第23話

「まだ帰らないんですか」

 由香里は咄嗟に、胸の前に掲げたペットボトルに視線を落としてから、笑顔を向けた。我ながら、取って付けたような笑顔になってしまったと思う。

「ええ。ちょっとし残したところがあって」

「今、チーフの志穂美さんがすごい形相で出て行きましたけど、何かあったんですか」

「さあ」

 由香里は首を傾げてみせた。

「さっき、叫び声も聞こえたんで急いで来てみたんですが」

「失くしてたネックレスが見つかったんですよ。それで志穂美さん、喜んでたから」

「ああ。警備のほうにも問い合わせがあった」

 新さんはそう言ってから、じっと由香里を見つめる。

「昼間、ロッカールームに入れておいたのに失くなったとかで。チーフに聞かれましたよ。昼間、誰か売り場の人たち以外で、ロッカールームに入った者はいないかと」

 思わず目を逸らす。

「昼間、あなたがロッカールームへ入るのを見ました」

「え」

「何をしに来たんですか」

「わ、忘れ物をして……」

 嘘だと、新さんの目は言っている。由香里は絶望的な気持ちになった。新さんは、由香里のことを志穂美に言うつもりだろうか。

 言うだろうと、思う。警備員の義務だ。

 仕方ない。でも、志穂美への復讐は終わった。辞めさせられても悔いはない。

「誰も入ってませんと言いました」

「えっ」

 由香里は新さんを見上げた。

「僕は誰も見てないと言ったんです」

 はいと、由香里は頷いた。顔を上げられない。

「――あの、失礼します」

 由香里は踵を返した。このまま新さんの前にいるのはいたたまれない。新さんはかばってくれたのだ。といって、掌を返すように新さんに甘えるるなんて芸当は由香里にはできない。

「待ってください」

 叫んだ新さんの声は、有無を言わせない緊張感があった。

「最近、真行寺さん、何をしてるんですか」

「何って?」

 立ち止まり、由香里は新さんを見返した。

「いつもいつも居残ってるじゃないですか」

「それは」

 由香里は唾を飲み込んでから、続けた。

「やり残したところがあるから」

 新さんが近づいてきた。

「最近、みんなが言ってる噂、聞いてないんですか」

 さあと、由香里はとぼけた。

「売り場に幽霊が出るって話です。ほんとに知らないんですか」

 由香里は思わず目を伏せる。

「聞きましたけど、わたしは霊感なんてないから」

「信じてないんですか。奇妙な噂のせいで、辞めた従業員だっているらしいんですよ」

 そういえば、このところ、清掃員の数が少なくなっていた。そのせいで、萌が、仕事が増えたとぼやいていたのではなかったか。

「売り場の女の子の中にも、辞める人が出てきてるらしいんですよ」

「だから、わたしに霊感は」

「さっきのチーフの表情は尋常じゃなかった。わたしは僕は幽霊の存在なんか信じてませんが、やっぱり一人残るのはよくない」

 新さんは語気を強める

「ありがとう。でも――だいじょうぶですから」

 自分でも驚くほど、冷淡な声になってしまった。早く一人になりたかった。売り場のどこかで、ハセベタクヤが待っている。そう思うと、いてもたってもいられない。

「あの、真行寺さん」

 新さんの声が硬くなった。

「今夜、居残ってやらなきゃならない場所ってどこですか」

「どこって」

 由香里は慌てた。咄嗟に、頭に浮かんだ嘘を口にする。

「モ、モップかけ。そうモップかけをするように、チーフに言われて」

「またですか」

 新さんの目が由香里を見据える。思わず由香里は目を逸らす。

「――ほんとのこと教えてください」

 新さんが静かに続けた。

「毎晩、居残るのはおかしいです。チーフが横暴だとは噂で聞いてますが、それにしたって毎晩はやりすぎです。なんなら僕が抗議しようとも」

「それは、やめてください」

 そんなことをされたら、ますます志穂美からの攻撃が激しくなる。それに、今では、志穂美に命令されて居残っているわけじゃないのだ。

「だけど」

 ふっと新さんは息を吐いた。

「なんかおかしいなと思ったんですよ」

 由香里は唾を飲み込んだ。

「このところ、真行寺さん、すごく楽しそうだから」

「楽しそう?」

 意外だった。

「なんだか生き生きしてるっていうか」

「生き生き……」

 たしかに、ハセベタクヤと真夜中に交流するようになってから、仕事に来るのが楽しみになった。このところ、志穂美の攻撃など気にならなくなっている。

 つい最近、萌にも言われた。

「姿勢が良くなったんじゃない?」

 それまでの由香里は、いつも俯きがちだったと萌は言った。ところが、最近は違う。売り場へ向かうときも、廊下を戻ってくるときも、顔を上げて堂々としているというのだ。


「――北野社長ですか」

「え?」

 思いがけない名前が出て、由香里は目を見開いた。

「働き者大賞に社長が真行寺さんを推薦したって噂で聞きました。だから、頑張ってるんでしょ」

「ち、違います」

「北野社長は金持ちだし、イケメンだし」

 声を落とした新さんは、被っていた制帽を脱いで両手で丸める。もっと否定しようか、由香里は迷った。ハセベアキヒコの存在を知られるより、この勘違いのほうがましだ。


 そのとき、二十番棚の辺りで、カタンと何かが落ちる音がした。

 咄嗟に由香里は背筋を伸ばす。

 薄暗い店内に、スーと動きが見えた。

 ハセベタクヤだ。由香里はそう思った。

「どうしたんです?」

 新さんが、訝し気に由香里を見つめ、それから由香里越しに売り場の奥を見ようとした。

 お願いだ。今は出てこないで欲しい。由香里は祈った。新さんにハセベタクヤの存在を知らせるわけにはいかない。

「なんでもないんです」

 新さんの前に立ちふさがり、由香里は新さんの視線を遮った。

「今夜は早めに終わらせて帰ります。だから、どうか心配しないで――」

 そこまで言ったとき、隠し様のない音が響いた。

 ガシ、ガシャーン

 耳をつんざくような音だっった。

 それからカラカラと何かが転がる音が続く。

「なんだ?」

 新さんが由香里を撥ね退け、売り場の奥へに進んでいった。



「なんでこんなものが落ちたんだろう」

 新さんは十九番棚の前に立ちすくんだ。足元には、プラスチック製の物干し竿が数本転がっている。大きな音を立てたのは、プラスチック製に混じって売られているアルミの竿のせいだ。

「金具で固定されていたはずなんだが」

 由香里は走り寄ってしゃがみこみ、竿を集め始めた。

「片付けときます」

「いや、そういうことじゃなくて」

 竿を集めるために、新さんもしゃがみこんだ。

「落ちるはずがないんだが」

「きっと金具が緩かったんですよ」

 金具が緩いなんてことは有り得ない。安全のために、金具には小さな南京錠が付いていて、客が所望した場合は、店員が鍵を持って外す仕組みになっている。

 傍らでしゃがみこんでいた新さんが、あっと呟き、立ち上がった。

「――あれは」

 どきりとして、由香里は思わず掴んでいた竿を落とした。カランと竿が転がっていく。

「な、なんなんだ」

 新さんの声が震える。由香里も新さんが見上げる先を仰ぎ見た。

 ハセベタクヤがいつものように天井にぶら下がっていた。ゆらりゆらりと揺れながら、こちらを見ている。

「あ、あわあっわぁ」

 新さんが尻餅をつき、叫んだ。

「ゆ、幽霊だ、ほんとにいるんだ!」

 その間に、ハセベタクヤは胸の前で両手をこすり合わせ始めた。風が起きた。生臭い、耐えられない臭いがただよってくる。

「ううぅう」

 新さんが口元を両手で塞ぎ、苦しそうに喘いだ。その胸元に、ふいに、ハセベタクヤの腕だけが現れた。腕は、新さんの首へ巻きつく。

 咄嗟に由香里は叫んだ。

「やめて!」

 だが、ハセベタクヤの動きは止まらない。

「やめて! お願い! この人に攻撃しないで!」

 新さんが、目を剥いた。

「だいじょうぶなの。わたしが言えば、悪さはしない」

 由香里の言葉通りに、ハセベタクヤが手の動きを止めた。腕は離れ、影が薄くなる。

 やがて、ハセベタクヤの姿は見えなくなった。自分から姿を消したのだ。

 怖いような静けさが戻ってきた。

 息を整えた新さんは、自分が見たモノがまだ信じられないのだろう。何度も天井を見上げ、それから由香里に顔を向けた。

「――ほんとに、いるんですね」

 由香里は頷いた。

「噂では聞いていたけど、まさかほんとに視えるとは」

「ハセベタクヤという名前です」

 新さんの目が、見開かれた。

「名前が、名前があるんですか」

「ええ。訊いたら答えてくれました。それ以上は、何もしゃべりませんが」

 ブルッと、新さんは首を振る。

「信じられない。ほんとに、そんなことが」

「わたしのせいなんです」

 由香里は転がったペットボトルを拾い上げた。

「わたしのせい?」

「これをあげ始めたら」

 新さんの顔の前に、ペットボトルを掲げる。

 新さんが、戸惑った表情になった。

「これ?」

「この中の水です。近所の神社の湧き水なんです。それをあの子にあげたら、あの子、どんどん人らしくなっていって」

「――まさか」

「ほんとなんです。わたしもはじめは信じられなかったんですけど、毎晩あの子にこの水をあげるうちに、あの子が成長していくのがわかって」

「成長……」

「そうです。はじめはただ存在するだけだったんです。それが水をあげるうちに、いろんなことができるようになって」

「生きている者を襲えるようになったってことですか」

「襲うなんて……」

「だってそうじゃないですか。現に僕は首を絞められそうになった」

「あれは――今夜、わたしが頼んだから」

「頼んだ?」

 由香里は志穂美へ復讐したことを告げた。

「じゃ、さっき、チーフがすごい形相で出て行ったのは」

「ええ。あの子に襲わせたから」

「そんな」

「チーフに毎日のようにいわれのない攻撃を受けて、我慢の限界だったんです。それを話してあの子に襲うように頼んだら、あの子は実行してくれて」

 思わず、由香里の目に涙が滲んだ。あの小さな子は、由香里の言う通りに動いてくれたのだ。味方をしてくれたのだ。

「でも、普段は、ただ、天井にぶら下がっているだけなんです」

 悪いのはハセベタクヤじゃない。あの子はただ、この建物に出没してしまっただけだ。

「お願い、新さん」

 由香里は新さんの手を取った。

「黙っていてください。あの子のこと、ここの誰にも言わないで。あの子がみんなに迷惑をかけないように、わたしが見張りますから」

「――由香里さん」

 由香里は握った新さんの手に力を込めた。



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