第18話

 ブウウッと、店の外から改造車のエンジン音が聞こえてきた。地元のヤンキーだろう。破れたエンジン音がしばらく続く。

 改造車が行ってしまうと、辺りはふたたび静まり返った。

 時刻は午前一時を回っている。

 由香里は売り場の大通りと呼ばれる通路にしゃがみこんでいた。脇の通路番号、十二番から十五番の間。リュックサックを胸に抱き、ペットボトルを握り締めている。

 静かだった。今夜も売り物の時計が、カチカチ音を立てているだけ。

 何も、起きなかった。

 世界はいつもと同じ。


「馬鹿馬鹿しい」

 思わず呟いて、由香里は立ち上がった。

 どうかしている。神社の水で霊を育てるなんて。

 さっきまでのどす黒い気持ちは、とうに失せていた。志穂美を酷い目に遭わせてやりたい、仕返しをしたい。沸点に達した憎しみが徐々に冷え始めていく。

 土台、反撃をするなんて、自分には似合わないことだったのだ。そう思えた。自分に合っているのはそっとため息をつくこと、悔し涙をながすこと。そう、あきらめることなのに。

 

 細くため息を漏らしてから、由香里は従業員出口に体を向けた。もう、帰ろう。帰って眠り、嫌なことは忘れるのだ。それがいちばんいい。

 そう思ったとき、前方で何かが動くのを感じた。扇風機が置かれている辺りだ。

 もしかして。

 由香里は身構えた。途端に、腋に汗が滲む。

 息を詰め、じっとたたずんだ。

 と、扇風機の羽が動き始めた。

 そろり。

 風もないのに、そろり。

 ゴクリと唾を飲み込み、由香里はペットボトルを握り締めた。


 シュール、シュール

 機械的な音を立てて、扇風機の羽が動きを早める。

 静かに後ずさり、由香里は十三番棚の陰へ回った。棚に体を隠し、顔だけを出す。

 空気が動くのがわかった。扇風機の風じゃない。得体の知れない気配の動き……。

 スーッと何かが近づいてきた。目には見えないが、感じる。

 カチカチカチ。

 途端に時計の音が大きくなった。ぐるぐると秒針が回り始める。


 来る。

 由香里の二の腕に鳥肌が立った。がくがくと膝が震え始める。

 今だ!

 そう思うが。足が前へ出ない。


 しっかりしろ、由香里!

 自分を押し出す気持ちで、由香里は前へ出た。大通りに転がる。転がったまま、震える手でペットボトルの蓋を開けた。そして、床の上に水を垂らした。ほんの少し。コップに一杯ほど。


 目の端に、青っぽいものが見え始めた。スニーカーだ。初めて目にしたときと同じ青い子どものスニーカーが近づいてくる。揺れるように、スニーカーは由香里が垂らした水に向かって進んで来る。

 弾かれたように、由香里はふたたび通路に隠れた。心臓が飛び出しそうだ。息が荒い。

 ようやく息を整えて、由香里は通路から顔を覗かせた。

 すると。


 見えた。

 スニーカーが床の小さな水たまりに重なろうとしている。

「あ」

 思わず由香里は、小さな叫び声を漏らした。

 スニーカーに踏まれた水たまりが、瞬く間に形を無くしたのだ。吸い取られたのだ。その分、ズボンとおぼしきデニムの裾から上が浮かび上がってくる。

 あっと言う間だった。膝の下まで、「あれ」が姿を現した。デニムは濃い藍色。ところどころに皺がよっている。ごく普通に、誰かが穿いていたと思われるデニム……。

 見つめていると、次第に恐怖は薄らいでいった。デニムの皺のせいかもしれない。皺は親近感を抱かせた。目の前にいるのは、この世のモノではないという実感が薄れていく。

 

 慌てて、由香里はペットボトルを掴み直した。そして迷わず大通りへ出る。

 由香里が近づいても、スニーカーは動かなかった。まるで与えられる餌を待っている犬のように、こちらにつま先を向けてじっとしている。

 由香里はスニーカーに向けて、どぼどぼと水を垂らした。

 水は垂らした先から吸い取られていった。そして水は形となっていく。

 不思議な光景だった。まるで誰かが空間に絵を描くように、ヒトの姿が浮かび上がってきたのだ。指先が見えた。白くて細い指だ。チェックのシャツの袖口が見えてきた。腹から胸へ。そして首筋が見えてくる。

 

 勢いよく、残りの水をかけた。馬鹿みたいに夢中になって、最後のひと雫がこぼれ落ちるまでボトルを振る。

 怖さは薄れている。それなのに、ボトルを持つ手が震えている。最後のひと雫が垂れるまでボトルが振れたのは、震えた手のおかげかもしれない。

 水が尽きた。どうしよう。

 焦った。その拍子に、尻餅をついてしまう。

 その間にも、床の上の水が勢いよく吸い取られていくのがわかった。

 由香里は恐る恐る顔を上げた。

 

 男の子だ。

 茶色い薄いセロファン紙で形作られたような頼りない姿。年齢はおそらく八歳か十歳くらい。身長は百二十センチ前後。痩せている。耳の横が剃り上げられた短髪。

優しげな顔立ちだった。大きくも小さくもない一重の目。瞳が潤んでいた。涙が溢れているように見える。

 小さな瞳が、ゆっくりとこちらに向けられた。

 由香里は身動きができない。


 この子は、人間じゃない。この世のモノじゃない。はっきりとそう思える。

 ふいに子どもの腕が動いた。薄い紙が揺れるように、腕が前へ動く。

 身動きできないまま、由香里は子どもの動きを凝視した。

 

 子どもは指先で鼻先をこすった。それは、ごく当たり前のしぐさだった。生きている子どもならば、ごく当たり前の。

「――誰、あなたは誰?」

 由香里は呟いていた。

 すると、大きく息を吸い込むときのように、男の子の口がゆっくり開かれた。その瞬間、男の子の表情は奇妙に歪んだ。

「ハ」

 軋んだ声が発せられた。奇妙な鳴き声のような声だ。押しつぶされた爬虫類が発する断末魔のような響き。

「セ、ベ」

 ハセベと言ったようだ。

「タク、ヤ」

 そして子どもは、片方の手を由香里に向けて差し出してきた。

 由香里は思わず後ずさった。

 差し出された手は開かれ、指先が何かを求めるように伸ばされている。小刻みに震える茶色い指先が、由香里を目指して向かってくる。

「な、なんなの?」

 目の前に迫る指先を見つめながら、由香里が叫んだとき、男の子はふたたび声を発した。さっきよりはいくぶん人間の声に近い。

「も――っと――水を」

 そして男の子は由香里の右手首を掴んだ。冷たい。ジェルのような感触が肌に吸い付く。

「いやっ」

 由香里は子どもの手を振り払おうともがいたが、吸盤のように、手は由香里の手首に吸い付いたまま離れない。

「いや、いや―――っ!」

掴まれた腕を大きく振った。右に左に。

ようやく手が自由になった。由香里は立ち上がり、走り出した。

 何?

 何が起きてるの?

 こんなのは、耐えられない。

 そのとき、ふいに、由香里の目の前に、茶色い小さな顔が現れた。

「――もっと、水を」

「きやぁああああ」

 絶叫と共に、由香里は従業員用出口を目指した。通路を闇雲に賭ける。セール用に置かれているワゴンにぶつかり、転んで、立ち上がろうとしてまた転んだ。

 ようやく従業員用出口に着いた。観音扉を体で押し明け、廊下を走る。

「真行寺さん?」

警備室の前で、新さんに呼び止められたが、由香里はそのまま走り続けた。

「うう」

 知らず知らず呻きながら、由香里はバタンと出口のドアを閉め、建物に沿って走った。

「うう、う」

 国道に出た。そこから田んぼ道へ。

 闇雲に懸命に走りながら、由香里は泣いていた。涙が止まらない。

 あれは、幻じゃない。

 たしかに、存在する。


 育ててしまった。

 あれは、ハセベタクヤという名を持った異形のモノ。異界のモノ。

 あの茶色い顔が、追ってきそうな気がする。あの冷たいぬるぬるとした手に掴まれそうな気がする。

 土手道までたどり着き、由香里はようやく立ち止まって、恐る恐るホームセンターを振り返った。

 四角い建物が、輪郭だけをうっすら浮かび上がらせて闇に沈んでいた。

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