第4話
午前八時二十七分。
眠い目をこすり、由香里は枕元に置いたスマホで時間を確かめた。
東に向いた窓から、溢れんばかりの陽光が注いでいる。
ムッとする熱気が、今日も灼熱の夏日になると知らせている。
窓枠の十センチほどの場所に置いた植木鉢のシルエットが、カーテン越しに見えた。布団から起き上がり、窓に向かう。
カーテンを開け、植木鉢を確認した。
だいじょうぶ。しっかり育っている。
植えられているのは、レモンだ。
六畳の部屋を横切り、由香里は形ばかりのキッチンへ入ると、単身者用の背の低い冷蔵庫を開けた。五百ミリリットルのお茶のペットボトルを手に取る。
ボトルには、お茶の代わりに水が入れてある。ボトルを手にして、由香里は窓へ向かった。
眩しさに目を細め柄、由香里はペットボトルから植木鉢に水を注いだ。水は小さな葉を通して、わずかな土へしたたり落ちる。
由香里がこうしてレモンを育てるゆになって二週間になる。大家からもらった植木鉢に、ふと思いつきで食べたレモンの種を植えたところ、芽が出てきたのだ。それ以来、嬉しくて丁寧に世話を焼いている。
ネットで調べた限りでは、そうそう簡単に芽が出るものでもないらしい。こんな勢いのいい芽が出てくれたのは、水がいいせいだと由香里は思っている。
これは、特別な水なのだ。
アパートと職場のホームセンターの間に、狭間(はざま)という名の古びた神社がある。その神社には、湧水が出る。ペットボトルの中には、その水が入れてある。
偶然、見つけた神社だった。引っ越してきたばかりのとき、荷物を片付けている最中に喉が渇き、自動販売機を探しにアパートのまわりを歩いた。そのとき、見つけた。こんもりとした鎮守の森が涼しげに感じられ、何気なく足を運んだ。
これといった特徴のない、田舎によく見かけるさびれた神社だった。鳥居の塗装も剥げかかり、足元の石畳も崩れた箇所が多かった。
人の姿も見かけなかった。もう誰も参拝しない神社なのかもしれなかった。
参道を進み、拝殿の前を左に折れると、大きな杉の木があった。その横に石の台があり、狛犬が載せられていた。
ちょろちょろとのどかな水の音がして、狛犬の向こうへ回ってみると、紅葉が数本あり、その脇の桶に水が貯めてあった。いや、貯めているというより、桶の中から水が湧き出していた。
はじめ、由香里はその桶を、手水舎(ちょうずや)の代わりだろうと思った。手水舎とは、お参り前に手を清める小さな小屋を指す。
だが、神社の手水舎は反対側にあり、湧水の出る桶とは違うようだった。
湧水が貯められている桶は石でできていて、大人が両手で抱えられるほどの大きさだった。桶の大部分は苔で覆われていた。脇に、長さ三十センチほどの立て看板があった。顔を近づけてみると、薄れた墨の文字は「命の水」と読めた。
水は清潔そうだった。絶え間なく底から吹き出しているせいだろう。
桶の端に置かれていた柄杓(ひしゃく)で、水をすくい、掌に垂らしてみた。冷たくて気持ち良かった。飲めるものなのか思案していると、リヤカーを引いたおばあさんが神社に入ってきた。おばあさんは迷わずこちらへ向かってきて、別の柄杓を手にすると、ごくごくと飲み始めた。
あのとき以来、由香里は狭間神社の湧水を飲むようになった。ペットボトルを首から下げたホルダーに入れ、仕事にも持っていくようになった。飲み物代の節約にもなるし、命の水という名前からして身体にいいような気がしている。
ほんとうに、これは命の水なんじゃないか。
そう思うようになったのは、レモンの種に水をあげ始めてからだ。三角形の小さな若葉が、神社の水をあげた翌日、ぐううんと頭をもたげたのだ。その様子には、たのもしい生命力を感じた。
その日を境にして、苗に神社をあげるのが日課となった。毎日かかさず、仕事と仕事の合間に神社に寄り、湧水を汲むのが由香里の習慣となった。
鉢に水をやり終えると、由香里は手早く出かける支度を始めた。
由香里は夜の清掃の仕事以外に、工場の部品組立ての仕事に就いている。午前十時から午後五時までの実労六時間だ。その仕事を終えると、一旦アパートに戻り、ふたたび夜の清掃の仕事のためにアパートを出る。
どちらも時給は安く、暮らしていくのはカツカツだ。それでもなんとかやっていけるのは、この部屋の家賃が格安だから。
由香里が借りている部屋は、隣の部屋と開かずの扉でつながっている。元々一つの部屋だったものを仕切って二つの部屋にしてあるのだ。もちろん、扉に鍵はかかっているし、トイレと風呂は別にあるが、賃貸というより下宿に近い。
隣に住んでいるのは、大家の娘だった。
大家の娘は、朝な夕なに妙な音を立てる。木を叩くような音だ。おそらく、木魚を叩いているんだと思う。呟きも聞こえる。なにやら、宗教的な文句のようだ。
間仕切られた部屋の造りとこの木魚のせいで、家賃は九千円。いくら田舎とはいえ、格安といっていい。
おかげでなんとか暮らしていける。
ポクポクと、今も、いつもの音が聞こえてきた。音の合間に、ぶつぶつと呟く声も聞こえてくる。
由香里はシャワーの湯を勢いよく浴びた。木魚の音は絶え間なく続いている。
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