第20話
二リットルのペットボトルを二本。由香里はそれを神社の水で満たして、ホームセンターに向かった。
今夜の担当箇所は、四十二番から五十番通路。
滞りなく仕事を片付けていった。途中、志穂美や千佳から、いつものように嫌味や皮肉を浴びせられたが、由香里は無視した。それがかえって、志穂美の気持ちを逆撫でしたのだろう。熱っぽいからと早退した庄司さんの分を押し付けられてしまった。
庄司さんが早退したのは午後九時を回った頃で、通路二列分も終わっていなかった。
「手伝おうか?」
萌はそう言ってくれたが、由香里は断った。今夜は目的がある。残業を言いつけてくれた志穂美に感謝したいぐらいだ。
「ほんとに、いいの?」
「だいじょうぶ。心配しないで」
明るい声を出してしまったのだろう。萌は怪訝な表情で、
「なら、いいけど」
そう言って帰って行った。
同僚たちがいなくなると、昨夜、ハセベタクヤが姿を現した場所まで、由香里は掃除機を引きずっていった。そして、しゃがみこむと、ぐずぐずと掃除機の点検をするふりをしながら、時間が経つのを待った。
あの子が現れるのは、日をまたいでから。
遅々として時間は過ぎなかった。じりじりとした気持ちで、由香里は待つ。
ようやく午前零時を過ぎた。辺りは静けさを増した。表の国道を通る車の音も途絶え、犬の鳴き声もしなくなった。
二時を回った頃、変化が現れた。空気が動いたと言ってもいい。気配を感じたのだ。ただし、今夜は十一番の棚辺り。文具が並べられている棚だ。
視線を感じた。
間違いない。見られている。あの子がこちらの様子を伺っている。
気づかないふりをして、由香里は壊れた掃除機に顔を向けた。ゴミパックを取り出し、空いた空間を指先でなぞってみたりする。
シュール……。
大型扇風機の羽の音だった。風が起きている。扇風機が勝手に回りだす。
唾を飲み込んでから、細く息を吐き、由香里は思い切って声を上げた。
「いるの?」
返事はない。
「いるなら、教えて」
やっぱり返事はなかったが、由香里は一本のペットボトルを片手で掲げた。
「見て。持ってきたの。君のために」
「君」という言葉が、自然と口をついて出た。昨夜目撃した「あれ」の姿は、明らかに子どもだったから。
扇風機が勢いよく回り始めた。ここまでは風は来ないが、空気の流れは起きた。横の棚にぶら下げてある紙のポップが、わずかに揺れる。
首を巡らして、由香里は辺りを見つめた。
「神社の水よ。君のために汲んできたの」
高い天井に、由香里の声が谺した。
時刻は午前二時三十七分。
ふいに、目の前に、青いスニーカーがうっすら現れた。息を詰めたまま由香里はそれを見つめ、そしてペットボトルの蓋をつまんだ。
「ま、待ってて――いますぐ」
昨夜の自分とは違う。今夜は意を決してここにいる。それなのに、全身が震えていた。そのせいで、指先がうまく動かない。こんな震え方は初めてだった。自分の体なのに、コントロールが効かない。
ようやく蓋を外し、由香里はスニーカーめがけて水を垂らした。
水がこぼれた瞬間、スニーカーがくっきりと浮かび上がった。そして見る間にハセベタクヤが浮かび上がってきた。
両足から胴へ。そこから肩へ。
頭部まで浮かび上がった。昨日と同じ。彼だ。セロファン紙でできた人形のように輪郭は曖昧だが、ハセベタクヤであるのは間違いない。
由香里はごくりと唾を飲み込んだ。濃い茶色の顔に表情はなく、ハセベタクヤは虚ろな目でこちらを見ている。
ボトルの水が空になった。由香里は慌てて、もう一本のボトルの蓋に手をかける。
輪郭がはっきりしてきた。
更に由香里は水を垂らす。
靄が晴れていく。
「――あ、あの」
昨夜のことを謝らなくてはと思う。掴まれた手を振り払って逃げてしまったのだ。
「き、昨日は、びっくりして」
ようやく口にすると、子どもは口元を緩めて目を細めた。
微笑んだのだ。
ざわりと背中に悪寒が走った。異界のモノの微笑みは、無表情のときより凄みがある。
子どもの口が開いた。
「――も、っと」
由香里は聞き取れなかった。声は昨日と同様、紙がこすれる音に似ている。
「な、何?」
子どもの腕がゆっくり上がり、指先がペットボトルを差す。
「あ、待って」
慌ててボトルを傾けた。勢いよく水をスニーカーに注ぐ。
靄は更に晴れた。髪の一本一本まで見え始める。
全体がはっきりすると、自分の姿を確かめるように、子どもは俯いて自分の姿を眺めた。
「ああぁああ」
呻くような、嘆くような、奇妙な声が子どもの口から漏れた。地の底から響いてくるような重い声。
それから目の前の異形のモノは、ブルルッと全身を震わせた。その途端、体のそこかしこに黒いシミができた。墨汁の雫を浴びたように、もしくは黒カビが湧き出たかのように。
悲鳴を上げそうになって、由香里は両手で口元を抑え、かろうじて制す。
ふいに、子どもの体がふわりと撥ねた。撥ねた体は、十一番通路の棚の上に乗る。
棚の上に乗った自分の体に、彼自身が驚いているのがわかった。表情が変わるとき、茶色い頬は、瞬間色を濃くする。
「キャッ」
由香里は叫んだ。棚からいくつものプラスチック製の小さな籠が落ちてきたのだ。見上げると、子どもが籠を蹴り飛ばしている。籠を蹴れる。その事実に彼自身が戸惑っているのが見て取れる。
「や、やめて!」
唐突に、彼は動きを止めた。
「だ、だめよ。売り場の物をこんなにしゃちゃ」
散らばった籠を拾い集めながら、由香里は言った。籠を抱えて棚に戻す。基本的に、由香里たち清掃員は、売り場の商品に触れるのは禁止とされている。これが見つかったら、志穂美は由香里を辞めさせる口実にするだろう。
由香里は子どもを仰ぎ見た。少年の眉間に皺が寄っている。その部分が、黒い筋になっている。その形相は恐ろしかった。
とんでもないものを蘇らせてしまったのかもしれない。そんな思いが募る。
ふうっと、子どもがため息をついた。息が流れてきた。土の臭いだ。古い土の臭い。由香里は両手で鼻を抑え、怖々少年を見つめた。
この子は、長く、途方もないくらい長く土の中にいたのかもしれない。
そして、今、こうして蘇ったのかもしれない。
ふたたびふわりと子どもの体が浮き、そのまま天井へと向かっていった。
天井は、修理がすでに終わり、目を凝らせば、そこだけ板の色が若干違う。
その場所に、子どもは、まるで首吊り死体のようにぶら下がった。
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