第6話

 ザーッ、ザーッ

 掃除機の音が響く。

 円筒形の業務用掃除機は、由香里の動きに沿って、ペットのように後に付いてくる。


 由香里は蛇腹のホースを伸ばし、マニュアル通りに通路を進んでいった。一つの通路は往復する決まりで、床を見つめていると、ここが建物の中なのか、それともどこか知らない町の路地をさまよい歩いているのかわからなくなる。


 まるで、大きな体育館。天井が高く、客の姿がないと、倉庫にも見える。


 フロアは二手に分かれていた。幹線道路さながら、人が五人横に並べる幅の通路が全体を左右に分けている。この広い通路を、従業員たちは「大通り」と呼ぶ。そしてその通路から、細い通路が伸び、順番に番号が振られている。


 通路番号は、1番から50番まで。番号が多くなるほど奥へ向かう。


 1番から25番までは、日用品。洗剤やシャンプー、台所のラックや物干し竿。座布団や椅子まで並べられている。26番から50番までは、資材用品だ。家庭で行われるDYI作業に使える工具や塗装用品がある。

 奥へ行くと、素人では使いこなせない資材や道具が並ぶ。


 志穂美に押し付けられた担当箇所を、由香里は恨めしく見やった。7番から24番通路。


 見渡してはいけない。目の前だけに集中しなくては。


 単純作業の際、作業の段取りは考えちゃいけない。頭を使うと、途方に暮れて身体の力が抜けてしまう。


 ひたすら手元だけを見るのだ。後ろから付いてくる掃除機のように、自分も単純な機械になる。そうすれば、飽くことなく同じ作業を続けられる。


 自分で生活費を稼ぐようになって以来、由香里がたずさわってきた仕事は単純作業ばかりだった。目の前だけに集中して時間を稼ぐ方法は、仕事に飽きないために編み出した由香里なりの秘訣。


 電気スタンドがいくつも並べられた場所から、ペット用品が並ぶ通路へ。ドッグフードの袋には、犬の顔写真が続く。作り物じみたつぶらな犬の目が、じっとこちらを見返している。


 園芸コーナーの棚の前を行く。ゴム手袋や、水撒き用のホースが床に伸びて、由香里が操る掃除機の行く手を阻む。


 一時間ほどかけて、ようやく掃除機をかけ終えた。次はモップだ。

 しゃがみこんで、掃除機につけた延長コードをからめ取った。ついでに、コードに付いた汚れも雑巾で拭き取っていく。こうしておけば、いつでも道具を気持ちよく使える。


 と、


 後ろから声をかけられた。

「丁寧ですね」

 振り返ると、ホームセンターのオーナー社長の北野が、スーツ姿で立っていた。

「美成(びせい)の皆さんが頑張ってくれるおかげで、この店は清潔だと評判ですよ」

 美成というのは、由香里が所属する清掃会社の名前だ。親会社はこのホームセンターを経営するアップ・コーポレーションで、美成の幹部は親会社の社員が兼務している。志穂美も正式にはアップの社員だ。


 頭を下げ、由香里は作業を続けた。まだ四十代だという二代目社長は、ほとんど本社の社長室にいると聞いている。

 それが、なぜ、こんな時間に、突然一人で店にやって来たのだろう。

 細身のパリッとしたスーツが、背後の金物用品とそぐわない。


 延長コードを巻き終え、由香里は立ち上がった。まだ北野は同じ場所に立っている。


 何か問題があるのだろうか。

 不安になって、まわりを見回した。注意でもされたら、明日、志穂美にどんな目に遭わされるか。


 志穂美が北野に熱を上げていると、アルバイトの初日に萌が教えてくれた。アップは田舎町の小さな会社だが、町に保有している不動産も多く、建設業も手がけていて、町を代表する企業の一つらしい。

「玉の輿を狙ってんのよ。ばっかみたいでしょ」

 萌は口元を歪めて、そうも言った。

 北野は独身らしい。本人は悠長に構えているようだが、会長である父親が、しきりに身を固めろとせっついているという。ところが、数多の相手を用意されても、北野は応じない。そうするうち、どんな女にもチャンスがあると噂が立ち始めた。


 そんな萌の話を、由香里は適当に聞き流した。どこの職場にも、噂話を広げる役目を買って出る人間が必ず存在する。ここでは、萌がその係だと思っただけだ。


 あのときは、二代目社長の顔もろくに知らなかったから、その程度の反応しかしなかったが、実際、北野を目の前にしてみると、たしかに、志穂美には無理な相手と思えた。育ちがいいせいだろうが、笑顔に屈託がなく、由香里に向けた視線にも見下した感じがしない。彼と志穂美では不釣り合いだ。


「あの、どこか、やり残したと思える箇所があるんでしょうか」

 掃除機を引っ張りながら、由香里は訊いた。

「いや、そんなつもりはないんですよ。宴会の帰りにちょっと寄ってみただけで」

 北野は微笑んで、由香里の胸の名札に視線を移した。

「真行寺由香里さんだったよね」

「はい」

 名札には苗字しか記されていない。

 フルネームで呼ばれたことは意外だった。

「困ったことはないですか」

 由香里は即座に首を振った。志穂美のことが瞬間脳裏によぎったが、そんなことを口にしたら、明日からここで働けないだろう。

「別に、特には」

「そうですか。何か問題が生じたら、いつでも上に上げてください」

 飲んできたとは思えないさわやかな笑顔で言うと、北野は踵を返して去っていった。正面玄関のほうへ進んでいく。


 入口の硝子越しに、車が止まっているのが見えた。志穂美が出ているという懇親会に、北野も出ていたのだろう。その途中で、何か用があって、店舗の事務室に来たついでなのかもしれない。


 由香里はロッカーに掃除機をしまい、代わりにモップと絞り器を手にして売り場に戻った。いまどき、先端の房糸を手動で仕切るタイプのモップだ。

 洗剤を入れた水にモップを浸し、ペダルを踏んで水を絞る。


 床のタイルの線に沿ってこすり始めたとき、自分の名をフルネームで呼んだ北野の声が蘇り、今日初めて、少しだけあたたかい気持ちになった。北野の端正な顔も何度も目の前にチラつく。


 ラララッ。

 自然に出た鼻歌に、自分自身驚いた。

 鼻歌なんて、何年ぶりだろう。


 

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