第19話 第二章

             第二章


――もっと、水を

 由香里は逃げ続けている。

 真っ暗な道だ。どこまで行っても出口は見つからない。

 後ろからは、茶色い顔をした子どもが、空中を泳ぐようにして追いかけてくる。


――もっと、水を

 布団を被り、由香里は子どもの声に耳を塞ごうとした。だが、声は執拗に由香里を追いかけてくる。声は次第に大きくなった。子どもは大きな地響きの音と共に、由香里目がけてやって来る。ドンドンドン。地響きの音と共に、叫びを繰り返す。

「たすけて!」

 ガバと起き上がったとき、夢の中で鳴り響いていた地響きに似た音は、依然、鳴り続けていた。


 ポク、ポク、ポク


 隣から聞こえてくる、いつもの木魚の音だった。その音が、夢の中で、地響きの音に変化したのだろう。

 部屋は朝の光に包まれていた。隣からの木魚の音さえなかったら、明るく美しい朝と言える。

 全身にびっしょりと汗をかいていた。由香里は節約も忘れ、エアコンを点けた。途端に冷たい風がうなじに届く。


ポク、ポクポク

 隣からの音はやまない。格安の家賃のために、いままでは気にしないように努めてきた。それが、今朝は無性に耳障りだった。耳障りなんてものじゃない。音が頭の芯に響く。

 こんな不快な音を、なぜいままで我慢できたのだろう。なぜ、黙って従ってきたのだろう。

 志穂美や千佳たちの顔も浮かんだ。

 もう、我慢できない。もう、泣き寝入りはゴメンだ。

 文句を言ってやるのだ。

 由香里は立ち上がった。今朝だけはやめてくださいと言うのだ。自分でも信じられないほど、勇気が湧いてきた。我慢してばかりじゃダメだ。

 部屋を仕切っているドアの前に立ち、由香里は声を上げた。

「あの、すみません」

 同時にドアをノックした。一回、二回。

 木魚の音はやまない。

「ちょっと!」

 とうとう大声を出したとき、唐突に木魚の音が止み、ふいにはらりとドアが開いた。

 

 目の前には、一度だけベランダで顔を合わせた覚えのある女が立っていた。すっぽりと被るデザインの、鮮やかなオレンジ色の服を着ている。大柄な、というよりも太った女だった。半袖から出ている腕が、ぼったりと重たげに太い。腰周りは妊娠しているかのように膨れている。髪は記憶にあるよりも長かった。以前見たときは、まとめていたのかもしれない。

「――何」

 女は低くしゃがれた声を上げた。


「あの、申し訳ないんですけど――ちょっとやめてもらえませんか」

 ようやく由香里は言った。

「何を?」

 白目が優った腫れた目が、明らかに敵意を持って由香里を見返してきた。「何を?」。その返事が女の答を告げている。こちらはやめて欲しいと言ったのだ。木魚の音にきまっているではないか。

「だから、その――」

 女の背後にある部屋は、足の踏み場もないほど散らかっていた。脱ぎ散らかされた服、散乱した雑誌、部屋の中央にある座卓の上には、空のラーメンの器やパンの包装紙が積まれている。

 言わなければよかった。もう由香里は後悔し始めていた。いつもどおり我慢すればよかった。こんな女と関わりたくない。

 もういいです。そう言って踵を返そうとしたとき、女が声を上げた。

「あんたね――したほうがいいよ」

 何を言われているのかわからなかったし、聞こえなくてもいいと思った。ドアを閉めようと、由香里はドアノブに手をかける。

「ちょっと」

 女がドアを掴んで由香里を制した。

「何ですか」

「だから、お祓い」

「え」

「あんた、お祓いしたほうがいい」

 女は由香里を舐めまわすように見た。頭の先から足の先まで、女の視線が由香里の上を這っていく。

「あたしね、視えるの」

「え」

「あんた、なんかヤバいよ」

「ヤバい?」

「そう。あんたになんかが憑こうとしてる」

 瞬間、由香里の顔色が変わったのだろう。女は満足気に微笑んだ。どうしてこんなに世界には、人の不幸を喜ぶ人間が多いのだろう。

「やったげるよ」

「――何を」

 女と由香里は睨み合った。

「だから、お祓い」

 女の背後の散らかった部屋の壁際に、何やら祭壇めいた物が視える。木魚も見えた。大家の話によると、女は一日この部屋の中にいるという。何をしているのかと思えば、こんなことをしていたのか。

「どう?」

 返事をせず、バン!と、勢いよく由香里はドアを閉めた。

 冗談じゃない。

 ドアの向こうで女が何か叫ぶのが聞こえたが、由香里は無視した。とんだ女と隣人になったものだと腹が立った。隣人なんてもんじゃない。同じ部屋にいるのと変わらない。家賃をいくら安くしても、借り手がいなかったのが今更ながら納得できる。

腹を立てながら、由香里は懸命に、女の言葉を忘れようとしていた。

――あたしね、視えるの。

――あんた、ヤバいよ。

 もう、遅い。

 自分は開いてしまったのだ。

 異界への扉を。

 ふたたびポクポクと木魚の音が聞こえ始めた。

 苛立ちが募る。日課のレモンの水やりをしながら、舌打ちをする。

 そして、由香里は呟いていた。

「あたしは恐ろしいモノを蘇らせたのよ」

 水は鉢から溢れて窓の桟にこぼれた。更に、由香里は水を垂らし続ける。

「わたしを怒らせないほうがいい」

 たっぷりと水を与えられたレモンは、更に成長するだろう。

 きっと、ハセベタクヤももっと水を与えれば……。

 ゆっくりと由香里の口元に笑みが広がっていった。



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