第11話
6番通路で萌と分かれ、由香里は7番通路へ入っていった。通路の先に売り場主任たちが集まっているのが見えたが、構わず掃除機の電源を入れる。
今夜の担当は、6番から12番まで。延長コードを引っ張って、端から順に吸い込み口を当てていく。
トイレットペーパーやティッシュペーパーが積まれている棚の前には、子どもの客がアイスクリームでもこぼしたのか、汚れて灰色になったシミが出来ていた。
掃除機をかける前にモップで拭いたほうがいい。
由香里は掃除カートからモップを取り出し、バケツに洗剤を入れた。面倒な仕事が増えたわけだが、今夜はそれが有難かった。忙しく動いて、さっきの不愉快な一件を忘れてしまいたい。
歯を食いしばっていた。
悔しい。ほんとうは悔しくて叫びだしたいほどだ。知っている限りの汚い言葉で、志穂美たちを罵りたい。バカヤロー、死んじまえ、ふざけんな。
床を強くこする。汚れを落とすためではなく、嫌な記憶を消すためにこする。
「真行寺さん」
名前を呼ばれて、由香里ははっと顔を上げた。
「今夜もがんばってますね」
社長の北野だった。まわりの売り場主任や数人の社員を従えて、北野が優しげな笑みを浮かべている。
売り場主任が、由香里に駆け寄ってきた。
「真行寺さん、あんた、ラッキーだよ」
由香里は立ちすくむ。
「ほら、毎月会社でやってる『今月の働き者さん』に、あんたが推薦されたんだ。知ってるでしょ。選ばれた従業員は三万円の特別報酬が貰えるんだよ」
売り場主任は、唾を飛ばしながらまくし立てる。
『今月の働き者さん』
そういえば、そんな企画のポスターが、ロッカールームに貼られていた記憶がある。自分には関係ないと、気にしたことはなかったが。
「推薦してくれたのは、誰だと思う? 社長だよ、社長」
売り場主任の横で微笑む北野を、由香里は信じられない思いで見つめた。
「本来ならな、社員向けの福利厚生なんだぞ。今回は特別。あんたは特別ってわけだ」
昨晩のことが思い返された。北野からがんばっていますねと声をかけられた。そういえば、北野が声をかけてくれたのは、昨日だけではなかった。北野が本社から売り場にやって来たときは、必ずといっていいほど声をかけてくれた。
由香里の胸に、熱いものがこみあげてくる。
一生懸命やっていれば、報われることがあるのかもしれない。誰かが見ていてくれている。それが信じられるだけで喜びだ。
「すごいじゃん、由香里さん」
駆け寄ってきた萌に、背中を叩かれた。
「三万円だよ、三万円!」
とてつもなく大きくて、有難い額だ。三万円を稼ぐためには、何日掃除機をかけ続けなくてはならないだろう。
ありがとうございますと言おうとして、由香里は言葉を飲み込んだ。
売り場主任の後ろで、燃えるような目をこちらに向けている者がいる。志穂美だ。
舞い上がった気持ちが一瞬で冷めた。志穂美の目に憎しみが見える。
これだったのか。
由香里は合点がいった。志穂美に辛く当たられたのは、北野が由香里に目をかけてくれたからだ。
萌が言っていたではないか。志穂美は北野に秋波を送っていると。あれは、ほんとうだったのだ。
「さ、真行寺さん。ちゃんとお礼を言って」
売り場主任に急かされても、由香里は北野に顔を向けられなかった。下を向いたまま、「ありがとうございます」と呟く。
「これからもがんばってください」
北野の声が由香里に向けられた。由香里はよくやく顔を上げる。北野と視線が合った。そこにはいつもと違う熱さがある。その熱さは、由香里の頑なな気持ちに触れてくる。
ふいに、声が上がった。
「彼女はふさわしくありません!」
志穂美だった。
「彼女は泥棒です!」
ざわざわとざわめきが上がる。
「君、何を言い出すーー」
売り場主任が驚いて志穂美を制したが、志穂美はひるまなかった。
「従業員の時計を盗んだんですよ。そんな人に、社を挙げて表彰するなんて馬鹿げてます」
「ほんとか?」
売り場主任の声が尖った。
「誰の時計が盗まれたんだ?」
「岩倉千佳さんです」
売り場主任が顔を歪めて由香里を振り返った。違います、やってませんと言おうとしたが、志穂美に先を越される。
「訊いたって無駄ですよ。認めないんだから」
「誤解です」
ようやく口にしたが、情けないほど小さな声になってしまった。
北野と目が合った。熱かった北野の視線は冷え、由香里を見放したように見える。
小さな希望のともしびが消えていくようだった。
一瞬でも、未来に夢を描いた自分が惨めだ。
気まずい空気が流れた。萌は由香里の手を握ってくれたが、頼りになりそうなほど力強くない。
沈黙を破ったのは、北野だった。
「彼女が盗んだという証拠はあるんですか」
志穂美が勝ち誇った表情で言い放つ。
「見つかったんです、彼女のロッカーで」
「それだけじゃ証拠にはならないと思いますが」
「でも……」
戸惑う志穂美に、売り場主任が後を引き取った。
「書面で詳細を提出してください」
売り場主任は迷惑そうだった。この店を社長にアピールしようとしていたのに、出鼻をくじかれた思いなのだろう。
一行が移動し始めた。
うつむいたまま、由香里はみんなを見送る。
と、一人が由香里の前で立ち止まった。そして、由香里の耳元に顔を近づけてきた。
「あんた、このままじゃすまさないから」
志穂美だった。
そして足早に立ち去ったが、尖った声の余韻が、由香里を固まらせる。
「どうしたの?」
萌が気遣ってくれたが、由香里は、
「なんでもない」
そう言って、笑顔を返した。
予想はできていたが、志穂美から新たな攻撃は始まった。
今夜の予定ではない、床のワックスがけを命じられたのだ。しかも全フロアだ。
水拭きをした床が完全に乾いてから行うワックスがけのために、由香里の仕事は零時を過ぎても終わらなかった。
汗だくになりながら電動ポリッシャーを作動させていると、しんと静まりかえったフロアに由香里を呼ぶ声が響いた。
「ごくろうさまー!」
新さんだった。両手にビニール袋を抱えて、こちらに向かってくる。
由香里はポリッシャーの電気を止めて、会釈した。
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