第7話
最後の列を拭き終えたとき、時計は午前零時を回っていた。
洗面所の流しへ行き、モップの房糸の部分を外して洗う。広範囲を拭いたせいか、いつもより汚れが落ちにくい。
ほぼ三十分が経過してしまうが、仕事はまだ終わりじゃない。トイレ掃除だ。
由香里はトイレへ向かった。男子トイレから始める。
ビニール手袋をしていても、汚れた便器を洗うのは嫌なものだ。強力な洗剤をかけて時間を置く。
その間に、女子トイレへ向かった。ゴミ集めから始める。女子トイレの清掃は、男子トイレよりもやっかいだ。髪の毛のゴミが多い。手洗器にからみついた髪の毛は、そう簡単には取れない。
トイレ掃除を終えると、背中に砂袋を抱えたかのような疲れを覚えた。ようやくこれで帰れる。ポケットから時計を出して時間を見ると、一時を過ぎたところだ。
首筋に滴り落ちる汗を拭いながら、道具の片付けに移ったとき、トイレの窓から覗ける外側の通路に、煙草の灰皿が見えた。
思わず、チッと舌打ちが出てしまう。建物の外に設けられた従業員用の灰皿だ。大きな灰皿は、毎日吸殻でいっぱいになる。
あれも捨てなきゃ。
由香里はのろのろとトイレを出て、廊下を進んだ。
蝶番が錆びているせいか、外へ出るドアは重かった。二度押してようやく開く。
もわっとした熱気に包まれた。
後ろでバタンとドアが閉まる。
灰皿として使われている缶を持ち上げ、そのままゴミ集積所まで運んだ。吸殻を捨て、集積所の脇にある水道で洗う。
缶を元の場所へ戻し建物の中へ戻った。
暗い通路に入った途端、ほっとため息が出て、同時に喉の渇きを覚える。胸に下げたボトルホルーからペットボトルを取り出し蓋を取った。汲んできた神社の水はすっかりぬるいが、それでも喉の渇きを満たしてくれる。
ゴクゴクと喉を鳴らして二口飲んだとき、背後で声が聞こえた。
ククッ。
思わずペットボトルかを口から離して、立ちすくむ。
ふたたび、ククッ。
笑い声だ。くすぐられたとき漏らすような、そんな楽しげな声。
二の腕に鳥肌が立った。
ゆっくりと首を回し、後ろを振り向いてみる。
誰もいない。薄暗い通路はしんと静まりかえっている。
勘違い、勘違い。
無理矢理そう思い込もうとしながら、ふたたびペットボトルを口に運ぼうとうすると、シャーッという音が響いた。乾いた、砂を流すような音。
ドクン。
心臓が跳ねる。
どうしよう。
由香里は思わず目を閉じ、考えた。
昨日売り場で感じた「何か」の存在が思い出される。
昨日は勘違いだと思えた。シンナーによる思い違いだと納得できた。
だが、今は違う。頭ははっきりしている。
目の端に、白いものが踊った。
「嘘」
紙?
「わぁぁあ!」
紙が舞い上がった。廊下の棚に置かれていたコピー用紙だ。ひらひら、何枚も大きな紙吹雪のように、廊下中に散らばる。
ど、どういうこと?
もう思考停止だ。
こんなこと、おかしい。
はははは。
はっきりと笑い声が響いた。
はははは、はははは。
笑い声は止まない。
由香里は走り出した。
ロッカールームに向かい、飛び込むと、自分のロッカーからリュックをもぎ取った。
息苦しいほど、恐怖を感じる。
早く出なくては。この建物から逃げ出さないと!
廊下を走った。出口までは二つ、角を曲がらなくてはならない。
「あっ」
足がもつれてしまった。
倒れ込んでしまう。
「いた、い」
片方の膝を打ったようだ。そのとき、首筋を何かが撫でた。
「きゃっ」
叫んだと同時に、片手に持っていたペットボトルを落としてしまった。蓋が緩かったせいか、ボトルは水を流しながら転がっていく。
止まった。
そのままボトルから水はこぼれ続けた。
コクコク、コク。音を立てて流れ続ける。
起き上がろうとした由香里は、前足を滑らせ、ふたたび床に倒れ込んでしまった。
ハア、ハア。
気持ちばかりが焦る。身体が思うように動かない。
と、見えた。
ボトルからこぼれた水が小さな水たまりを作っている。その水の中にーー
あれはーー靴?
水たまりの中に、つま先の部分だけがうっすらと見える。スニーカー? 子どものサイズ?
何が起きているのか。
水たまりの水が、徐々に干上がっていくのが見える。少しずつ少しずつ、吸い上げられていく。
やがて、スニーカーが全体像を現した。色は青。甲の部分に、アニメのキャラクターがうすぼんやりと見える。
しゃがんだまま後ずさり、由香里は廊下の壁に沿って這った。その間にも、青いスニーカーは、次の水たまりに移っていく。
形が鮮明になってきた。
紐の部分から、やがて足首へ。
由香里は強く目を閉じた。
見ちゃいけない。何も見ないで逃げるんだ。
だが、歯がゆいほど身体が動かない。
ようやく、廊下の角を曲がった。這いながら、出口を目指す。
警備室の窓から漏れる光が、今夜ほど頼もしいと思ったことはなかった。
「あんた、どうした」
怪訝な表情で警備員のおじいさんが窓から顔を出したが、由香里は返事ができなかった。
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