第22話


 どうすれば志穂美を、真夜中の売り場へ呼び寄せられるか。

 一度ハセベタクヤに髪を引っ張られてから、志穂美は売り場に残りたがらない。

 いい案は浮かばなかった。仕事の出来を見て欲しいなどと言っても、志穂美は残らないだろう。北野社長が呼んでいると言えば? それも無理だった。真夜中の売り場に北野社長を呼び出す要件など思いつかない。


 やっぱり無理だろうか。

 諦めかけたとき、由香里は目の前で着替えをする千佳を認めて、ひらめいた。千佳の腕には、時計がはめられている。由香里が盗んだと濡れ衣をかけられた時計だ。泥棒にされそうになった時計だ。

 もし、志穂美の物が売り場にあったら。

 いくら真夜中とはいえ、志穂美は売り場に探しに来るだろう。

 いつだったか、社員の懇親会がある夜、志穂美が首に下げていたネックレスが思い出された。あれが売り場にあれば、志穂美はきっと探しに来る。

 問題は、普段、志穂美の首にネックレスが下げられてないことだった。特別な日にしか、志穂美はネックレスをして来ない。

 


 じりじりとした日々が過ぎていった。志穂美がネックレスを付けてくるイベントは催されない。他の物で代用しようかとも考えた。だが、特別な物でなければ、志穂美は真夜中の売り場には近づかないだろう。

 

 ようやくそのチャンスは巡ってきたのは、十一月も末になってからだった。社員の忘年会が、通常の年より一ヶ月も早く行われることになったのだ。理由は、年末にかけて売り場の大々的な改装が行われるにあたって、会議も兼ねているからだという。由香里はごくりと唾を飲み込んだ。決行するのはその日しかない。

 きっと、神様が味方をしてくれているのだろう。

 由香里にはそう思える。

 忘年会の行われる日、改装に先立って、売り場にある古い棚の搬出が行われることになったのだ。古い棚をどかせば、当然清掃の必要が生じる。志穂美は監督を命じられて、昼間から清掃用の上下のジャージに着替え、売り場に詰めなくてはならなかった。その際に、必ず志穂美はネックレスを外す。

 この予定を、由香里は萌から聞いた。

「改装なんてさ、その間あたしたちは休みになっちゃうから迷惑だったけど」

 萌は意地悪そうに口元を歪めて、言った。

「社員が忙しそうで、いい気味」

 由香里は何気ないふうを装って、同僚たちから、その日の社員たちの情報を集めた。棚の取り外しが行われるのは、午後一ばんからという。

 由香里は昼間の仕事を休んで、ホームセンターへ向かった。


 

 このホームセンターは、人の出入りが緩い。従業員出入り口で配達業者も納品をするために出入りするために、あまり細かくチェックするわけにはいかないのだ。

 

 その日、飲料水の搬入に来た業者の陰に隠れて、由香里はそっと建物に入った。建物に入るとき、警備員に名札を見せる決まりになっているが、警備員がちょうど後ろを向いた隙に、由香里は滑り込んだ。

 そのまま、さりげなさを装って、ロッカールームへ向かう。

ロッカールームへ入るとき、警備室から廊下へ誰かが出て来るのが見えたが、急いで入ったおかげで誰にも顔を合わせずにすんだ。

 志穂美のロッカーは、部屋のいちばん端にある。志穂美のロッカーの前に立ち、由香里は大きく息を吸った。

 目的は違うとはいえ、他人の物を勝手に取ることに変わりはない。手が震えた。努めて、ひどい仕打ちを受けたときの気持ちを蘇らせる。勝ち誇った志穂美の顔も思い浮かべる。

――やり直し!

――いちごって言われてたんだって?

 思い返せば、憎しみが湧いてくる。

 

 志穂美のような女は罰を受けるべきだ。誰かをターゲットにして、執拗に攻撃を繰り返す女。そんな女は痛い目に遭わなければ、自分の行いの愚かさがわからない。

ロッカーの鍵の番号は知らなかった。だが、誰もが自分の誕生日を設定している。志穂美の誕生日は、知っていた。二月十四日。バレンタインの日に生まれたと、志穂美は事あるごとに吹聴していたのだ。

 〇二一四。回してみたが、開かなかった。〇を最後にする。二一四〇。開いた。

 ロッカーの扉の受け皿に、ネックレスは置かれてあった。先端のダイヤの粒がきれいだ。

 ネックレスを掴み、そっとポケットにしまう。そして扉を閉めると、由香里は足早にロッカールームを出た。誰にも会わなかった。いや、会ったって構わない。誰かが騒いで責められたって、どうせ売り場で見つけて返すつもりなのだから。

 帰りに警備室に新さんはおらず、由香里は安堵しながらも逃げるようにホームセンターを出た。アパートまでは心臓が高鳴ったままだった。返すとわかっていても、自分のしたことは泥棒だ。

 土手道まで走り、アパートが見えてきたとき、ようやく息がつけた。歩調を戻し、ゆっくりとアパートへ向かう。

 

 アパートに着いた途端、ひどい疲れを感じて倒れ込んでしまった。着替えもせず、布団の中にもぐりこんだ。だが、眠れない。ひどく気だるいのに、目ばかり冴える。

 七時を過ぎて、由香里は眠るのを諦めて起き上がった。いつもより早めにアパートを出ようと思った。今夜は多く神社で水を汲まなくてはならない。

 二リットルの空きボトルを四本抱えて、由香里は暗い道を神社へ向かった。

 神社は真っ暗だった。木枯らしか、風に木々が乾いた音を立てている。

 通い慣れた神社の参道は、怖くなかった。首から下げた小さな懐中電灯を点け、敷石の上を進む。体のどこかが震えているような気がするのは、武者震いだ。

 湧き水の出る場所へ着くと、静かに水を汲み始めた。殊更音を立てないようにしたのは、後ろめたさがあるからだ。志穂美には当然の報い。何度そう思っても、やっぱり正しい行いだとは思えない。だが、止めるつもりはなかった。ハセベタクヤと出会ってから、こうなる運命だったのだと思う。自分は、この世のモノでない「あれ」と手を組む。手を組んでしまう。

「また汲んどるんかえ」

 ふいに後ろから声がしたのは、四本目のペットボトルに、半分ほど水を入れたときだった。

 振り返ると、闇の中に、人が立っていた。懐中電灯の細い光を向けた。いつだったか、この場所で出会った老婆だ。以前と同じような出で立ちで、こちらに顔を向けている。

「こ――こんばんは」

 由香里はようやく声を上げた。声が、静かな境内に響き渡る。

老婆は黙ったまま、由香里に近づいてきた。そしてふたたび、言った。

「また汲んどるんかえ」

「こ、このお水、おいしいから」

「あんまり汲んじゃいかん」

 そう言ってこちらを見据える老婆の顔に、表情はなかった。

 そういえば、以前も、この老婆は言ったのだ。

――あんたが飲むだけにしとけ

 そう言われた。

――それ以外の使い道は、やめたほうがええ

 老婆はたしかそうも言った。

 なぜだろう。どうしてそんなことを言ったのだろう。

「あんたのために言うとる」

「え」

 由香里は目を見張り、老婆を見た。この老人は何か知っているのだろうか。由香里がこの世のモノでない子どもに水をやっているのを知っているのか?

 懐中電灯の光の中で、老婆の目が光る。

「困ったことになったら」

 老婆はそう言って、由香里を見据えた。

「わしのところへ来るんじゃ」

「えっ?」

 ペットボトルを握り締めたまま、由香里は老婆を見返した。

「――あの、どういう」

 老婆は踵を返して、闇の中を去っていく。

 ザワザワッと傍らの木が梢を揺らし、思わず由香里は上を見上げた。真っ暗な夜空に、星も見えなかった。



「ない! ないのよ!」

 ホームセンターのロッカールームに着くなり、飛び込んできたのは、喚く志穂美の声だった。

「誰? 誰なの? 盗んだのは!」

 その叫び声と同時に、由香里はロッカールームのドアを開けた。

「安物じゃないのよ! どうしてくれるのよぉ」

 志穂美のロッカーの前に、清掃スタッフが集まっている。ネックレスがなくなったと志穂美が気づいたのだ。

 みんなの視線が、一斉に由香里に向けられる。

 素知らぬ顔で、由香里は自分のロッカーに向かった。

 ロッカーの扉を開け、着替えを始めると、萌がやって来た。

「大変なのよ。志穂美さんのネックレスが盗まれたらしくて」

 横顔のまま、

「そうなの?」

と、由香里は返事をする。

「昼間、首から外してロッカーに入れといたらしいんだけどね、誰かがロッカーを開けて盗ったんだろうって」

「まさか」

「でも、ロッカーが開いたままだったらしいのよ。志穂美さんはしっかり閉めたはずだって言ってるんだけど」

「鍵を開けられたってわけ?」

 作業着に袖を通しながら、由香里は訊く。

「そうみたい。あの人の暗証番号は、みんな知ってるし」

「そうね」

 ふふっと、思わず笑みが漏れた。バレンタインの日に生まれたのが何の自慢になるのか、そんなことを吹聴するから、こんな目に遭うのだ。

「ちょっと、あんた!」

 志穂美の怒声が飛んできた。

「何がおかしいの?」

 ゆっくりと、由香里は志穂美に顔を向けた。

「何も」

「あんたじゃないの? 盗んだのは。あんたは千佳の時計だって盗もうとしたんだから」

「わたし、今、来たばかりなんですけど」

 冷えた声で返すと、悔しそうに、志穂美が唇を噛む。

「ともかく、あたしが戻る前に見つけといて!」

 志穂美がかすれた声で叫んだ。誰ともなく、はいと返事が上がる。

 ぞろぞろと売り場に向かいながら、萌が耳打ちしてきた。

「案外売り場に落ちてるかもね」

 どきりとして、由香里はポケットに入れたネックレスを抑えた。隠す場所は、もう何度も頭の中でシュミレーションを繰り返した。

その段取りで、由香里の頭はいっぱいになった。

 


 いつも通りに仕事は進み、零時を回った。志穂美のネックレスは見つからないままだ。

 志穂美は十一時を過ぎた頃、忘年会から戻ってきた。それ以来、ずっとネックレスを探し続けている。

「ねえ、まだやるの?」

 片付けを始めた萌が、訊いてきた。

「それが、ちょっと失敗しちゃって」

 由香里はそう言いながら、足元の床を指差した。フロアの表面に、砂粒のような汚れが飛び散っている。

「やだ、何これ」

 甲高い声で、萌が叫んだ。

「洗剤を間違えちゃったのよ。それでこすり続けてたら、なんだか薬剤が固まっちゃったみたいなんだよね」

 洗剤を間違えたなんて、嘘だ。ここへ来る道すがら、土手道で砂をすくい集めて来た。

「やばーい。直さないと大目玉喰らうわよ」

「わかってる。だから、もう少しやってくわ」

「あんた、運が悪いわねえ」

 立ち去りながら、萌がこぼした。

「どうして?」

「こんな日に残るなんて。だって志穂美さん、ネックレスが見つかるまで帰らないわよ。あんたにとばっちりが来なきゃいいけど」

 悲し気に眉を寄せた萌だったが、どこか楽しそうでもあった。萌が由香里の味方であるのは間違いない。他人に起こるトラブルは蜜の味なのだろう。

「そうね。運が悪いわ」

 いつもなら、こんなセリフを吐けば増幅してくる悔しさも、今夜は気にならなかった。

 由香里は床に視線を落とし、しゃがみこむと作業を始めた。なるべくゆっくりと進めなくては。ハセベタクヤが現れるまでかかるように。

 由香里の計画では、志穂美のネックレスは、棚と棚の隙間に挟まっている。それを見つけた由香里が、志穂美を呼ぶ。そこで、ネックレスを拾おうとした志穂美が、ハセベタクヤに気づく。

 気づいたあと、あの子にどんなことをさせるか、由香里はハセベタクヤに話しておいた。もう何晩も、

「わたしが人を連れてきたら、首だけ隠して近づいてちょうだい」

と、言い聞かせていた。

「相手が驚いたら、息を吹きかけて。相手が逃げ出した場合は――」

 毎晩、ここまで話すと、由香里は思わず笑みがこぼれたものだ。

 しんしんと静寂に包まれる真夜中の売り場で、由香里は黙々と作業を続けた。もうすぐだ。もうすぐハセベタクヤが現れる。

 午前一時になろうとしたとき、生温かい嫌な臭いがただよってきた。ゆっくりと後ろを振り向くと、いた。ハセベタクヤが二十七番棚の横にたたずんでいた。

 最近、こうしてふいに近くにいる現れることが多くなった。親近感を持ってくれている証だろうと思っている。天井にぶら下がっているのを見つけるのも不気味だが、棚の横にたたずんでいるのも十分怖い。

 由香里は掃除道具カートに引っ掛けた自分のリュックサックから、ペットボトルを取り出した。今夜は四本ある。この子が動くのに十分な水量だろう。

 どぼどぼと床に水を垂らすと、スーッとハセベタクヤは近づいてきた。そして水の上に青いスニーカーを浸す。

 ぐんぐんと水が吸い取られ、ハセベタクヤの姿がより鮮明になってきた。

 由香里は笑顔を作って、

「お願いね」

とささやいた。

 返事はなかったが、代わりに、ハセベタクヤの頭部が薄くなっていった。見る間に、首から下だけの子どもとなる。思わず唾を飲み込んでから、由香里は四十番台の棚に向かった。資材が並ぶ棚が続く。

 四十番の棚の、巻かれた金属の鎖の横のフロアの上に、由香里はネックレスを落とした。端を鎖に巻きつける。こうすれば、すぐに取り出せないだろう。

 由香里は大きく息を吸い込んだ。吐き出すと同時に叫ぶ。

「ネックレス、ありましたー!」

声は売り場に反響し、轟いた。

即座にパタパタと靴音が響く。

じっとしゃがんだまま、由香里は志穂美が来るのを待った。



「どこ? どこにあったの?」

 志穂美が飛んできて、叫んだ。

 由香里はしゃがんだまま、

「ほら、ここ」

と、フロアの上を指差した。

「いやだ、どうしてこんなとこに?」

「古い棚の撤去をしたとき、外れてここまで飛んで来ちゃったんじゃないですか」

 撤去された棚は、このすぐ奥だ。

「何、馬鹿なこと言ってるわけ? 売り場に来たとき付けてなかったのよ」

 腹立たしげに言いながら、志穂美はしゃがみこんだ。今だ。由香里は天井のハセベタクヤに合図した。

「わたし、終わりましたから失礼します」

 由香里の挨拶など、志穂美は聞いていないようだった。鎖にからまったネックレスがなかなか取れないようだ。

 そう、その調子。もたついていればいい。

「ん、もう。どうなってるわけ? これ」

 通路を半ばまで進んだとき、背後でヒッと奇妙な声が上がった。続いて、何かが落ちる音。呻く志穂美の声が続いた。床をこするヒールの音もする。

志穂美がハセベタクヤに気づいて、逃げようとしているのだろう。

 こみ上げてきた喜びに、由香里は思わず声を上げて笑いそうになった。

「キャーッ!」

 つんざくような叫び声が響いた。

 由香里は振り返った。

「ち、ちょっと、待って! 助けて!」

 志穂美のすぐ横に、ハセベタクヤがいる。首から下だけの子どもが志穂美に寄りかかっている。ぞっとした。計画通りではあるが、実際に目にすると、足元から冷えが立ち上るような恐ろしさがある。寄りかかり方が上手い。床の上に膝をついて脚を広げ、わななく志穂美に、すがるように寄りかかっている。

志穂美の顔は、恐怖で引き攣れている。

 由香里は動かなかった。

「どうかしたんですか」

「い、いやあ!」

 駄目だ。笑いがこみ上げてくる。由香里は唇を噛み締めた。

「あわ、あわわぁぁ」

「いやだ、志穂美さん。そんなふうに座っていると、スカートが破れちゃいますよ」

「た、たすけてえ!」

 由香里は首を傾げてみせ、立ち去ろうとした。

「ちょ、ちょっと待って! 由香里さん!」

 由香里さん。こんなふうに呼ばれたのは、初対面のとき以来じゃないだろうか。

「ほ、ほら、ここに!」

 志穂美が傍らの子どもを指差す。

「なんですか?」

「あんた、見えないの?」

 志穂美が腕を伸ばす。助けて欲しいと伸ばしてくる。

「どうしたんですか」

 とぼけた声で、由香里は近づいていったが、腕を取るつもりはない。そのとき、いい具合に、ハセベタクヤが指先で火花を作って、志穂美の足元に散らした。それからハセベタクヤはぐるぐると回りながら、上昇していく。

「きゃあああ」

 最後の馬鹿力か。志穂美は飛び跳ねるように立ち上がって走り出した。

「志穂美さん!」

 横をすり抜けて走る志穂美を、由香里は見送った。

 もう十分。

 我慢していた笑みを開放して、由香里は天井を見上げた。

「ありがとう」

ぶら下がったハセベタクヤに、首はついていた。表情は読み取れない。虚ろな瞳で、由香里を見下ろしている。

「また、明日ね」

 踵を返して、由香里は売り場の出口へ向かった。と、通路の先に人影がある。目を凝らすと、立っていたのは新さんだった。


 

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