第26話
「丑三つ時は怖いよぉ」
三加茂さんの口癖が聞こえる。
ロッカールームには、今夜の清掃員たちが仕事の準備を始めているようだ。
三加茂さんの口癖はまた聞こえてきたが、以前のようにちゃかしたりうるさがったりする者はいない。
この建物の真夜中は恐ろしい。この頃では、誰もがそう感じている。
由香里は右足を引きずりながら、ローカールームに入っていった。右足を引きずっているのは、右の小指が半分に縮んでしまったからだ。昨夜タクヤを抱き留めたまま夜明けを迎え、タクヤが消えてしまったあと、朦朧としたままアパートに戻った。三時間ほど眠り、昼間の仕事に出かけるために起きたとき、足の小指に違和感があった。布団を剥いで見てみると、右足の小指が、欠けた小石のように小さくなっていた。
タクヤと関わるようになって、体に様々な変化が起きているが、骨が縮んだのは初めてだった。ぞっとしたが、それだけだった。どうなろうと構わない。
ドアを開けた途端、みんなの話し声がぴたりと止まる。
由香里は俯いたまま、自分のロッカーに進み、着替えを始めた。今夜も四本のペットボトルをリュックサックに入れてきた。それを、仕事用の袋に入れ替える。
着替えを終えて、ロッカーの扉を閉めたとき、三加茂さんの声が響いた。
「いつ辞めてくれるの?」
みんなが息を飲むのがわかった。
「職場に不吉な人がいるのは嫌だよぉ」
不吉。三加茂さんが言うのも無理はない。今朝、出かける前に顔を洗ったときに見た、自分の姿が蘇る。
亡者そのものだった。忌まわしい何かが、由香里の全身を覆い、目にした者は不穏な気持ちが湧き上がるだろう。
無視したまま、部屋を出ようとする由香里に、三加茂さんは続けた。
「あんたがいると、安心して仕事ができないんだよ!」
投げつけられた言葉から逃げるように、由香里は売り場へ向かった。我慢するのだ。タクヤのために我慢する。
いつまで?
掃除機のコードを引き抜きながら、由香里は唇を噛んだ。あと何日、何十日、我慢を続けるべきか。
永遠かもしれない。
生き辛さは、生きている限り永遠に続くのかもしれない。
終了時間が来ると、いつものように掃除用カートが集められた。それぞれ洗った雑巾を、カートの取っ手に広げていく。
誰もが、由香里を避けていた。洗面所で手を洗いに行っても、由香里が入っていくと、サーッと出て行く。千佳や聖子だけじゃない。今や、三加茂さんや庄司さんにはじまり、清掃員全員が由香里を忌み嫌っている。
「なんか、変だよ」
手を洗い終えてロッカールームに向かおうとしたとき、萌絵が言った。
「さっき、チーフと三加茂さんが、なんかコソコソ話してた」
「三加茂さんとチーフが?」
「由香里さん、とうとう辞めさせられるかもよ。三加茂さん、チーフにあることないことチクったのかも」
有り得ることだった。三加茂さんが苦情をデッチ上げれば、志穂美は容赦なく由香里を解雇すると言い出すだろう。
といっても、そう簡単にはいかない。志穂美たちにしてみれば、由香里のほうから辞めると言い出してくれるのがいちばんいいはずだ。
辞めてなんかやるもんか。
由香里は思った。目障りなまま居続けてやる。
ロッカールームに入ると、清掃員たちがいっせいに由香里を振り返った。今度は何だというのか。
無視して部屋を横切ろうとしたとき、萌が走り寄ってきた。
「ねえ、すごくない?」
「何が?」
「何がって、気づかないの?」
由香里はゆっくりと周りを見渡した。硬い表情のみんながこちらを見ているだけで、他には何も変わったことはない。
「臭いよ。すごく臭いじゃない」
そう言われてみれば、生ものが腐ったような強烈な臭いが、ロッカールームに充満していた。体に変化が起きたせいで、臭覚も鈍感になっているらしい。
「そう、ね」
だとしても、どうでもよかった。早くみんなが帰ってしまえばいい。さっさと売り場に戻りたい。
萌に肩を掴まれた。
「由香里さんのロッカーから臭うのよ!」
「え」
萌の言うとおりだった。目の前の自分のロッカーの前まで来ると、異臭はひどくなった。
「な、なんなの?」
慌ててロッカーを開けた途端、ドサリと由香里のリュックサックが落ちた。と同時に、リュックサックの中から激烈な異臭と黒いものがこぼれ出てきた。
「きゃああー!」
叫んだのは萌だった。続いて、部屋の中にいた者が叫び声を上げる。
大きな死んだ鼠だった。石か何かで頭を割られたのか、頭部から赤い血を流している。
キャアキャアと大騒ぎになった。
その声を聞きつけて、志穂美がやって来た。
「何を騒いでるのよ!」
部屋に入ってきた途端、志穂美は両手で鼻を覆い、それから由香里と由香里の足元に転がった鼠の死体を交互に見た。
「どういうこと?」
由香里は答えなかった。答えようがないではないか。
「あんただったの?」
志穂美の目がつり上がった。
「このところ、鼠がよく出るのは、あんたの仕業だったのかって訊いてるのよ!」
「――違います」
「じゃあ、どうしてあんたのロッカーにこんなものが入ってるわけ?」
誰かが入れたのだ。だが、志穂美は信じまい。
そのとき、こちらを見つめる醒めた目に由香里は気づいた。三加茂さんだった。小動物のような丸い目が、じっと由香里を見ている。
ふいに、ついさっき萌が教えてくれたエピソードが頭をよぎった。志穂美と三加茂さんがコソコソと話をしていたという。
二人で謀ったんだ。
怒りが沸々と湧き上がってきた。こうやって何としてでも追い出したいのか。
もう、黙ってはいられない。
声を上げようとしたとき、部屋の中にいた全員が、示し合わせたかのように後ずさった。萌までも、由香里から離れる。
全員の目には、怯えの色がある。
――みんな同じだ。
由香里は踵を返した。
このままでは終わらせない。全員に見せつけてやる。
「ち、ちょっと由香里さん!」
萌に呼び止められても、振り返らずロッカールームを出た。
最初のターゲットは志穂美だ。
薄暗い廊下を進みながら、由香里は知らず知らず笑みを浮かべていた。
計画を実行に移すには、タクヤの力が必要だ。タクヤの力さえあれば、どんなことでもできる。
暗い売り場の棚と棚の間に身を潜めて、由香里はタクヤを待った。
23番棚に置かれたいくつもの売り物の時計の、電池が入れられた四角い置時計の針が、午前二時を差した。
丑三つ時だ。
いつものようにそう思ったとき、気配を感じて由香里は天井を仰いだ。
タクヤがぶら下がっていた。今夜も、風もないのにゆっくりと揺れている。
「あのね、お願いがあるの」
由香里の声に、タクヤが天井から舞い降りてきた。
音もなく、タクヤは由香里の横に座った。タクヤは普段のタクヤに戻っていた。昨晩駅裏で見た化け物ではなく、由香里だけの小さな「霊」に戻っている。
自然に由香里の手が伸び、頭を撫でた。タクヤもおとなしくされるがままになっている。
「君の技をね、ある人に使って欲しいの」
タクヤは虚ろな視線を向けてきた。由香里との間に特別な親近感が湧いているはずだが、瞳の色は変わらない。見た目は普通の子どもと同じだが、瞳は空虚で黒い穴が空いているように見える。
その瞳に向かって、由香里は続けた。
「わたしの指示通りに動ける?」
返事の代わりに、虚ろな瞳がじっと由香里を見返してきた。
「真夜中に人をここへ連れてくる。そしたら、風を起こしたり火花を散らしたりして欲しいの」
今、自分はどんな顔をしているだろうと、由香里は思った。卑屈なさもしい表情をしているんじゃないか。自分が誰かを懲らしめようと画策するようになるとは。
これは正しいことなのだ。
由香里は自分に言い聞かせた。
この子にはちょっと手助けしてもらうだけ。
所在無げに下ろされているタクヤの両手を、由香里は自分の両手で包み込んだ。子どもの両手は氷のように冷たくぬるぬるしている。
「きっと上手にできるよね」
子どもの空虚な瞳は、由香里を見つめ返すばかりだった。
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