第25話 第三章
第三章
体に力が入らない。
背中に重い砂を背負っているように、全身に倦怠感がある。
土手道には、冷たい風が吹いている。その風が肌を刺す。冷たさが骨に沁みる。
川は水かさが少なかった。このところ晴れが続いているせいだ。対岸の工場が見えた。おそらく鉄工所か何かだろう。キーン、キーンと機械音がする。
人の気配が感じられるのはその工場だけで、まわりは田んぼや畑が続いていた。そしてさびしい田舎の風景は、山まで続く。
小さな町だった。山に囲まれた狭い世界だ。
この町に来てから、そろそろ一年になろうとしている。
日々眺める風景は何も変わらなかった。
だが、自分は変わった。
由香里はそう思う。
一年前の由香里を知っている者なら、その変化に驚くはずだ。白髪染めをやめた髪は真っ白で肩よりも長く、痩せたせいで、肘や膝の骨が目立つ。
体重が減ると、歩き方にも変化が現れた。猫背気味になった由香里は、もう二十代には見えない。今、もし目の前に、別れた夫の慎吾が現れたら、由香里のことをわからないだろう。
ホームセンターには、普段よりも三十分早く着いた。西日が照りつけ温もったドアを押すと、警備室に新さんがいた。新さんは瞬間顔を強ばらせ、それから手元の書類に視線を落とした。おはようございますと、声だけが警備室の硝子越しの窓から聞こえてくる。
きっと嫌われちゃったんだな。
由香里はそう思った。
タクヤの存在のせいだ。幽霊の子どもを夜な夜な蘇らせ、接触をはかる不気味な女。新さんはそう思っているだろう。職場で心を許せるのは、萌のほかに新さんだけだったのに、その新さんの心は離れてしまったのだ。
さびしかったが、仕方ないと思った。タイミングが悪かったのだ。タクヤさえ現れなかったら、二人の仲は進展したかもしれない。
ロッカールームに入ろうと廊下を進んだ。前から売り場の制服を着た女の子二人組がやって来る。何やらヒソヒソと話している。
「おつかれさまです」
いつものように声をかけた。その拍子に、ぴたりと二人の会話が止まる。
「おつかれさまです」
二人のうち一人が、慌てたように返事を返した。その表情がどこか怯えているように見える。
どうしたんだろう。
二人は由香里を避けるように壁に寄って歩いていく。由香里とすれ違うとき、もう片方の女の子が、
「怖い、あの人でしょ」
そう言ったのがたしかに聞こえた。そのまま女の子たちは、足早に去っていく。
あの人というのは、自分を指しているのだろうか。由香里はわけがわからなかった。といって、呼び止めて訊く勇気はない。何か、悪いことに巻き込まれている予感がする。
ロッカールームに入っていくと、悪い予感は当たった。由香里が扉を開けた瞬間、ロッカールームで交わされていた会話がぴたりと止んだのだ。ロッカールームは混んでいる。早く着いたせいで、売り場の従業員たちの上がりと重なったようだ。
由香里は自分のロッカーに向かった。その由香里を、全員が注視しているのがわかる。もしくは、由香里を見ないふりをして見ているのがわかる。
自分のロッカーを開けたとき、
「ちょっと、あんた」
と、沈黙を割いて、声が上がった。同じ清掃員の庄司さんだった。
庄司さんが、由香里に話しかけてくるのはめずらしい。庄司さんは、よそ者とは話したがらないのに。
顔を向けると、庄司さんが日焼けした顔を歪めていた。
「あんた、どっから来たの?」
由香里は目を丸くした。
「どっからって、どういうことですか」
「だから、この町に来る前はどこにいたのか、訊いてるの」
みんなが由香里の答を待っているのがわかった。どこだと言うべきだろうか。生まれた街? それとも、ここに来る前に暮らしていた町?
迷っていると、庄司さんが焦れったそうにブルルッと首を振った。
「ああ、もう、どこでもいいよ。あたしたちが知りたいのは、あんたが何者かってこと」
「何者?」
由香里は呆然と庄司さんを見返す。
「そうだよぉ。あんた、お化けとしゃべってるらしいじゃないの」
「お化け?」
庄司さんが、怯えた目で頷く。
由香里は助けを求めるように、ロッカールームのみんなに視線を送った。すぐに視線を逸らす者。怯えた目で見返す者。皆、一様に固唾を飲んで由香里の答を待っている。
「あんた、真夜中、幽霊と交信してるって」
あっと由香里は小さく叫んだ。タクヤのことだ。
由香里は息を詰めた。見られていたのだ。タクヤと話しているところを。
人がいないのを確認して居残ったつもりだったが、見回りに来た警備員に見られたのかもしれない。
――残って何してるんですか。
そう言った新さんの顔が蘇る。
彼がみんなに噂を流したのかもしれない。邪険にされた腹いせに、由香里が奇妙な行動を取っていると言ったのかもしれない。
もし、そうだとしたら、新さんも敵になってしまったということだ。
「気味が悪いったらないよ!」
庄司さんが声を荒らげた。
「ここんとこ、売り場に幽霊が出るってみんな言ってる。売り場の女の子の中には、怖がって遅番に入りたがらない子もいるんだよ!」
うん、うんと、まわりで頷く声がした。
「あんただけだ、怖がってないのは」
「――それは」
みんなが恐れている霊を、蘇らせてしまったのは自分。狭間神社の水を与えて育てているのは自分。
絶対に口にできない。由香里は俯いて唇を噛み締めた。
沈黙が流れた。息苦しいうような沈黙。
「ここはさあ」
庄司さんが、声を低める。
「因縁のある場所なんだよぉ」
「えっ」
由香里は思わず顔を上げた。
「あんたはよそ者だから知らないかもしれないけどさ、ここにこのホームセンターが建つ前は沼でね」
「沼……」
「そう。湿地が広がってたんだよ。川の土手からこの店の前の国道まで。イグサがびっしり生えてなあ、薄気味悪い場所だったんだ。水が溜まった場所は、そう広くはなかったけど、真ん中あたりにあった。この辺りのもんは、底なし沼だって言ってた。うちの年寄りが言うには、ずっと昔からあったそうだよ。まだこの辺りが村だった頃からあったらしい」
「うちのおばあちゃんも言ってました」
由香里と庄司さんを囲む輪の中から、売り場の女の子の一人が声を上げた。まだ売り場の制服を着ている。女の子というより、若いママかもしれない。
庄司さんは、彼女へ顔を向け、頷いてから続ける。
「底なし沼だからさ、みんな、いろんなものを捨てに来たんだ。きったなくて、臭くて、嫌な場所だったって。国道が整備されてからは、ひどかった。山に入る手前の場所で、昔はまわりに木が鬱蒼としてたから、こっそり捨てるのにちょうどよかったんだ。タイヤや自転車なんかが捨てられてたよ。草の間から、なんか光るもんが見えると思ったら、車のミラーだったりしてなあ。だから、幽霊も出るなんて噂もあって」
ここで庄司さんは、ふううと息を吐き、まわりを見回した。みんなの注目を集めて得意になっているのがわかる。
ところが、横から三加茂さんが割って入った。庄司さんと二人で、清掃員の平均年齢を上げているおばあさんだ。
「馬鹿馬鹿しい! 因縁なんか何にもないよ!」
庄司さんがばつが悪そうに、目を瞬く。
「底なし沼ってのはほんとだったんだ。だから、子どもが遊びで近寄ると危ないだろ? それで大人たちがそんな噂を流したんだよ。あたしはここのオープン当初から働いてるけど、なあんにも恐ろしいことなんかなかったよ」
なあんだと、売り場の女の子たちから声が漏れた。
勢いを削がれた庄司さんだったが、負けてはいなかった。
「だけど、質屋の事件があったじゃないのよぉ」
「ああ、あれね」
三加茂さんが頷く。
由香里はごくりと唾を飲み込んだ。聞きたくない。そう思うが、聞かなくてはとも思う。
その事件があったのは、五十年ほど前らしい。
「駅裏に、昔は繁華街があってなあ」
この小さな町にも、栄えた時代があったという。町の外側の国道沿いに、ショッピングモールや全国チェーンの飲食店が立ち並ぶ前らしい。人の流れが変わったのは、五十年ほど前の話で、今では閑散としたゴーストタウンになってしまっている。
「そこで事件が起きて。四人も人が殺された」
キャッと、誰かが叫び声を上げた。庄司さんは、ちらっと声のしたほうへ顔を向けてから、続ける。
「殺されたのは、質屋の一家だった。老夫婦と養子に入っていた夫婦の四人。犯人はすぐに捕まった。夫婦養子の息子だったな?」
顔を向けられた三加茂さんが、渋々といった表情で頷く。
「有名な事件だよぉ。一時は全国から新聞社やテレビ局が取材に来てさ、こんな小さな町が一躍注目の的になった」
四人を殺したその息子はしれっとした顔で、しばらく質屋で暮らしていたという。まわりには、四人はどこかへ出かけてそのまま戻って来なくなったと言っていたらしい。
犯行が明るみになったのは、息子が親の年金をだまし取っていたのがわかり、警察が動き出したからだった。警察に追及されて、息子はすぐに四人の殺害を自供したが、四人の遺体の場所については口をつぐんだままだった。そうするうち、息子が自殺したせいで、遺体は行方不明のままになってしまった。おそらく、今なら、いろんな捜査方法があって見つけられたのだろうが、当時はまだ犯人の自白に頼っていた。遺体が見つかったのは、半年近くもたってからだったという。
「いやあ、一年はたってだろ?」
庄司さんが言うと、そうだったかねと三加茂さんは首を傾げ、ああ、そうかもしれないと言い直した。そして、睥睨するようにまわりを見回すと、きっぱりと言った。
「その四人の遺体が見つかったのが、ここの沼なんだよ」
キャッと、また女の子の誰かが叫び声を上げた。それから、この場にいる全員が示し合わせたように押し黙る。
由香里も、言葉を失くしていた。
もしかして、その殺された四人の中の一人がタクヤなのだろう
か?
いや、違う。それは有り得ない。三加茂さんによると、殺されたのは老夫婦とその夫婦養子の夫妻だという。小さな子どもではない。
「道路を通すために、湿地の整備が行われることになって、市が雇った建設会社が調査を始めたんだ。道路が引かれることになれば、よその土地からも人が来る。湿地をいつまでもゴミ置き場にしとくわけにはいかないから、沼は埋め立てられることになった。それで、沼の水を汲み上げたら、四人分の古い骨が……」
「あたしも、見に行ったよう。まだ嫁に来たばっかりでさ、姑に叱られたけど」
庄司さんが言う。
「あんたも?」
愉快気な掛け合いが、話の内容にそぐわない。
三加茂さんと庄司さんの記憶では、古い骨は、一体一体別々にセメントを入れる大きな袋に入っていたらしい。それが沈んだ釣り船の舳先に引っかかっていたという。
犯人は捕まっていたし、見つかった骨は丁寧に埋葬され、湿地の整備は進められた。やがて道路は完成し、湿地全体が整地されて売りに出された。ホームセンターの親会社であるアップ・コーポレーションが土地を買ったのは、道路が通ってから二年後。事件からは十数年後で、もう事件の噂をする者もいなかったという。
土地を所有したアップ・コーポレーション――その頃、まだ会社は北野興業と名乗っていたらしい――は、しばらく土地を遊ばせていたようだ。会社の重機を置く駐車場として使っていたらしい。
ホームセンターが建てられたのは、九年前。数キロ先にまだショッピングモールができていなかった頃で、近隣から多くの客が訪れて、今とは比べものにならないくらい盛況だったという。
改装も二回された。そうこうするうちに、この場所で忌まわしい事件が起きた事実は忘れ去られていった。
「もう誰も、見つかった骨の話なんかしないけどさぁ」
庄司さんが天井を仰ぎながら呟いた。
「ここは霊が出たっておかしくない場所なんだ。昔のことを知ってる年寄りたちはみんなそう思ってる」
三加茂さんが、由香里に顔を向けた。
「あんた、霊能者とか、そういうのなの?」
「え」
思いがけない問いかけだった。
「ち、違います」
「前にも、かなり前だけどね、来たんだよ、そういうのが」
「そういうの?」
「だから、霊が見えるとかなんとか言ってる胡散臭い女。除霊師だとか、自分では言ってたけどね。わあわあ騒ぎ立てて、警察まで呼ばれてさぁ」
隣で、庄司さんも頷く。
「わたしは霊能者なんかじゃありません」
由香里は繰り返した。
「だったら、毎晩、人気のない売り場で何やってるのよ」
「そ、それは」
タクヤが存在するなどと言ったら、ますますみんなを怯えさせてしまう。
「いい迷惑なんだよ。あんたが真夜中に売り場に残ってるおかげで、幽霊話が噂になっちゃってさ。それで、古い話をほじくり返されたらどうなると思う? ホームセンターが建ってから、この国道沿いは人の流れが多くなったんだ。飲食店も建ったし、まわりは土地の値段が上がったんだ」
「あんたんとこの息子、国道沿いでまだうどん屋、やってるの」
庄司さんが、三加茂さんに訊いた。
「やってるよ。なんとかね」
そして三加茂さんは、由香里を怖い目で睨みつけた。
「あんた、変な噂が立つようなこと、やらないでよぉ。やるなら、どこか別の町でやっとくれよぉ」
すみませんと、由香里はうなだれた。彼女たちの言い分は尤もだと思う。真夜中に、たった一人、誰もいない場所で話をしていたら、誰だって変に思うだろう。
「わかったんなら、今夜から、真夜中に妙な行動を取らないでよ」
三加茂さんに念を押されて、由香里は頷くしかなかった。
しばらくはあの子に会うのをやめるべきだろうか。
表情のない虚ろな目で見つけ返すタクヤの顔が浮かんだ。
もし、由香里は真夜中に会いに行かなかったら、あの子はどうなるんだろう。一人、あの薄暗い売り場で、誰に見せることもなく、飛び上がったり火花を散らしたりするようになるのだろうか。
さびしいだろう。
きっと、あの子はさびしがる。
みんなの後から、のろのろと由香里はロッカールームを出た。
タクヤは、あの場所にしかいられない。
あの子を一人にしないためには、真夜中に売り場に残ってやるしかないのだ。
だが、それは、由香里の杞憂だった。
みんなの言うことを聞いて、真夜中の売り場に残らなくなってから十日ほどたった
ある夜、仕事を終え、真っ直ぐアパートへ戻ろうとした由香里は、深刻な表情をした新さんに呼び止められた。
「由香里さん、ちょっと」
警備室を出てきた新さんは、いつもの制服姿ではなかった。休みだったのに、わざわざやって来たようだ。
請われるまま、表へ出てると、由香里は通りとは反対の建物の裏側へ連れていかれた。
「あの、なんでしょうか」
タクヤの存在を知られて以来、新さんとは話をしていなかった。新さんのほうが避けていたのだ。顔を合わせても笑顔ではなかったし、もちろん、居残る由香里に差し入れを持ってきてくれることもなくなっていた。
洗面所の窓から明かりの漏れる軒下で、新さんは立ち止まった。
「見たんですよ」
新さんの表情は、硬かった。
「見たって?」
「あの――あなたの霊」
「わたしの霊――」
タクヤのことだ。
「この前、ここであの子どもを見たあとで、僕はあれは幻だったんだろうと思うようにしてきました。僕は霊の存在を信じてませんでしたから。由香里さんが視えているのも、あなたのさびしい気持ちが作り出した何かなんだろうと」
「――さびしい気持ち」
「すみません、こんなふうに言って。でも、あなたがここで孤立しているのはわかっていた。だから」
そうなのかもしれない。過去から逃げ出してこの町へ来た。心の中にあるのは、絶望と憎しみばかり。そんな思いが、あの子どもに共鳴したのかもしれない。
「駅裏に、ちょっとした飲み屋街があるのを知ってますか」
由香里は頷いた。三加茂さんが話してくれた場所だ。
「そこで、見たんです。あの――あの子どもを」
「えっ」
「ちょっと同僚と飲みすぎちゃいましてね、恥ずかしながら、店で寝込んでしまいました。それで店を出たのは、午前一時を回ってしまって。僕が住んでるのは、隣町なんです。当然もう電車はないから、タクシーを拾おうと歩き出したんですが」
新さんは、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「酔ってたせいで、なかなか通りに出られなくて。そしたら、路地に男たちが。ひと目でやさぐれた連中だというのがわかりました。この町にもヤクザはいますからね。彼らは大声で喚いていました。何か言い争っているようで。僕は関わり合いになるべきじゃないと、すぐにその場を去ろうとしたんですが――そしたら、路地の先にあの――霊が見えたんです。あの子どもに間違いありません。青いスニーカーを履いてました。でも、僕がここで見た子とは、ずいぶん雰囲気が違ってた。背丈は変わりませんが、顔がこう……」
新さんは、顔を歪め、目を瞬いた。
「まるで、化け物でした。いや、もともと化け物なんでしょうが、なんていうか、妖気が立ち上っているというか。僕がここで見たときのような、影の薄い存在じゃなくて、もっと忌まわしくて不快な」
恐怖が蘇ってきたのだろう。新さんは、その大きな両手で顔を覆った。
「目がつり上がってました。牙のような歯も見えた。顔半分がただれたみたいに崩れて……」
「――そんな」
由香里は首を振った。そんなことは、信じられない。恐ろしいという感情よりも、心配が胸に湧き上がった。静かに由香里の傍らにしゃがみこんで、頭を撫でられていた子。あの子がそんな恐ろしいモノになったはずがない。
「あの子はどうしていたんですか」
「向かってくる者を、容赦なく痛めつけていました。火を起こして火傷を追わせたり、大きな男の首に手を巻きつけて締め付けたり。男たちは半狂乱でした。僕は建物の陰で震えるしかなくて」
「嘘」
「多分、あの子どもは変わったんですよ。本物の化け物になったんだ」
「本物の化け物」
「そう。あれは恐ろしいモノになったんだ。あなたが気づかないうちに、あの子は成長したんですよ。もう、あなたの手には負えない。あの子は邪悪なモノだ。あなたは関わっちゃいけない。あの子は、怪物に成長したんだ」
あの子を生み出してしまったのは、自分だ。あの子が技を身に付けるように仕向けたのは自分だ。
「だとしても」
由香里はゆっくりと言った。
「あの子がどんな恐ろしいモノになってしまっても、わたしはあの子を見捨てる気はありません」
「見捨てる気はないって……」
「だって」
思わず由香里は涙声になってしまった。三加茂さんたちに言われて、このところ売り場に残らなかった。そのせいで、あの子はさびしくて外へ出たのだろう。そんなタクヤを責められない。外の世界で、どんな悪さをしたか知れないが、悪いのはあの子じゃない。
「あの子は、この世界で一人ぼっちだと思うんです。だから」
新さんに、グイッと腕を掴まれた。
「実際目にしてご覧なさい。そうしたら、あなたも、あの子どもがどれほど恐ろしいかわかるはずだ」
由香里は腕を掴まれたまま、新さんに引きずられていった。
「どこへ行くんですか!」
凍てついた夜空の下を、新さんは何も言わずに前を歩く。澄んだ空に星が瞬いている。向かっているのは、駅へ続く道だった。
駅裏に着いた。人影は少ない。
「あの辺りに」
新さんは立ち止まり、一軒のスナックを指差した。四角い小さな看板には、『スナックあさ美』とある。『あさ美』のところで路地が曲がっている。
「あの子どもが、男たちを痛めつけていたのは、あの曲がった先です」
恐る恐る足を進め、由香里は新さんの後についていった。『あさ美』から陽気なカラオケの音が聞こえてくる。看板の灯は消えていたが、まだ残っている客がいるのだろう。
『あさ美』を曲がると、路地はさらに細くなった。廃業し、そのままにされたらしき数件の店が、薄い月明かりに浮かんでいる。
「あのゴミ箱のあるところ。あの辺りですよ、あの子がいたのは」
路地の奥に立つ電柱の傍らに、大きなプラスチックの円筒形の容器が二つ、無造作に転がっていた。ゴミ箱としては使われていないようだが、道行く人がゴミを捨てていくのだろう。ペットボトルや膨れたレジ袋が蓋から溢れている。容器の横には、使い古されたトースターらしき物が転がり、背もたれの部分が折れた椅子も立てかけてある。
「ここだ、ここにいたんだ」
新さんが、呟いた。吐く息が白い。由香里も底冷えを感じて、両手に息を吹きかけた。
「帰りましょう。こんなところにあの子がいるはずない」
由香里は先へ行きたくなかった。暗くて、嫌な感じのする場所だ。
「もうちょっと待って」
「でも」
ほんとうは、新さんの話を信じられた。タクヤが恐ろしい化け物に変わっていたという。きっとそれはほんとうだろう。だからこそ、目にしたくない。
「僕は、どうしてもあなたにあの姿を見て欲しい。見れば、あなたは目が覚める」
「目が覚める?」
「そうです。あんなものに惑わされていたら、あなたはおかしくなってしまう。あなた自身わかってるはずだ。気づいているはずです。そんなに老け込んで……」
「……」
「由香里さん」
新さんは真剣な目で、由香里を見つめた。
「売り場で囁かれている噂を聞いたでしょう? あのホームセンターは、嫌な因縁のある場所みたいだ。あの子は、邪悪なモノなんですよ。このままあの子に関わっていたら、きっと祟られて良くないことが起きる」
由香里は首を振った。
「だいじょうぶ。あの子はわたしの味方なんです」
「そんな……。あなたはもう十分変わってしまったのに。そんなに痩せて、まるで病人じゃないですか」
萌にも指摘されたことだ。たしかに、体に変化は起きている。だが、タクヤのせいだとは思いたくない。
「わたしはだいじょうぶです」
「いや、このままじゃ駄目だ」
新さんに強く腕を掴まれて、由香里は怯んだ。
「目を覚まして、化け物のことは忘れてください。関わりを断てないというのなら、ホームセンターを辞めてください」
「そんな。辞めたら、わたし、生活していけません」
わざと明るく由香里は返した。新さんの気持ちは有難いが、あの子と関わらないわけにはいかない。あの子は一人ぼっちなのだ。タクヤには自分しかいない。そう由香里は思う。
「僕のところへ来ませんか」
「え」
「僕のところへ来れば、生活費は浮くでしょう? そうなれば、何も夜中にホームセンターで働く必要なんかない」
「……それって」
新さんは、照れくさそうに目を瞬く。
「すみません。僕なんかが、あなたみたいな若い人に」
由香里の胸に、あたたかいものがひろがっていった。新さんはいい人だ。いままでどれだけ助けられたか知れない。
すがってしまいたい。
由香里は思った。
新さんとなら、穏やかな生活がおくれるだろう。
だけど。
由香里は自分を戒める。
人は変わる。それを自分は身にしみて知っているのではなかったか。
そう思ったとき、前方で、カサコソと何かが風に揺れる音がした。続いて、カシャンと何かが落ちる音。
嫌な予感がした。初めてタクヤを売り場で見つけたときと似ている。
「い、いた!」
耳元で新さんが震える声でささやいた。
「ほら、あのゴミ箱の向こう側」
円筒形の容器の向こうに、闇がいっそう深く沈んでいる場所がある。目を凝らすと、その闇は、人がうずくまった形をしている。小さな人形【ひとがた】の闇が地面の上にある。
タクヤだ。
由香里は思った。タクヤがあんな場所でうずくまっている。
思わず駆け寄ろうとしたとき、新さんに腕を掴まれた。
「どうするんですか」
「どうするって、あの子、あんな場所で-―」
「行っちゃ駄目だ」
「どうして?」
「見てみなさい!」
うずくまった黒い影が動いていた。影は膨らんだり縮んだりしている。大きな動きではないが、たしかに動いている。
ふいに、何か黒い物が足元へ飛び出してきた。
「きゃっ!」
その何かが、由香里の脇をすり抜けていく。
鼠だった。大きなドブ鼠がその太った体を揺すりながら走り抜けていく。
「あ、ああ」
思わず新さんの胸にすがり、由香里は呻いた。
タクヤのまわりに、何匹もの鼠がまとわりついているのだった。鼠たちの動きによって、黒い影は膨らんだり縮んだりしている。
「い、い、嫌ああ!」
影が立ち上がった。その途端、鼠たちがいっせいに散らばる。
「きゃああ!」
まるで動く泥の塊だった。地面がうねるかに見えた。鼠たちは、てらてらした灰色の背中を見せて、速い動きで路地を駆け抜けていく。
呆然と、由香里は残った黒い影を見つめた。
路地の手前に、自転車が通り抜けた。そのライトがこちらへ漏れる。
瞬間、光が影を照らし出した。青いスニーカーが見える。
黒い影が立ち上がり、振り向いた。両手をだらりと下げ、小刻みに揺れている。
「タクヤ……」
ほんとうに、これはタクヤなのか?
顔半分の皮膚がズレ落ちている。その中に黒い穴となった目。口元から細い紐のようなものが垂れている。それが鼠の尾だとわかって、由香里は息を飲んだ。
「化け物なんだ」
震える声で、新さんが呟いた。
「地獄から蘇った化け物なんだ」
タクヤが足を踏み出した。揺れる炎のように、灰色の炎のように、闇と混ざり合いながらこちらへ向かってくる。
「に、逃げるんだ!」
新さんが叫んだが、由香里は動けなかった。
「早く! 由香里さん!」
近づいてくる。タクヤは真っ直ぐ由香里を目指してくる。由香里はゆっくりと腕を差し伸べた。
「な、な、何をしてるんだ?」
由香里には、もう、新さんの声は聞こえてこない。
「駄目だ、由香里さん! 化け物に取り憑かれてしまうぞ!」
タクヤは近づいてくる。由香里も近づいていく。新さんが必死の形相で、由香里を押し止めた。その手を払い、由香里はタクヤを招く。
「おいで」
「……あんた、正気か?」
前に立ちはだかる新さんを、由香里は強い力で押し退けた。新さんが地面に転がる。
「――おいで」
路地の手前から、陽気な笑い声が響いてきた。また来てね~。おやすみ。ほんの数メートル手前には、「人」の世界がある。
「おいで――もうさびしくないよ」
まるで吸い込まれるように、タクヤは由香里に抱きとめられた。
抱きしめた途端に、由香里の体に変化が起こった。肌に付いた液体が染み込むような、奇妙な感触が全身を貫いていく。
タクヤの背に回した由香里の手の甲に、ぷくりと何かが盛り上がった。小さいけれど、それははっきりと蠢いている。
ああ、こうして土気色のシミが増えていくのだ。
新さんが、目を剥いて「あわわ」と呻いた。
「由香里さん――ど、どうなってるんだ?」
由香里は微笑んだ。こうして自分はタクヤの仲間になっていく。仲間ができれば、タクヤはさびしくないだろう。
「た、たすけてくれえ」
喚いた新さんが立ち上がり、路地を走り去っていった。
由香里はタクヤと共に、薄暗い路地に残された。寒さもわびしさも感じなかった。腐った土の臭いも、どろりとした肌の感触も気にならなかった。
心は満たされている。小さなタクヤを守っている自分が誇らしかった。
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