられるはずがない。
ポク、ポク、ポク
ふたたび木魚を叩く音が聞こえてきた。
あんな女の妄想に振り回されている場合じゃないのだ。
タクヤの居場所を突き止めなくては。そして、志穂美を取り戻さなくては。
それにはどうしたら、どうしたらいいのか。
答が出ないまま、由香里はのろのろと支度を始めた。昼間の仕事へ行く時間だ。
眠ってでもできそうな単純作業なのに、今日の由香里は何度もミスを繰り返した。体が小刻みに震える。鳩尾から吐き気が何度もこみ上げてくる。
ふと気づくと、タクヤの行方を考えて手が止まっていた。由香里は対となって作業するおばさんに何度も謝って仕事を続けた。
昼の休憩時間に、由香里はホームセンターへ電話をかけた。昨夜の惨劇がバレていないか、そして、欠勤しているはずの志穂美を、社員たちがどう捉えているか探るためだ。
警備室に電話し、新さんに訊いてみようかとも思ったが、思い止まった。タクヤの存在を知っている新さんだ。何か勘繰られるかもしれない。
電話に出た事務の女の子の声は、穏やかだった。何か問題が起きている様子はなかった。ひとまず由香里は胸をなで下ろした。懸命に拭ったおかげで、血の痕は気づかれていない。今ほど、清掃員でよかったと思ったことはなかった。売り場の販売員では、ああも徹底的に血痕を拭い切れなかっただろう。強力な洗浄剤が手元にあったのが幸いした。
由香里は今夜のシフトのことでチーフと話がしたいと告げた。女の子は、事務的な声で、
「今日、チーフは欠勤されております」
と言った。
「そうなんですか? 話す約束をしていたんですけど。どうしてお休みされたのかわかりますか」
嘘を交えて、由香里はとぼけた声を出した。
「それがぁ、わからないんですぅ。連絡もないままで」
特に不審がっているふうもなかった。無断欠勤が一日目だからだろう。安堵が押し寄せてきた。
今日中になんとかしなくては。
由香里はスマホをポケットにしまい、仕事に戻った。
終業時間を迎えると、由香里は真っ直ぐホームセンターへ向かった。早すぎる出勤だが、いてもたってもいられない。志穂美の血を拭った売り場のフロアも確認したいし、ともかくいつものように一度アパートに戻って休憩をする気にはなれない。
土手道を進んでいくと、神社が見えた。いつもなら、寄って湧き水を汲んで向かうのだが、もう、由香里は湧き水を汲む気にはなれなかった。あの水で、タクヤは力を得た。これ以上タクヤを成長させるわけにはいかない。胸にはいつも通り、ボトルホルダーにペットボトルがあるが、自分用だ。
さびしかった。タクヤの成長があんなに楽しかったのに。タクヤのためを思ってしたことが、こんな結果になるとは。
そう思ったとき、由香里はふと、立ち止まった。
――困ったことになったら、わしのところへ来るんじゃ
そう言った声が聞こえた気がした。
狭間神社で出会った老婆の声だ。
困ったこと。こうなることを、あの老婆は見抜いていたのだろうか。
まさか。
由香里は遠くに見える神社の鎮守の森を見つめた。
あの人は、ただのおばあさんだ。年寄りが若者に、ちょっと呟いただけのこと。
でも。
もしそうだとしても、この事態を打開するヒントをもらえるかもしれない。あの老婆なら、タクヤに与えた湧き水について何か知っているかもしれない。湧き水について知れば、この事態を収集する何かが見つかるかもしれない。
由香里は土手道を下り、神社を目指した。
今日の境内は静かだった。
子どもたちの姿も見えないし、散歩をする人の姿も見えない。参道の石畳が冬のさびしい光に薄く浮かびあがっている。
本堂の前で曲がり、枝を垂らした紅葉の下をくぐって、空を見つめる狛犬の脇を通り抜ける。
命の水は、今日もこんこんと湧き出していた。老婆の姿はなかった。由香里はため息をついてから、湧き水の溜まった石桶に指先を浸した。冷たかった。刺すように冷たい水だ。
この水が、タクヤを化け物に変えてしまったのだ。タクヤのつり上がった目や尖った歯を思い出して、由香里は悲しくなった。この水さえ与えなかったら、あの子はごく普通の子どもの霊でいられただろうに。
この水のせいで。
由香里は両手を石桶に置くと、力を込めて揺さぶった。
こんなものなくなってしまえばいい。
いくら力を込めても、石桶はびくともしなかった。前後に押しても左右に押しても一ミリも動かない。いたずらに両手が濡れるばかりだ。
諦めきれなかった。
これは命の水なんかじゃない。そう思える。これは、魔物を呼び覚ます水だ。この世にあってはならない水だ。
そうだ。埋めてしまえば。
由香里はしゃがみこんで、背後の砂利を両手に掬った。それを石桶の中に入れる。何度も繰り返した。両手で掬える砂利はわずかな量で、何度繰り返しても水は減らない。それでも、由香里は続けた。こうしていると、ほんの少し、不安が遠ざかる。
「やめとけ!」
ふいに、背後から怒声がした。
はっとして振り返ると、狛犬の脇に人が立っている。
あの老婆だった。
「大切な湧き水に何をする!」
「おばあさん!」
由香里は立ち上がって、老婆に走り寄った。
「おばあさん、教えて。どうすればいいのか、わたし……」
老婆の小さな体に覆いかぶさるように、由香里は老婆の前に立った。
「大変なことになってしまって、わたし、どうしたらいいのか……」
「湧き水を与えたな」
由香里は俯き、唇を噛んだ。
「返事をせんでも、あんたを見れば、あの世のモノに湧き水を与えたとわかる」
そして老婆は、憐れむような目になった。
「そんなに痩せて……まるで別人じゃ。それにその肌にできた茶色いシミは……」
ああ。由香里は両手で顔を覆った。
「あんなことになるとは思ってなかった。ただ、あの子の変化が嬉しくて」
「――あの子?」
眠っているようだった老婆の目が見開かれた。
「子どもの霊です」
老婆が口元を引き締めた。
「真夜中のホームセンターで、わたしは子どもの霊を見たんです。八歳くらいの男の子だった。青いスニーカーを履いた普通の男の子だった。はじめはうっすらとした姿だったけど、偶然、わたしのペットボトルからこの湧き水がこぼれて。そしたら、男の子の姿がはっきりしてきた。それで、わたし、この湧き水をもっとあげた。そしたら、男の子はいろんなことができるようになって。わたし、嬉しくって――」
堰を切ったように、由香里はしゃべり出した。自分でも止められなかった。
老婆が首を振る。
「信じて、おばあさん。ほんとうのことなの。この湧き水で、あの子は成長していったのよ。少しずついろんなことができるようになっていったのよ。頼もしかった。わたしの味方ができたみたいに思えた。でも――」
由香里は涙を拭った。見ず知らずの老婆に訴えてどうなるものでもない。ただ、由香里は言わずにはいられないのだ。昨夜の恐怖。この最悪の事態。
「あの子はわたしの知らないところで、変わってしまった。わたしのところだけに現れると信じていたのに――違った」
ああ。
あんな裏切られ方をするなんて。タクヤはわたしだけのモノだと思っていたのに。
「あの子は、わたしの知らないところで――化け物になってたんです。そして、とうとう」
「とうとう、どうした」
「人を殺そうとしたの」
由香里はしゃがみこんで呻いた。後悔の波が押し寄せる。志穂美を襲って欲しいと頼んでしまった。あんな恐ろしい化け物になっているともわからず。
由香里は老婆にすがった。
「どうしたらいいの? あの子を呼び戻すにはどうしたら――」
「呼び戻して、どうする」
「あの子は襲った人をどこかへ連れてってしまったんです。あの子を見つけて、襲われた人の命を救わないと」
老婆が首を振った。
「おばあさん!」
由香里は老婆の肩を揺すった。
「困ったことになったら、わしのところへ来いと言ってたじゃありませんか。あの子を呼び戻す方法を知っているなら教えてください」
老婆が天を仰いだ。
「この狭間神社はな」
老婆の視線の先には、暮れかけた空がある。今日は曇り空だ。墨を滲ませていくかのように、空は夜に向かっている。
「忘れられた神社じゃ。神主もいなければ、氏子もいない」
意外だった。そのわりには、参道はいつも掃き清められていたし、本堂だって――。
振り返り、由香里は本堂を見た。木立の合間から見える本堂は、そう言われてみれば、老朽化が著しい。屋根瓦は崩れているし、柱も腐っているのか、ところどころに窪みがある。いままで気づかなかったのが不思議なくらいだ。ここは棄てられた場所なのだ。
「ここはわしが守ってきた。あのことがあってから」
老婆は目を細める。
「わしは二人の息子を亡くした。ずっとずっと昔のことじゃ。この地方を大型の台風が襲い、この町を流れる川が氾濫し、川の西側が水浸しになった。わしの家は、東にある。それで助かったが、二人の息子は、西側に造成された新しい場所で、それぞれ所帯を持っておった。ひとたまりもなかった。息子たちは家族と共に流され、今も行方がわからない」
「――そんな」
「わしは諦めなかった。幾日も川べりを歩き、息子たちを探した。だけども……」
老婆の細い目に、涙が滲んだ。
「見つからんかった。息子たちの身につけておった上着一つ、見つからんかった」
夜が落ちてきた。頭上で烏の声がする。
「ところが、息子たちが流されてから何十年も経ったある夜、わしは、息子たちに会えた」
「えっ」
由香里は老婆を見つめた。嘘を言っているようにも、妄想を口にしているようにも見えない。
「この神社で、会えた。ある夜、ここへやって来ると、息子たちが本堂の脇に」
思わず、由香里は本堂を振り返った。
「あの本堂の脇に、銀杏の木があるじゃろ。あの木の陰に、二人の息子がうずくまっておった」
「――まさか」
言葉とは裏腹に、由香里にはその光景が見える気がした。初めてタクヤを見つけたときと同じように、二人の息子は、ただそこにいたのだろう。
今、銀杏の木は、黒い影となって闇に溶け込んでいる。
「あの頃から、神主がおらんせいで、この神社は打ち捨てられたままだった。近寄る者はおらんかった。あの夜、わしがなぜここへ来たのか、その理由はわからん。風呂から出たあと、すぐに布団に入った。毎日息子たちを探し回るせいで、体は疲れておった。だけども、その夜に限って、わしは眠れなんだ。なぜか、表の物音が気になって、目が冴えてしまった。犬の鳴き声がしとったわ。くうううんとな、妙に耳に残る声でな。西田の家の犬だろうと思った。西田いうのは、わしの家の前の畑を挟んだ場所に建つ、じいさん一人暮らしの家じゃ。その犬の声やった。おとなしい犬で、滅多に吠えん。それが、奇妙な鳴き方をしておる。じいさんに何かあったのかもしれん。わしはそう思って、起き上がって家を出た」
蝙蝠か、鳥か、木々の合間をすり抜けていく。由香里は寒さを忘れて、老婆の話に耳を傾けた。
「西田んとこの犬が、なぜか鎖を外されて道におった。わしが近づいていくと、歩き出した。わしは、犬を捕まえようと思った。じいさんは犬をかわいがっとった。あの犬はじいさんの唯一の家族じゃ。犬がおらんようになったら、じいさんはさぞかし悲しむだろう」
老婆は深く息を吐いた。嗄れた両手で、目頭を拭う。
「犬はまるで酒に酔っとるみたいじゃった。大体が年老いた犬じゃ、すぐに捕まえられると思ったが、犬との距離はどんどん離れていく。犬は土手道を進んでいった。呆【ほう】けたような歩き方のくせに、どこか行く場所を決めているような、奇妙な進み方じゃった。時折、わしを振り返ってな。まるで、わしを誘導しておるかのようで。気がついてみると、この神社に来ておった」
「そして――見つけたんですか」
老婆は頷いた。
「間違いなく、わしの息子たちじゃった。生気がなく、体全体が蜻蛉の羽のようじゃったが」
蜻蛉の羽。
初めてタクヤを見たときと同じだ。タクヤの体はセロファン紙でできているかのような心もとなさだった。老婆の言葉は信じられる。由香里はもう、老婆を疑えなかった。
「息子たちは変わってしまっておった。生気がないだけじゃない。肌は青緑色で目は黒い穴のようじゃった。わしが近づいていくと、水をくれと言った」
「――水を」
「そうじゃ。それで、わしは神社に湧き水が出ているのを思い出して汲んできた。手水舎の柄杓を手にして、何度も、何度も、湧き水を汲んで息子たちに飲また」
老婆の顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「息子たちはごくごくと飲んだ。飲んでも飲んでも飲み足りないようじゃった。それから毎晩な、わしはここへやって来て、息子たちに湧き水をやり続けた。息子たちの体が、だんだんとはっきりしていってな。昔のように、上の子はおとなしく、下の子は利かん気な顔つきに戻っていくんが嬉しゅうて」
老婆の小さな体が影になった。すっかり日が落ちたのだ。寒さは増している。
「息子たちがこの世のモノでないと、わしにはわかっておった。それでも、わしはここへ二人に会いにやって来た。湧き水をやり続けた」
老婆も、してはならないことをしてしまったのだ。
老婆の声が哀切を帯びる。
「わしと同じことをせん親がおるか? この世に戻ってきた息子に、会わずにすむ親がおるか? わしはここに来続けた。息子たちが、どんどん違う姿に変わっていっても、湧き水を与えずにはおれんかった」
「息子さんたちは――どんな姿に」
急に、老婆の姿がしぼんだかに思えた。小さな体がいっそう小さくなったように思えた。
「――化け物じゃ」
老婆はぽつりと呟いた。
「肌はただれてな、目はつり上がってな、歯が」
タクヤと同じだ。由香里は先を聞くのが辛かった。
「獣のように大きく尖ってな。地の底から響くような唸り声を上げるようになった。それだけじゃない。小さな生き物を捕まえてな、貪【むさぼ】り食うようになった。鼠、雀、烏。あげくは、迷い込んできた犬や猫まで」
「そんな」
タクヤもそうなるのだ。
「湧き水を与えたわしのせいだ。会いに来てくれた二人に感謝し、何もせず、別れを告げればよかったんじゃ。そうすれば、二人は成仏できたじゃろうに」
由香里とタクヤの場合と同じだった。ということは……。
「おばあさんも、変わっていきましたか」
由香里の問いに、老婆は呆けたような目を返した。
「あの子が化け物に成長していくにしたがって、わたしに変化が起きたんです。体重がどんどん減って、体から水分が抜けていきました。肌にはあの子の肌と同じような土色のシミができ始めて、挙句に、右足の小指が――小指がなくなってしまったんです」
「わ、わしは」
おばあさんがうろたえた声を上げたとき、背後で犬の吠える声がした。
振り返ると、初老の男性が犬を連れている。散歩の途中にこの神社に寄ったのだろう。
犬はけたたましく吠え立てながら、由香里と老婆のほうへ近づいてくる。ウーッウーッと唸る声が殺気を帯びている。
「おいおい、どうした」
リールを引っ張った男性が、ふと立ち止まった。
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