第9話
その日、一旦工場からアパートに戻ったあと、眠り過ぎてしまったせいで、由香里はホームセンターに着いたのは始業時間ぎりぎりになってしまった。
小走りで従業員出入り口へ向かうと、ドアの前に萌が立っているのが見えた。由香里を認めると、駆け寄ってきた。
「待ってたのよ」
いつになく表情が硬い。
「由香里さん、今日、休んだほうがいいよ。それが言いたくて待ってた」
「どうして?」
由香里はドアの隙間から中を覗いた。いつもと変わった様子はないが。
「志穂美チーフがすごい剣幕で怒ってるの」
嫌な予感がする。
「千佳さんの時計が盗まれたらしくてさ」
「そうなの?」
「彼女、一昨日、時計を自分のロッカーに置き忘れたらしいの。ところが今日来てみたらなくなってたって……」
「見つからないの?」
「見つかったんだけど」
「だったら問題ないじゃない」
由香里は建物内に入ろうとドアノブを掴んだ。ぐずぐずしていると遅刻してしまう。
が、萌に腕を掴まれた。
「あのさ、見つかった場所なんだけど」
由香里は萌を振り返った。
「由香里さんのロッカーなんだよね」
由香里は瞬きをした。言われた意味が掴めない。
「……どういうこと?」
「だから、千佳さんの時計が、由香里さんのロッカーから出てきたってこと」
「知らないんだけど」
「すごい高い時計なんだって」
「だから?」
「盗まれてもおかしくないって、意味」
カッと頬が熱くなった。
やられた。そう思う。誰かが自分を陥(おとしい)れるために、時計をロッカーに入れられたのだ。
志穂美に違いない。なぜだ? なぜそんなに目の敵にされるのか。このところの嫌がらせはちょっと度を越してないか?
「大体」
大きく息を吐いて、由香里は気持ちを落ち着かせようと努めた。
「わたしのロッカーに入ってたって言うけど、どうやって開けたの? 誰もわたしのロッカーの番号を知らないでしょ」
ロッカーにはダイヤル式の簡単な鍵が付いている。
萌は目を逸(そ)らした。
「強引に引っ張って」
「え」
「志穂美チーフが店からおっきい金鎚を持ってきて……」
「こじ開けたの?」
呆れた。言葉もない。
「ともかく」
由香里は唇を噛み締めた。
「わたしは千佳さんの時計なんて、見たこともない」
「あたしだって由香里さんが泥棒だとは思ってないよ。でも、昨日、由香里さんだけが遅くまで残ってたって……」
「そうよ。昨日は人が足りないからその分をやれってチーフに言われたから」
「一昨日はあったんだから、なくなったのは昨日だろうって志穂美チーフが」
「ちょっと待ってよ!」
由香里は思わず叫んだ。建物から出てくる、早番の従業員たちが、怪訝な表情で二人を見ていく。
心持ち顔を伏せて、由香里は続けた。
「昨日来てたのはわたしだけじゃないでしょう? 三加茂さんや庄司さんだっていたんだから」
「だから、チーフが試したの」
「試した?」
「そう。三加茂さんと庄司さんに、千佳さんのロッカーが開けられるか試したの。で、二人共開けられなくて」
わたしだって開けられない。即座に返そうとして、由香里はあっと叫んだ。
四、五日前だ。仕事を終えた帰り際、ロッカールームで千佳と出くわした。普段は口をきかないが、なぜか声をかけられた。
「ねえ、悪いけど、助けてくれない? 鍵がうまく開かないのよ」
由香里は瞬間、迷った。千佳は志穂美の舎弟。助けてやる義理はない。
「さっきから何度も試してるんだけど、開かないのよぉ」
千佳は気弱げな視線を送ってきた。志穂美とつるんでいるときは嫌な感じの女だが、案外、気が小さいだけなのかもしれない。強い志穂美に押し切られて、不本意ながら意地悪の片棒を担いでいるだけなのかもしれない。
由香里は気を取り直して、千佳のロッカーの前に立った。
「暗証番号は?」
鍵を開けるには、四桁の番号が必要だ。
「1982。生まれた年」
その四桁を入れて、ダイヤルを回した。が、開かない。すると千佳が、
「やあだ、ごめん、間違えちゃった。1981だった」
やり直すと、鍵はカシャリと開いた。あのとき、由香里はたしかに千佳のロッカーの暗証番号を知った。
「由香里さん、知ってるの?」
萌が訝しげに訊(き)いてくる。
由香里の掌に汗が滲んだ。あのとき、違和感を覚えたのだ。自分の生まれた年を間違える者がいるだろうか?
謀られた。千佳は自分のロッカーの鍵の番号を教えたくて、壊れたふりをし、こちらに番号をしっかり記憶させるためにわざと間違えたのだ。
「知ってるんだ……」
萌がため息を漏らす。
「でも……あれは」
そう返したとき、ふたたび早番の従業員がドアを開け、出てきた。
瞬間、ドアの向こうに立つ、志穂美の姿が見えた。
志穂美がこちらに気づいて、目を見開いたのがわかった。猛禽が獲物を捕えるときのような、強い視線。
もう、逃げられない。
由香里は知らず知らず、横に立つ萌の腕を掴んでいた。
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