第5話

 土手道は、うんざりするほど蒸し暑かった。今朝は風もないようで、草木はそよとも吹かない。

 

 いつものように、由香里は水をもらうために神社へ向かった。


 朝の神社は、静謐な空気に包まれてしんと静まりかえっていた。短い参道を進み、拝殿の前に立つ。垂れ下がった麻紐を掴んだ。

 水をもらう前には、挨拶代わりのようにお祈りは欠かさない。神様を信じているわけではないが、礼儀だと自分に言い聞かせている。


 麻紐を揺らした。それから機械的に手を合わせ、目を閉じる。

 カランカランと、遠慮気味に鈴の音が鳴る。


 つい最近までは、何も祈らなかった。だが、今朝は、目を閉じた途端、志穂美の顔が浮かんだ。

 何事もなく過ぎますように。

 楽しい職場になって欲しいとは願わない。そんなことは無理だとわかっている。ただ、平穏に過ぎてくれればいいのだ。言われたことをこなして、穏やかにアパートに戻れればそれでいい。

 自分には逃げる場所がない。夜の仕事を辞めるわけにはいかないのだ。昼間の部品工場の稼ぎだけでは到底食べていくことはできない。あのホームセンターを辞めてしまったら、この小さな町で同じ条件の仕事が見つかるとは思えない。といって、別の町へ行くのはまだ無理だ。引越し費用をとても捻出できない。


 どうにかやり過ごすんだ。


 自分に言い聞かせる。

 志穂美からの攻撃は、雨に降られたとでも思おう。濡れるのさえ我慢すれば、どうということはない。止まない雨はないと言うじゃないか。


 不安なのは、志穂美の嫌がらせが、徐々にエスカレートしていることだ。次はどんな辱めを受けるだろう。それを考えると、鳩尾あたりに痛みが走る。



 鈴の音の余韻がすっかりなくなるまで頭を垂れたあと、由香里は水を汲みに行った。ペットボトルの口、ぎりぎりまで入れてから、参道を戻り、工場へ向かうバスに乗る。


 工場では滞りなく時間が過ぎた。何人ものアルバイトたちと一緒にラインの前に並び、黙々と作業をこなす。働いているのは外国人が多く、意志の疎通が面倒なときもあるが、人間関係に煩わされないのが有難い。


 一旦アパートに戻り、途中のコンビニで買った弁当で夕食をすませてから、由香里はスマホを眺めながら横になった。いつもの習慣で、ホームセンターに行くまでに、一時間ほど眠りにつく。


 夕方の七時を過ぎて目が覚めた。

 のろのろと、ふたたびでかける準備をした。何も考えず身体を動かそうとするが、どうしても昨日の出来事が蘇ってきてしまう。

 仕事終わりにぶちまけられた塗装缶。志穂美や千佳の嫌な目つき。


 重い足を引きずって、由香里はアパートを出た。アパートとホームセンターの近さが恨めしい。


 ホームセンターの従業員出入り口に着くと、同じアルバイト仲間の庄司さんと三加茂さんがいた。二人共、七十に近い年齢で、もう何年もこの仕事に就いていると聞いている。この町の出身のようで、よそ者の由香里には話しかけてこない。


 会釈だけの挨拶を交わし、二人と連なってロッカールームへ向かった。


 出勤してはじめに確認しなければならないのは、役割分担表だ。今夜の持ち場が書かれた紙が、ロッカールームの壁に貼られている。売り場の何番から何番までを担当するのか、トイレ掃除は誰なのか。表を見ればひと目でわかるようになっている。


 表を眺めて、由香里は思わず、

「えっ」

と声を上げた。

「わたし、こんなに?」

 由香里の担当箇所に、いくつもの番号が記されていた。普通なら、一人五通路。それが十二通路も記されている。しかも、トイレ掃除まで付け加えてあった。トイレ掃除は持ち回りのはず。たしか、自分は二日前にやったはずなのに。


 いくらなんでもひどすぎる。


 由香里は唇を噛み締めた。この表通りにやらされたら、今夜も定時に帰れない。

 真夜中を過ぎるだろう。いや、夜が明けてしまうかもしれない。


 嫌な予感が当たったのだ。

 志穂美の攻撃は続いている。


 あんなに神様にお願いしたのに。


 棒立ちの由香里の横で、庄司さんと三加茂さんが息をのむのがわかった。彼女たちにも、由香里に対する理不尽な待遇の意味がわかっている。


「ごくろうさんだけど」

 背後から声に、由香里は振り返った。

 志穂美だった。なぜか、今夜は紺色のスーツ姿で、足元はパンプスだ。いつもは後ろで縛っている長い髪を方に垂らし、かすかに香水の香りまでさせている。

「今夜、千佳さんと聖子さんが体調を崩して休みなのよ」

 だから、持ち場が多くなったというわけか。

「それに、わたしも今夜は、本社の人たちとの懇親会があるから」

 どうりで化粧が濃いわけだ。

 由香里は志穂美の胸元の銀色のチェーンを見た。普段、見かけたことのないネックレスだ。先端に、小さいがダイヤの粒が光っている。


「頑張ってね。できないことはないはずよ」

 志穂美はわざとらしい笑顔で言う。

「でも」

 志穂美の目の色が変わった。

「やだあ、できないっての? あんたのほかは高齢者ばっかりなのよ。年長者に仕事を押し付ける気?」

「そんなつもりじゃ」

 高齢者と言われて、あらまあと笑い合った庄司さんと三加茂さんは、そそくさと着替えに行ってしまった。二人共、見た目は優しげなおばあさんだが、志穂美からの攻撃を助けてくれたことはない。揉め事に関わりたくないのだ。しかも、攻撃を受けているのは、よそ者の女。現場監督に楯突いてまで守る必要はないのだろう。千佳や聖子のように、意地悪を仕掛けてくることはないが、結果的には、志穂美の横暴を黙認している。

 

「嫌だって言うんなら、辞めてもらって構わないのよ。代わりはいくらでもいるんだから」

 由香里が怯んだ隙に、志穂美はさっと身を翻した。

 そして、着替えをする奥の部屋に向かって声を上げた。

「三加茂さん、カートの洗剤、ちゃんと確認してねーッ」


 パタンとロッカールームのドアが閉まり、由香里は一人残された。

 思わずため息が出た。

 水曜日。

 もう一度、役割分担表に目をやる。

 今夜は新さんもいない。


 奥の部屋に進み、由香里は着替えを始めた。

 何時になったって構うもんか。どうせ帰ったって、アパートで寝るだけだ。

 そう自分を慰め、制服のジャージの上下に着替えると、由香里は掃除機を引っ張って売り場へ向かっていった。


 


 

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