第14話
スーッと意識が遠くなった。
その瞬間、手にしてペットボトルを落としてしまった。
コンコ、ココォーーン――。
ペットボトルが床を転がっていく。売り場へと戻るように、大通路を戻っていく。
「おーい、だいじょうぶかあ」
突然、警備員の声が響いた。
ふいに、世界が戻ってきた。由香里は観音開きのドアを押し開けた。
廊下の先に、初老の警備員――名前はたしか深澤さんといった――が立っている。
さっき、「誰か」と叫んでしまったせいで、様子を見に来てくれたのだろう。
「だ、だいじょうぶです」
由香里は叫んで、どうにか笑顔を作った。
「もう終わりますから」
納得したのか、警備員は踵を返す。
警備員の姿が廊下の先に見えなくなったのを確かめ、恐る恐る自分の左のふくらはぎを見た。
「それ」は離れていた。
あれは、この世のモノじゃない。
あれは、霊と呼ばれる存在なのだろう。
そう結論付けるのに、時間はかからなかった。
由香里は出勤の支度をしながら、空のペットボトルを見つめながら、昨晩の出来事を反復した。
神社の水だ。「何か」が姿を現したのは、あの水のせいに違いない。
窓際に置いたレモンの鉢を見つめた。順調に元気な葉を伸ばしているのは、神社の水のおかげだ。
「あれ」も同じなのかもしれない。「あれ」も、あの水のせいで、命を取り戻そうとしているのかもしれない。
命を取り戻す?
思いついた考えに、由香里は首を振って自分の考えを否定した。
そんなことが現実にあるはずがない。
あの世のモノを見てしまったのかもしれないが、その存在を、神社の水で成長させられるなんて。
忘れてしまったほうがいい。
志穂美の攻撃によって、自分はどうかしてしまったのだ。あれは、真夜中にたった独りで仕事をしていたさびしさが引き寄せた幻想。窃盗犯の言いがかりをつけられたものの、北野の発言で、退職は免れた。目立たぬよう、志穂美を刺激しないよう、淡々と仕事をこなしていかなくてはならない。
二日が何事もなく過ぎていった。北野の注意喚起で、残業をさせられることもなく、由香里は定時に家路に着くことができた。
三日目、由香里はいつも通りにホームセンターに着いた。有難いことに、志穂美は病欠していた。志穂美がいなければ、千佳や聖子もちょっかいを出してこない。割り当てられた場所を、いつもの手順で掃除した。今夜も残業しなくてすみそうだ。
仕事を終え、掃除道具の片付けが終わったのは、零時半を過ぎたときだった。ロッカールームに戻り、汗を拭きながら着替えをしていると、並んだロッカーの向こうから、声高な話し声が聞こえてきた。
「見ちゃったんだよぉ、あたしも」
興奮気味の三加茂さんの声だった。
「ええ? ほんと?」
返したのは、庄司さんだ。
「震えちゃったよぉ、あたし」
三加茂さんが、裏声になる。
「あんた、年のせいで見間違えたんじゃないの?」
「何と見間違えるのよ」
「売り場のなんかとよ。いろんな物が置いてあるから」
「違う、違う。はっきり見たんだ。足先だけだけど、あれは見間違いなんかじゃないよお」
半袖シャツに袖を通そうとしていた由香里は、思わず動きを止めた。
「それにねえ、あたしだけじゃないよ。売り場の子たちにも噂は広がってるらしいんだからあ」
三加茂さんは、嘆くように言い募ってから、声を低めた。
「みんな、見たのは同じモノ」
「同じモノ?」
「そう。青色っぽい子どものスニーカーなのよ。それが、こう、スースーッとね、まるで、滑るみたいに」
「あれ」のことだ。
由香里は確信を持った。
アハハと、庄司さんの笑い声が上がる。
「スニーカー? 何よお、それ」
「みんな言ってる。足元しか見えないって。子どもの幽霊が履いてるスニーカーなんだって」
「子どものお化けがスニーカー履いてるっての?」
庄司さんの声は、明るい。信じていないのだ。無理もない。霊がスニーカーを履いているだなんて、誰が信じるだろう。
「それがさ、志穂美さんがね」
由香里は身構えた。
「あの人も見たらしいんだよ。しかも、あの人の場合」
「どうしたの?」
「なんか、されたらしいんだよね」
「された?」
そこから二人は更に声を低め、聞き取れなくなった。
あれを、志穂美も見た?
そして何かされた?
「キャッ」
ふいに、肩を叩かれて、由香里は叫び声を上げた。
後ろに、萌絵が立っていた。
「ごめん、どうかしたのかと思って。なんかすごくぼんやりしてるから」
「な、なんでもない。それより」
由香里は萌の腕を引っ張った。自分のほうへ引き寄せ、顔を近づける。
「知ってる? 売り場に出る子どもの幽霊のこと」
すると、萌絵はぱっと顔を輝かせた。
「知ってるわよ。幽霊のスニーカーでしょ。みんな言ってるもの」
「あなたも、見た?」
萌は残念そうに首を振った。そして、
「由香里さんは見たの?」
と、訊いてくる。
由香里は曖昧な表情を作った。神社の水を与えて、霊を育てたのが自分だとは言えない。
「すごいよね。売り場の女の子たちも数人見たっていうし、志穂美さんまで」
由香里は慎重に言葉を挟んだ。
「志穂美さんも見たらしいって、ほんとかな」
「ほんとも何も。千佳さんが言ってたのよ。襲われたって」
訊きたかったのは、これだ。
「襲われたってどういうことだろ」
「それがさあ、嘘みたいな話なんだけど」
そして萌は、ククッと笑い声を漏らしてから続けた。
「引っ張られたんだって、髪の毛を」
「引っ張られた?」
「そう。掃除が終わって売り場の点検をしていたときらしいよ。釘の棚が並んでる三十番通路だって。カチャカチャッって、釘が揺れ始めてね、変だなと思ったんだって。棚が鳴る音はだんだん大きくなっていったって。まるでポルターガイストだよね。怖くて、すぐに逃げようとしたらしいんだけど、そのとき、棚の上から何かがスーッと下りてきて、ぎゅうって引っ張られたらしいわよ。それで逃げたらしんだけど、慌ててつんのめっちゃってさ、志穂美さん。で、転んでおでこに怪我しちゃったって。信じられないでしょう? でも、本人がそうだって騒いでるみたいだから。おでこ、擦り傷らしいけど、結構目立つみたい。いい気味だよね」
「そんな」
そうは応えたものの、スッと胸に風が通るのを意識しないではいられなかった。あの志穂美がひどい目に遭った。同情は湧かない。
「いい気味なのは、怪我したことだけじゃないのよ。志穂美さん、すっごく怖がっちゃって、今日もそのせいで欠勤したんだって話よ」
怪我をさせた上に、思い切り怖がらせてくれて、おかげで顔を見ないですんだ。
あの霊に感謝しかない。
そう思ってしまった自分を、由香里は悪いとは思わなかった。志穂美はそれだけのことを自分にしてきたのだ。報いだと言っていい。
「志穂美さん、しばらく来ないかもね」
愉快そうに続けて、萌は着替えを始めた。
「そうなれば、仕事がし易いよね」
同意したかったが、由香里は笑い返すだけにとどめた。萌はいい人だ。だからといって、信用し過ぎるのはよくない。誰かと敵対したり、反対に誰かをかばったり、はっきりした態度は、墓穴を掘る。何度も仕事を変わるうちに身につけた知恵だ。
着替えを終えて、由香里はロッカールームを後にした。足取りは軽かった。
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