第8話
いったいあれはなんだったんだろう。
逃げるようにホームセンターを出てアパートに向かいながら、由香里は見たものの正体を考えあぐねた。
ようやくアパートにたどり着き、着替えもせず布団に潜り込む。自分の居場所があることが何より有り難く思える。
身体の震えが止まらなかった。
はっきり見えたのだ。まるで、あの場所に作られたスクリーンに映像が映ったかのように、スニーカーが現れたのだ。
幽霊?
まさか。
即座に否定する。霊感なんか持ってない。虫の知らせというのも感じたことがないし、そもそも霊の存在を信じたことはないのだ。
しかもスニーカー?
生首だとか血だらけの女とかいうならまだわかる。
子どもの靴だなんて。青いスニーカーなんて。
ふいに笑いがこみ上げてきた。肩の力が抜け、布団の中の息苦しさに気づく。
由香里は布団から顔を出した。
幽霊には足がないと決まっている。足のない幽霊が、スニーカーを履けるはずがない。
とすれば、自分が見たのはなんだったんだろう。
答は見つからなかった。
そのまま由香里は眠りに落ちた。瞼に青いスニーカーが浮かんでは消えた。
翌日は眩しいほどの晴天になった。
世界は光に満ちている。
それなのに、由香里の気持ちは重苦しかった。ズキズキとこめかみも痛む。
休んでしまおうか。
布団を鼻まで引っ張りながら、その誘惑と戦う。
今夜も、奇妙なモノを目にしたら。その不安で動けない。
だが、休めば休んだ分、生活は苦しくなってしまう。今だってギリギリの暮らしなのに一日分の減額はきつい。
意を決して、由香里は起き上がった。自分の暮らしを守るのは自分しかいないのだ。
挫けそうな気持ちを振り払おうと、由香里は一時間早くアパートを出た。部屋で思い悩むより外の空気を吸ったほうがいい。
表はうだるような暑さだった。朝だというのに、土手道の青草もげんなりしている。数分歩いただけで全身に汗をかいた。
足は自然といつものように神社へと向かった。どこかで気分転換といっても、ほかの場所など思いつかない。
狭間神社の境内は、蝉時雨に包まれていた。子どもの笑い声もする。都会と違って、公園などないこの辺りでは、神社が子どもたちの遊び場なんだろう。
かくれんぼをしているらしき数人の子どもたちが、神社の裏側へ走っていくのが見えた。みぃーつけたと声が上がる。
頭上で、雀が鳴いている。入道雲が青い空に盛り上がっている。
ありふれた風景だった。ここはごく普通の神社。だが、ここには、特別な湧水がある。由香里は迷わず湧水がある石桶へ向かった。
石桶の中は、今日も清々と澄んでいた。柄杓で汲んで口に運んだ。冷たくて、おいしい。神社の湧水だと思うからか、身体が洗われる気がする。
ほんとうに特別な水なんだろうか。
由香里は命の水と書かれた立て看板を見た。
途端に、昨夜の青いスニーカーが蘇った。このすばらしい空の下で思い出したくないのに、どうしても頭に浮かんでしまう。
ペットボトルからこぼれた水を吸い取って、そして姿を現したモノ。
ブルルッと首を振ってから、由香里は恐怖を忘れようとした。
勘違い、勘違い。
呪文のように自分に言い聞かせる。
ペットボトルの蓋を取り、柄杓から水を入れた。ほんの少し青みがかった透明な水だ。
ボトルの半分まで入れたとき、かくれんぼの子どもたちの一人が、由香里の横を走り去っていった。続けて、ほかの子どもたちも歓声を上げながら走っていく。
と、後ろからペタペタと足音がした。
見覚えのあるお年寄りが、こちらに向かってきている。この湧水を飲みに来るおばあさんだ。
近くで畑でも耕しているのだろう。着物地の作業着を着て、頭には手ぬぐいを巻いている。
軽く会釈をして、由香里は顔をボトルに戻した。
と、ふいに、おばあさんが声を上げた。
「そんなに飲むんかえ?」
びっくりして、由香里はボトルを落としそうになった。
おばあさんはじっと由香里を見つめている。
「あんたが飲むんかえ?」
怒ったような言い方だった。皺だらけの顔の表情が硬い。年齢はいくつぐらいだろう。八十歳を超えたほどだろうか。
「そうです」
答えてから、もう少し何か言ったほうがいいような気がした。
「このお水、おいしいから」
ふむ、と言うように、おばあさんはうなずいたが、表情を緩めなかった。
「あんたが飲むだけにしとけ」
「え?」
「あんたが飲む分には、身体にええ水じゃ。だがな」
低くしわがれた声で、おばあさんは諭(さと)すように続ける。
「それ以外の使い道は、やめたほうがええ」
「……それ以外?」
由香里はぎくりとした。この水を吸い取って奇妙なモノが現れた光景が蘇る。
おばあさんの目が光った。
「この神社がなんという名前か、知ってるか?」
「は、狭間神社」
反射的に答えると、おばあさんはうなずいた。
「そう、狭間にあるから狭間神社じゃ」
「狭間にあるから?」
意味がわからなかった。
「何と何の狭間ですか?」
だが、由香里の問いは、ワーッと子どもたちが騒ぎ立てて横を走ったせいでかき消されてしまった。
遊びに夢中の子どもの一人が、ドンと由香里にぶつかり、その拍子に持っていたペットボトルを落としそうになる。慌てた由香里はおばあさんから気が削がれた。
そして気づいてみると、おばあさんは由香里から離れていた。ちょうど雲が日を隠して参道が薄暗くなっている。
ーーそれ以外の使い道はやめたほうがええ。
由香里はぼんやりと、手元のペットボトルを見た。
ボトルの半分まで入った水には何の変哲もない。
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