第3話
間違いなかった。明らかに子どもが泣いている声だ。
悲しくて泣いているときの、子どもの声。絶望しているときの、声。
ふいに、ずっと胸の奥にしまいこんできた思い出が蘇った。
夫の両親の元に置いてきた息子、拓也のこと。
まだ一歳にもなっていなかった。
「今だったらあなたのことを憶えてない。そのほうがしあわせよ」
最後の日、姑は拓也を抱いてそう言った。意地悪で言ったんじゃない。ただ事実として言っただけだ。アルコールに溺れている女に、大事な孫を育てさせるわけにはいかなかったから。
あのときの声が蘇る。
「きゃっ!」
由香里は叫び、戦慄した。
目の端で何か動いたのだ。18番と17番通路の間、棚の陰から陰へ、何かが動いた。
見間違いじゃない。シンナーのせいでもない。
何かいる。
その何かは姿あるモノといえなかった。といって、何と表現していいのか。目には見えない。でも、たしかに存在する、何か。
18番通路の棚に、目を凝らした。棚には電動工具が並べられている。電動ノコギリの大きな刃が、無機質な光を放っている。黒い電気コードが、蛇がとぐろを巻いているいるように見える。
心臓がうるさいほど高鳴り始めた。
怖い。怖いのに進まずにいられない。
しゅるしゅるっ。
滑る音。
21番通路にまとめられている金属の鎖の音だ。由香里は普段、清掃用ワゴンで売り場を回る。何番通路の棚に何が置かれているか、おおよそは把握できている。
シタシタ。
おそらく、屋根用の塩ビの波板が軋む音。
そおっと、塩ビの波板が重ねられた棚を見上げると、波板全体がうねるのが見えた。
うそ。
首を振って自分の意識を確かめてから、もう一度波板を見る。
やっぱり、うねっている。わずかだが、まるで人がその上を歩いているかのように、波板が傾ぐ。
ひゅ、ひひゅん。
しゃくり上げている声だ。泣いているとき、我知らずしゃくり上げてしまうとき、こんな声になる。
サー!
風が起きた。
思わず後ろを振り返る。
バッグヤードにつながるドアは閉まったままだ。もちろん、正面玄関にあたる売り場の入口が開くはずはない。
じゃあ、風は、どこから?
由香里は弾かれたように走り出した。
慌てたせいで、棚にぶつかってしまった。棚の建築用のアルミ製のボルトが落ちてきた。土砂降りの雨に似た轟音が響き、大小のボルトが虫が逃げるように床を転がる。
ふいに、通路の奥から光が差した。
「きゃあ!」
思わず叫んで、由香里はボルトの渦の中にしゃがみこむ。
「真行寺さん!」
由香里は恐る恐る顔を上げた。
「ーー新さん?」
目に前に現れたのは、警備員の新橋圭一だった。制帽の下の目を大きく開き、こちらを見つめている。
「何してるんですか、こんなところで」
こちらに向けられた懐中電灯の光が眩しい。由香里は後ずさって、頬に両手を当てた。
「新さんこそ、どうして」
「わたしはいつもの見回りですよ。今夜、夜勤なんで」
そうだった。ホームセンターが契約している警備会社は、毎晩見回りをしている。
新さんは、三人いる警備員のうちの一人だ。年齢は、由香里より一回り上の五十代はじめ。それでも老人しかいない警備員の中では若手だから、親しみを込めて、誰もが「新さん」と呼んでいる。
「どうしてこんな時間に売り場にいるんですか。清掃はとっくに終わっているはずでしょう?」
手を差し伸べられて、由香里は瞬間の躊躇のあと、新さんの手を取った。しっかりとした肉厚の掌が、思ったよりも強く由香里の掌を握り返す。
立ち上がって、由香里はまわりを見回した。
「わたしだけやり残した場所があって、掃除をしていたんだけど」
言いながら、由香里は新さんの手をさりげなく離した。その瞬間、新さんの瞳が、わずかに陰ったように思えたのか由香里の思いすごしだろうか。
「なんか、物音がしたような気がして」
「ここで?」
由香里はうなずく。
「モニターには何も映っていなかったけど」
警備室は、建物の裏手の従業員出入り口の脇にある。そこに数台のモニターが置かれ、店内の防犯カメラをチェックする仕組みになっている。
「泥棒かと思って」
「正面も裏も鍵がかかっていますからね。侵入者がいれば警報器が鳴り出します」
「きっと、勘違いね。シンナーの入った剥離剤を使っていたから、ちょっとぼんやりしちゃったのかも」
そうじゃない。たしかに、泣いている声を聞いた。何かいると感じた。だが、信じてはもらえないだろう。
「シンナー? 怖いなあ」
大げさなほど、新さんは顔を歪めてみせた。
「だって、油性の塗料にはそれしか」
「由香里さんがシンナー中毒?」
「違いますよ。仕事以外で嗅いだことなんかありません」
「ほんとですか?」
こちらを覗き込む新さんの目が笑っている。おかげで、強ばっていた気持ちがほぐれていく。
新さんは、この職場で、由香里が唯一言葉を交わす数少ない者の一人だ。
由香里を見かけると、新さんは必ず声をかけてくる。どんなに遠くにいても、何かと用を見つけては近づいてきて声をかけてくれる。
はじめは戸惑ったが、慣れていくうちに由香里も新さんと話すのが楽しみになった。
特別な話をするわけじゃない。ほんの数分、天気のことだとか、テレビやネットで話題になっているニュースについて話すだけ。
それなのに、なぜか、新さんと話が出来た日は、心がじんわりあたたかくなる。ときには、自分でも驚くひど気持ちが弾んでいるときがある。
といって、由香里は新さんの好意に応えるつもりはなかった。一度結婚に失敗しているという負い目が、由香里を臆病にしている。
新さんは独身だという。介護が必要な姉との二人暮らしで、週に三日の病院に付き添っているらしい。
真面目で誠実な人なのだ。
そんな人に、自分はふさわしくないと思う。
「もしよかったら、お茶でも飲んでいきませんか」
バックスペースへ戻るドアへ向かおうとしたとき、新さんが言った。
「警備の深澤さんが、郷里の土産だと言ってモナカを持ってきてくれたんですよ。食べませんか」
何かと理由をつけて、新さんは由香里を誘う。そのたびとぼけたフリをして断ってきた。
こちらを見つめる真っ直ぐな視線に、今夜も誠実さが感じられる。
一度くらい応えてみようか。
助けてもらった感謝から、そんな気持ちが湧き上がる。
と、もう一人の自分がストップをかけた。
また裏切られるかもしれない。
その声は、由香里をしっかり捕える。
「遅いから、帰らなきゃ」
時刻はもう、午前二時を回ろうとしている。
はっきりと、新さんの目に、落胆の色が差した。
「そうですよね。真夜中にモナカなんか食べたくないですよね」
そう言いながら、観音開きのドアを押し開けてくれた新さんに、由香里は深く頭を下げた。
ロッカールームで着替えをすませ、由香里は建物を出た。
思ったよりも暑くなかった。これからが一日でいちばん気温の低い時間だ。風が心地良かった。汗が引いた首筋に風が通っていく。
しんと静まりかえった町を、由香里はそろりと歩き出した。遠くで犬の鳴き声がする。あくびが立て続けに二つ、出た。
今夜は星が出てないようだ。
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