第15話

 志穂美が欠勤して、四日が経った。

おでこにできた傷は大したことはないらしいが、千佳に言わせると心理的ショックが大きいのだという。夜は睡眠剤の助けを借りているらしい。

 このまま店を変わってしまえばいいのに。

 密かに由香里は思っている。親会社は、この地方に数店舗を展開している。正社員の志穂美なら、どこへでも行けるはずだ。人の不幸を積極的に願うほどの黒い気持ちは、まだ、由香里にはない。だが、志穂美が自分から遠い場所へ行ってくれれば。その気持ちは覆い隠せない。

 今夜も熱帯夜だ。

 売り場に持ち込まれた大型扇風機の風は、あまり役に立っていない。大きな羽が、熱風を撒き散らしている。

 腕を動かすたびに、由香里の首筋から汗がしたたり落ちた。あと一通路で仕事は終わる。

そう思ったとき、 

「終わったああ」

 萌が大きな声を上げ、みんなの笑い声を誘った。志穂美がいないと、こんなにも和やかなのだ。志穂美が攻撃のターゲットにしているのは由香里だが、見て見ぬふりをするのも緊張を強いられるのだろう。ぞろぞろとロッカールームに向かいながら、おしゃべりをする。

「ね、飲みに行かない?」

 ロッカールームに入ると、萌が誘ってきた。大きな乳房を揺らして作業着を脱いでから、鏡を見つめてリップを塗り直している。

「午前二時まで開けてる居酒屋を見つけたの。割引券があるからさあ」

 嬉しかったけれど、由香里は即座に首を振った。

「ごめん、やめとく」

 萌が顔をしかめた。

「なんで? たまにはいいじゃない」

「ちょっと風邪気味なの」

「そうなんだ」

 萌は訝し気な目になったが、すぐに表情を戻した。誘っても、由香里が乗ってこないと予想はついていたのだろう。

アルコールを伴う誘いに、由香里は絶対に乗らない。人前ではアルコールを口にしないと決めているのだ。

 普段自制が効く人ほど、アルコールが入ると自分を見失ってしまうと、一度行ってみた心療内科の医者に言われた。医者の言うことはある面当たっているのかもしれないが、自分が人前で醜態を演じたのは、アルコールのせいだけじゃなかったと思う。あの頃、自分はおかしかった。慎吾の裏切りを知ったばかりの頃だ。誰の言葉も信用できず、まわりが全部敵に思えた。アルコールを口にしては、誰彼構わずひどい言葉をぶつけ、迷惑をかけた。

 一人で行ったバーで、たまたま隣に座った女に、ほんのわずか、肘が当たったという理由で因縁をつけた。背の高いスツールに座っていた女は床に転んで怪我をした。

警察が呼ばれ、どうにか逮捕は免れたものの、長い叱責を受けた。店からは出入り禁止を言い渡された。

 あんな店、二度と行くもんか。

 悪態をつき、ほかの店でも同じような馬鹿な行いを繰り返しているうちに、友人たちは去り、アルコールなしでは気分が落ち込むようになった。

もし、あのまま飲酒を続けていたら、自分は間違いなく依存性になっていただろうと思う。

 飲酒をやめたきっかけは、金銭的な問題だった。借金を重ねても飲み続けていたが、とうとう誰からも借りられなくなった。

人生は、ときどき粋な計らいをする。散々金に困らされていたのに、そのせいで依存性の一歩手前で正気を取り戻せたのだから。

 


 着替えを済ませ、由香里はロッカールームの扉を閉めた。志穂美がいないおかげで、疲れも感じない。

「じゃ、また明日ね」

 萌がそう言いながら、由香里の横を通り過ぎたときだった。

ガシャーン!

 耳をつんざくような音が響いてきた。

「キャアア!」

「な、何?」

「どうしたの?」

 ロッカールームにいた誰もが悲鳴を上げた。

 音は売り場のほうから聞こえた。何かが落下したような音だ。

 バタバタと廊下を走る足音が響いてきた。警備員たちの声がする。

「なんかあったんだ! 行ってみよう」

 萌に腕を取られて、由香里はロッカールームを飛び出した。三加茂さんや千佳たちも続く。

 売り場へ行ってみると、音の正体はすぐにわかった。

「あれまあ」

 声を上げたのは、庄司さんだった。

 四十三番から奥へ向かう辺り。その頭上から、ねずみ色のボードがぶら下がっている。ベロンと、まるで誰かが引き剥がしたかのように、大きな板が外れている。大きな音がしたのは、その板に取り付けられていた電灯が床へ落ちたためだ。

 せっかく掃除を終えた床の上に、電気器具の破片や、落下物が当たって砕けた商品が散らばっている。

「なんで?」

誰かが呟いた。

「どういうこと?」

 そういう声もする。

「雨漏りかなんか?」

 萌が言った。それは考えられる。かもねと返そうとして、由香里は奇妙に思った。雨なんかここのところ降っていない。ずっと晴天が続いていたはずだ。

 とすると、何だろう。最近地震も起きていない。あの場所だけ、板を止めたネジが緩んでいた理由は何だろう。取り付けた業者が手抜きでもしたのだろうか。

 警備員たちが不審そうな顔つきで、外れた箇所に懐中電灯を当てている。だが、彼らは専門家ではない。慌ただしく、本社に連絡する警備員の声が響いた。新さんは上司の指示にしたがって、立ち入り禁止のボードを置き始めている。

「でも、よかったあ。仕事が終わったあとで」

 誰かが言うのが聞こえた。その通りだ。清掃している最中にあんな板が落ちてきたら、大怪我をしてしまう。

「不幸中の幸いよ」

 萌が言った。

「あたしたち、運がよかったってことじゃない?」

 みんなが口々に、そうだよねえと呟く。

 そのとき、三加茂さんが、唸った。

「――恐ろしい」

 みんが一斉に、三加茂さんを見た。

「おかしいよぉ、こんなこと。不吉だよぉ」

 冗談を言っているようには思えなかった。三加茂さんの眉間には皺が寄り、唇が震えている。

「あんなもんが落ちてくるなんて、今まで一度もなかったんだ」

 和やかだった空気が一変した。どの顔にも、最近の幽霊騒ぎが浮かんだと書いてある。

 三加茂さんの肩を、庄司さんが抱いた。

「気にしないで帰ろう」

「でも」

「いいから、いいから」

 庄司さんに連れられて三加茂さんが戻り始めると、みんなもぞろぞろと後に続いた。由香里も萌と並んで戻り始める。

「おっかしいよね、三加茂さんて」

 萌が由香里の耳元でささやいた。

「あれはただの天井の破損。それを幽霊騒ぎといっしょにするなんて」

「うん」

 由香里は答えたが、胸に湧き上がった不穏な気持ちは消えなかった。

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