第17話
二週間が過ぎた。
八月が終わろうとしていた。
従業員用のロッカールームに入った途端、志穂美が出勤しているとすぐにわかった。場の緊張感が違うのだ。志穂美がいない間、心持ち気を許してくれていた同僚たちが、今夜は由香里に素っ気ない。
案の定、着替えをしていると、志穂美から声をかけられた。
「まだ頑張ってたのね」
嫌味は聞き流すに限る。無視したまま着替えを続けていると、志穂美が近づいてきた。そのまま、由香里の後ろに立つ。
ふいに、耳元に志穂美が顔を寄せてきた。
「あんた、すごいのね」
由香里は動きを止め、志穂美を振り返った。
「何が、ですか」
「男関係よ」
目を見開いたまま、由香里は言葉が返せなかった。
「いちご」
「え」
「いちごって言われてたんだって?」
カッと頬に血が上った。着替えをしていた同僚たちが、聞き耳を立てているのがわかる。
「あんたの前の職場に、親切な上司がいたみたいね。あんたのこと、気に入って」
「――それは」
「その上司にいちごって呼ばれてたんだって?」
どうしてそれを?
志穂美はふふんと、鼻息を漏らす。
「働き者大賞に選ばれるんだもん。あんたがどういう人なのか、知らなきゃならないでしょう? だって、推薦するのが社長だけじゃ選ばれないのよ」
由香里を「いちご」と呼んだのは、ここに転職する前に勤務した介護施設にいた、水嶋という名の所長だった。はじめ親切にされ、やがて、それが度を超すようになった。なぜか、名前を呼ばれるとき「いちご」と言われた。いちごという名が、上司が懇意にしているキャバ嬢の名前だと、後で知った。
「その名前で呼ぶのはやめてください」
と、何度も訴えたが、聞き入れられなかった。
「ちょっとしたジョークだよ」
そう言ってはぐらかされ、そのうち、由香里は水嶋の愛人であると噂が流れた。会社に言おうとした矢先、肉体関係を迫られた。
もちろん、断った。すると、翌日、職場中に嘘の噂が流れていた。由香里が小遣い稼ぎのために売春をしていると、誰もが信じ込まされていた。
悪い噂、根も葉もない噂ほど人は信じる。
様々な場所で働くうち、由香里はそれを知った。誹謗中傷の度合いが激しければ激しいほど、人は耳を欹【そばだ】てる。否定する者がいたとしても、善意の声はかき消されてしまう。
きっと、悪い噂のほうが甘い味がするのだろう。由香里は噂をされるたびそう思うようになった。
志穂美の目が冷たく光った。
「あんたが売春してたのを知ったら、北野社長は推薦してくれるかしらね」
「……誤解です」
怒りで喉奥が苦しい。なぜ、こんなに執拗に志穂美は攻撃してくるのだろう。
北野社長が自分に親切だから?
迷惑だ。親切にして欲しいと頼んだわけじゃない。
「推薦されたかったら、あんた、行動に気をつけるのね」
意味がわからなかった。自分が何をしたというのだろう。ただひっそりと働いていただけじゃないか。
「社長に色目を使わないことよ」
「色目?」
「そうよ。そうじゃなきゃ、なんで社長があんたを推薦するわけ?」
それは由香里にもわからなかった。だが、自分にだって、ときには予想外の小さな幸運があってもいいんじゃないか。そう思う。神様がいるとしたら、ときには気まぐれで、そんな幸運を運んでくれるときもあるんじゃないか。
「そうやってね」
志穂美の声が高くなった。
「おとなしいふりして上品ぶるのがいやらしいって言ってんの」
目を剥いた志穂美が、由香里は恐ろしくなった。この人には敵わない。
この人には逆らってはいけない。
俯いた由香里を置いて、志穂美は鼻歌でも歌いかねない上機嫌で踵を返した。途端に、ロッカールームで物音がし始める。みんな、志穂美の話を聞いていたのだ。
ああ、これで、今夜から新たな噂が流れるだろう。志穂美が撒き散らす根拠のない噂が、人々の悪意を餌に広がり続けるだろう。
あの子、売春してたんだって。
よそ者だからね、どこで何をしていたんだかわかったもんじゃない。
由香里はロッカーの扉を閉めた。そっと閉めた自分が情けなかった。
もう、無理だ。
掃除機を動かしながら、由香里は悔しさに震えていた。
こんなところで働くのは限界だ。
窃盗疑惑のとき、どうにか退職は免れたが、もうこれ以上、ここにいるのは無理。
眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、由香里はいつもと同じ手順で作業を進めた。長いコの字を描くように、棚の前の通路を往復する。心の中は、志穂美を罵る言葉で溢れていた。どんな汚い言葉を使っても、胸のつかえは収まらない。悔しさで、体から火が出そうだ。なぜか、いつものように、惨めさで涙が出てくることはなかった。怒りが頂点に達すると、自分は攻撃的になるらしい。
モップで床と格闘しながら、由香里は燃えていた。志穂美が許せない。憎い。
モップがけを終えて、仕上げの掃除機をかけた。仕上げの場合、ざっと流すように作業を進めるのが普通だが、馬鹿みたいに丁寧に行った。
意地になった。
負けたくない。
見返してやりたい。
その思いを床にぶつけている。
カチッと音を立てて、掃除機が止まった。見ると、コンセントが延長コードから外れている。付け直して、ふたたび電源を入れた。が、動かない。もう一度試してみた。やっぱり動かない。
壊れたのだ。
そう気づいた途端、由香里は体の力が抜け、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
「真行寺さん、消していい?」
売り場の奥からそう声がかかって、由香里は顔を上げた。三加茂さんだ。庄司さんと共に、片付けを始めている。仕事が終わり、扇風機を消そうというのだ。
「はい、どうぞ」
どうにか返事をして、由香里はそのまま動かなかった。しゃがみこんだまま、タイルの床を見つめる。
志穂美を許せなかった。
――泣き寝入りしたままでいいの?
そう言った萌の声が蘇る。
泣き寝入りなんかごめんだ。いつだってそう思ってきた。
はじめは、運命に逆らおうとしたのだ。人に裏切られ、翻弄され、人生を狂わされたとき、反撃しようとしたのだ。だが、うまくいかなかった。何をしても裏目に出た。そしてあきらめが、身についてしまった。自分の力なんて、取るに足らないものだと思うようになった。自分の力では、何も変えられないと。
でも、もしかしたら。
由香里は立ち上がり、ロッカールームに向かった。
ロッカーのリュックサックをまさぐっていると、萌が部屋に入ってきた。
「由香里さんも終わり?」
「ううん、まだ」
視線を逸らして、由香里は呟く。
「なんで? また志穂美さんに余分に割り当てられたの?」
由香里は答えなかった。ペットボトルを抱えて、ロッカールームを出る。誰も不審に思わないだろう。この暑さだ。ペットボトルの水を大量に飲むのだと思うに違いない。
「ねえ、由香里さん!」
「掃除機が壊れたの。直してから帰るわ」
神社の水を入れたペットボトルを抱えて、由香里は売り場に立った。
息を吸い込み、唾を飲み込む。
これから、何をしようとしているのか、自分に確認した。
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