第21話
夜明けに近づいても、男の子は消えなかった。
一度蘇った霊は、この世にずっと存在するが、姿を隠しているのかもしれない。生きている人間には気づかないだけで、霊はこの世と共に存在するのかもしれない。
男の子は、取り戻した自分の肉体を謳歌するように、売り場の中を飛び回った。棚から棚へ。由香里が制止しても、棚の商品も何度もぶちまけた。
疲れると――おそらくは疲れたのだろうと由香里が推測しているのだが――、天井板にぶら下がって休んだ。
休むとき、子どもはぶらりぶらりと揺れる。まるで風に吹かれているように、ゆっくりと揺れる。
ぞっとする光景だった。薄暗い天井に、子どもが宙吊りになっている。子どもの顔色は茶色で目は虚ろだ。
そして子どもは、何の前触れもなく動き出した。あっという間に反対側の天井へ移ったり、棚の上に腰掛けてみたり。
売り場に置かれている売り物のホースを引っ張り、それをまた巻き戻したりもした。
なぜ、そんなことをするのだろう。由香里は不思議に思ったが、子どもが売り物のバケツを散らかして、それにセール用品のティシュの箱をぶつけ始めたのを見て、納得がいった。
この子は遊んでいるのだ。
それがわかってから、恐怖心は若干薄れた。
そのせいかもしれない。
男の子は由香里に徐々に近づいてきた。
ふいに、背後に現れて、髪の毛を引っ張られたこともある。
そのとき、志穂美が怖がっていた話を思い出した。こうして志穂美も髪の毛を引っ張られたのだ。志穂美はその翌日欠勤し、それ以来、一人で売り場に残るのを嫌がっている。
この子に髪を引っ張られたときに、志穂美が見せたであろう恐怖で歪んだ顔を想像すると、胸がスッとした。噂では、泣きながら逃げ惑ったという。
いい気味だ。
そう思ったとき、由香里の胸に、どす黒い気持ちが湧き上がった。
もっと彼が力を得たら。
志穂美の恐怖で歪んだ顔を想像する。逃げ惑いながら、泣き叫ぶ顔も目に見えるようだ。
この子を味方につければ、志穂美に仕返しができる。いわれのない攻撃に反撃ができる。志穂美は一度、ハセベタクヤを見ている。そのせいで仕事を休んだ。ふたたび霊を目にしたら、志穂美の恐怖心は頂点に達するだろう。
もっと怖がらせてやりたい。いままで味わった屈辱の分は怖がらせたい。
――このまま泣き寝入りするつもり?
萌の声が蘇る。
泣き寝入りなんかするもんか。
志穂美にはきっちり償ってもらおう。もう、何を言われても怯えているだけの自分とはおさらばだ。この子を味方につければ、みんなを操ることができるかもしれない。
もう誰にもいいようにはさせない。この子の力を借りれば、自分の思い通りに世界を動かせるかもしれない。
志穂美をもっと怖がらせるには、どうしたらいいだろう。
ふいに現れる。ふいに消える。それだけじゃだめだ。もっと何か。
そう思ったとき、男の子が胸の前で両手を合わせた。祈るときのように掌を重ねる。
何をしようとしているのだろう。
男の子は、重ねた両手をこすり合わせ始めた。はじめはゆっくりと、そして徐々に動きを早めていく。
と、同時に、生臭い嫌な臭いが流れてきた。生ものが腐ったような臭いだ。いや、黴に覆われた土の臭いだろうか。
ついさっき嗅いだ、男の子のため息の臭いを、更にひどくした臭い。
思わず両手で鼻を覆って、由香里は顔をしかめた。弾んでいた気持ちが急速に萎える。
臭いはひどくなっていった。空気は重くなる。
あっちの世界の臭いだ。
死臭。
そう思った瞬間、由香里の二の腕に鳥肌が立った。
覗いてはいけない世界が、今、開こうとしているのではないか。自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないか。
「やめて!」
臭いはねっとりとまとわりつくようだ。あっちの世界に引きずり込む力を持った、暴力的な臭いだ。
男の子の両腕が、円を描くように動き続ける。動きは徐々に早くなる。それに伴って、死臭が風となって勢いを増す。
「お願い、やめてってば!」
ふいに、我に返ったように、男の子は手の動きを止めた。途端に、臭いが薄らいでいく。
ふわりと、男の子は床に下りて来た。そして、じっと自分の両手を見つめる。
ほんの少し、由香里は男の子に近づいた。
「いろんな力があるのよ」
由香里の言わんとすることがわかるかどうか。
「きっと、一度死んで蘇ったら、不思議な力を持つようになるのだと思う」
男の子は首を傾げた。
由香里は慌てた。もしかすると、この子は自分が死んでいる事実に気づいていないのかもしれない。世界を浮遊する自分が、どんな存在になってしまったのかわかっていないのかもしれない。
「ごめんね、死んだなんて」
こんな小さな子に、そんなことを認識させてしまうなんて。
自分のせいだと思えた。神社の水さえ与えなければ、意識の中だけでただよっていられただろうに。
もう一度謝ろうとすると、男の子は、その土色の顔をまっすぐ由香里へ向け、顔
を歪めた。その拍子に、顔にいくつもの皺ができ、黒い影を作った。おそらく、多分、笑っているのだ。
ぞっとしながらも、由香里は笑顔を返した。志穂美を懲らしめたくて、この子の成長を助けているに過ぎない。後ろめたかったが、口にはできなかった。邪な気持ちがあると知ったら、味方になってくれないかもしれない。
「――もっと、水」
そう言うと、男の子はゆっくりと薄らいでいった。足元が薄くなり、体の真ん中に空洞ができ、顔がぼやけてきた。
もう、ペットボトルに水はない。
由香里は消えていく子どもを見つめ続けた。
大量の水のおかげで、ハセベタクヤは徐々に力をつけていった。徐々に長い時間、姿を現せるようになったし、行動の一つ一つが力強くなった。
その成長に、由香里は目を見張った。植物の葉がぐんぐんと伸びるように、ハセベタクヤは様々な技を身につけていった。
技――。そう呼んでいいと、由香里は思っている。今では、掌をこすり合わせて起こす死臭の風の、その道筋をコントロールできるようになったし、まだ小さかったが、空中で火花を起こすこともできるようになった。一度など、火花が建築資材の発泡スチロールに飛び火するところだった。
体の一部分だけを消すという技も身につけた。商品棚に腰掛け、顔だけを消した場合の不気味さは、慣れたはずの由香里ですら、恐怖で震えてしまった。
一週間が瞬く間に過ぎていった。
ハセベタクヤのおかげで、由香里の夜は充実した。重い足を引きずって仕事に向かっていたのが嘘のようだ。今夜はどんなことができるようになるだろう。その期待が、由香里の暮らしの張りになった。
由香里は昼間の仕事を終えると、喜々として神社の水を汲み、ホームセンターへ向かった。
ハセベタクヤは、自分が与える水で成長している。そう思うと、自分が役に立てているという喜びが溢れてくる。
四日目の夜、ぐるぐる売り場を飛んだハセベタクヤは、由香里のもとへ降り立ってくると、床の上に座った。体育座りをする姿は普通の小学生そのものだ。
ふいに、自分でも意外なほど自然に、腕が伸びた。由香里の指先が、ハセベタクヤの頭に触れた。触れた子どもの頭を、由香里はそっと撫でた。髪の毛はふわふわとしていた。まるで本物の生きている子どものような、軽やかな手触りだ。
ゆっくりと、由香里は子どもの頭部を撫で続けた。いまでは、自分の意思で、消えたいときは消えることができるというのに、ハセベタクヤは由香里のされるがままになっていた。
甘やかで奇妙な時間が流れていった。静かで穏やかな時間だった。夜は永遠に続くと思われた。誰も邪魔する者はいない。広々とした空間に、この世のモノでない子どもと二人きり。
この町へ逃げて来るまでの焦燥にかられた日々が、幻のように思えてくる。夫のこしらえた借金の取立てに怯え、着のみ着のままさすらった日々が幻で、こうしていることだけが現実と思えてくる。
奇妙な夜が何夜も過ぎていった。残暑が厳しかった九月が終わり、吹く風が冷たくなってきた。売り場に並べられた商品は大幅に入れ替えられた。加湿器や、毛の長いマット、早々と炬燵まで並べられた。
日が経つにつれて、ハセベタクヤの技は、まるでアニメに出てくる妖怪のように派手になっていった。生きている子どもならば動き盛りなのだ。霊となった今でも、軽業まがいの動きをしたがる。口から緑色の液体を吐き出したり、それが空中で火花を散らして消えることもあった。指先で小さな竜巻をいくつもこしらえ、それをまとめて大きくする技も身に付けた。
ハセベタクヤの変化に、由香里の心は踊った。
この調子でいけば、そのうち志穂美を脅す計画を練られる。千佳や聖子も巻き添えにしてやろう。
いままで散々苛められてきたのだ。お返しは必ずしてやる。
体中に力が漲る思いだった。
「あのね、お願いがあるの」
十月も半ばを過ぎたある夜、由香里はいつものように、天井から舞い降りてきたハセベタクヤの頭を撫でながら切り出した。
由香里の問いかけに、ハセベタクヤは虚ろな視線を向けてきた。由香里との間に特別な親近感が湧いているはずだが、瞳の色は変わらない。見た目は普通の子どもと同じだが、瞳は空虚で黒い穴が空いているように見える。
その瞳に向かって、由香里は続けた。
「君の技をね、ある人に使って欲しいの」
とうとう実行できる日がやって来ると思うと、由香里の胸は疼いた。
「わたしの指図通りに動ける?」
返事の代わりに、虚ろな瞳がじっと由香里を見返してきた。
「明日の夜、ここへ人を連れてくる。そしたら、風を起こしたり火花を散らしたりして欲しいの」
今、自分はどんな顔をしているだろうと、由香里は思った。卑屈なさもしい表情をしているんじゃないか。自分が誰かを懲らしめようと画策するようになるとは。
一度きりだ。
由香里は自分に言い聞かせた。
一度志穂美を懲らしめたら、もう、この小さな子を利用しない。
所在無げに下ろされているハセベタクヤの両手を、由香里は自分の両手で包み込んだ。子どもの両手は氷のように冷たくぬるぬるしていた。
「きっと上手にできるよね」
子どもの空虚な瞳は、由香里を見つめ返すばかりだった。
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