第12話

「すごいなあ、そんなところまでかけてるんですか」

 新さんの視線は、セール用品のワゴン下に向けられている。

「そんなとこって、当たり前じゃないですか。この下だって床なんですよ」

「そりゃそうだけど、いちいちワゴンをどかして磨くなんて。そこまでやってたら朝になっても終わりませんよ」

 ワゴンの中には、大量の柔軟洗剤が入っている。ほぼ週ごと中身は入れ替えられるが、ワゴンの位置が変わることはない。たしかに棚と同様にみなしてもいいのだが。

 妙なところが、自分でも頑なだと思う。上手に手を抜けない。

 ふと、北野社長が、

「丁寧ですね」

 そう言ってくれた声が蘇る。あのとき湧き上がったあたたかな気持ちが胸に広がる。


「あの、これ」

 目の前に、ビニール袋が差し出された。

「なんですか?」

 ビニール袋を覗き込むと、おにぎりとペットボトルのお茶が入っている。箱に入ったクッキーまである。

「ありがとうございます」

 思わず呟くと、新さんは制帽を脱いで、照れくさそうに笑った。そんな表情をすると、実際の年齢よりもずっと若く見える。


「あの」

 咳払いをしてから、新さんは由香里の目を見た。

「ちょっと休憩しませんか」

「でも、まだ」

 新さんは視線を外さない。期待に満ちた目だ。由香里は少し怯む。

「ワックスがけが、まだ半分しか終わってませんし」

「いいじゃないですか。大体こんなに一人でやる必要ないんですよ」

「ありがとう」

 由香里は心を込めて、礼を口にした。こんなふうに自分のことを気にかけてくれる。そう思うと胸に熱いものがこみ上げてくる。

「あの、真行寺さん」

 新さんの目が光る。

 由香里は慌てて視線を外す。


「働いたあとで食べるおにぎり、おいしいだろうな」

 瞬間、ぎこちなくなった空気を振りのけるように、由香里は明るい声で言った。

 ビニール袋からおにぎりと緑茶を取り出した。

「鮭とおかかをいただきます」

 ストンと音がしたように、新さんが気落ちしたのがわかった。だが、由香里は気づかないふりをした。おにぎりと緑茶を清掃用カートの上に置き、電動ポリッシャーのスイッチを入れる。

「がんばって早く終わらせなきゃ」

「……そうですね」

 新さんの声が切なくなるほど沈み込んだ。それでも由香里はワックスがけを続ける。

「じゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 床に顔を向けたまま応えると、新さんはフロアを戻っていった。


 その足音が遠ざかったとき、由香里は思わず顔を上げた。何か、とてつもなく大切なものを逃してしまった気がする。

「新さん」

 由香里の声は小さすぎたし、足元のポリッシャーの音は大きすぎた。

 新さんの後ろ姿は遠のいていく。


 

 きっと失くしたのは、しあわせじゃない。

 失くしたのは、誰かを信じる気持ちだ。

 もう、二度と傷つきたくない。傷つくぐらいなら、誰のことも信じたくない。そう頑なに自分を戒めるうちに、信じる気持ちを失くしてしまった。

 床のタイルの上を、ポリッシャーの先端に付いた細い糸が回る。薄茶色のワックスが、徐々に透明になっていく。

 高い天井にポリッシャーの音が響く。

 シュワシュワ、ザッー、シュワシュワ。

 42番から43番通路へ。

 新さんを信じて、もし、裏切られたら?

 それが、怖い。

 ポリッシャーのコードが引っかかって、由香里はつんのめりそうになった。「キャッ」と叫んでしまう。そう大きな声を出したわけでもないのに、声はフロア中に反響する。


 由香里は立ちすくんで、まわりを見回した。


 31番通路には、電気製品が置かれている。棚にはいくつもの時計が並ぶ。白いシンプルな時計が、午前二時を指している。


 誰かにいて欲しい。

 ふいにそんな気持ちが湧き上がってきた。

 誰でもいい。そばにいて。

「ねえ、誰かーー」

 思わず口に出してしまう。

「誰かーー」

 声はフロア中に反響する。

 誰か、誰か。

 

 由香里が黙ると、フロアはふたたび静まりかえった。時計たちが時を刻む音だけが響く。

 カチカチカチ、カチ。


 新さんの後ろ姿が思い返された。北野社長の笑顔も浮かぶ。

 なぜ、自分はこんなところに一人でいるのか。そこで間違えてしまったのか。


 ああ、また、いつもの悪い癖だ。同じ考えの堂々巡り。不幸と不運の数え直し……。


 そのとき、45番通路に曲がる角に、スッーと何かが現れた。

 由香里は息を詰めた。

 何? いまのは何?

「誰か、いるの?」

 由香里は言ってみた。

「いるなら教えて!」

 通路にはみ出した電気スタンドが、ふいに点滅を始めた。青白い光が瞬く。


 ボンッ!

「キャッ」

 思わず叫び声を上げると、棚の電気スタンドがいっせいに点滅を始めた。

 パチッ、パチパチパチッ

 光がしゃべり出したかのようだ。

「な、何? どうなってるの?」

 膝が震え始めた。

 こめかみに汗が浮き出、すぐさま頬を伝う。しょっぱい。


「ヒャッ」

 今のは、何? 目の前を通り過ぎていった、黒くて小さなモノ。

 それはネズミだった。気味の悪い尻尾が、棚と棚の隙間に逃げ込んでいく。


 なんだ、ネズミだったのか。

 由香里は安堵した。わけのわからない物音も、電気スタンドの点滅も、ネズミのいたずらなんだ。

 そう思うと気持ちが落ち着いた。


 ところが。


 43番棚の前!


 見えた。昨夜と同じ青いスニーカーが、棚の前にある!

 


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