第13話

 スニーカーは動かない。頼りなげな形は、いまにも消えてしまいそうだ。


 由香里は胸に下げたペットボトルを握り締め、4番通路に近づいていった。


 息をつめて、そろり、そろり。


 心臓がドクドクと鳴る。胃のあたりが縮む。


 スニーカーは、青い靄(もや)のようだった。

 存在しているといえば、そう。だが、幻と言われればそうとも思える。


 ペットボトルの蓋をつまんだ。びっしょりと濡れた指先が蓋の上で滑る。

 もう一度、力を込める。


 蓋が開いた途端、水がドボドボと垂れた。震えた手が、ボトルを傾げていたらしい。

 水は見当違いの場所へ垂れる。慌てて、靄に向けた。水が靄を透かして床に落ちる。


 すると。


 靄が薄れ始めた。代わりに、スニーカーの形が徐々に浮かび上がってくる。


 やっぱり。


 昨夜抱いた予感は当たっていた。この水が何かを起こしているのだ。


 息を詰めたまま、目を凝らした。

 トレッシングペーパーで下の絵をなぞるときに似ている。少しずつ少しずつ、紙の上に線が浮き上がってくるのに似ている。



 靴の爪先が見え始めた。踵部分の凹みも姿を現した。外側のソールには、ケチャップに似た赤いシミがある。

 サイズは二十センチほどだろうか。大人の掌ほどの大きさ。


 さらに水を垂らす。

 足首の上、ズボンの裾が見えてきた。デニムだ。ズボン、たった今織られているかのごとく現れてくる。

 信じられなかった。

 この光景は、到底、ほんとのこととは思えない。

 「何か」が息づこうとしているのだ。まるで栄養を与えられた植物のように。


 両足は揃った。が、ペットボトルの水はなくなってしまった。

 と、その瞬間、それが動いた。心持ち爪先を上げて、踵を蹴って。

「い、いやっ」

 迫ってくる。青いスニーカーを履き、デニムのズボンの下半身が迫ってくる。


 由香里は後ずさり、逃げようとしたが、立ち上がることができなかった。体が動かないのだ。恐怖で脳の指令が足へと届かない。

「や、やめて!」

 腹ばいになって、動こうとするが、思うように進めない。


 そのとき、

「ひぃいいぃ!」

 自分の声とは思えない叫び声が飛び出した。

「それ」が載っているのだ。左足のふくらはぎの上に、青いスニーカーが載っている!

「あわわぁわわ」

 とうとう由香里は立ち上がった。頭の中は真っ白だった。逃げなきゃ、逃げなきゃ。その言葉だけを繰り返す。

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