第2話
シンナーの臭いは、慣れてみれば心地良ささえ覚える。
頭の芯がボーとして、なんだか身体がふわふわする。酒に酔ったときみたいだ。
最後のシミをこすり、由香里はフーッと大きくため息をついた。作業着の袖で汗を拭い、帽子を脱ぎ、髪を束ねたゴムを取る。髪のひっぱりがなくなると、途端に開放された気分になる。
ようやく終わった。床はすっかり元通りだ。これなら、明日志穂美が見てもやり直しと言わないだろう。
手元のライトを消し、由香里は作業を終えた。あとは道具をバッグヤードの所定位置に戻せばいいだけ。
立ち上がった由香里は、ふいに、まわりの闇に包まれた。フロアには、通路ごとに設置されたライトが光っているだけだ。手元のライトが眩しかったせいか、ほとんど闇に近く感じる。
目が慣れてくると、浮かび上がったいくつもの通路と、商品が並べられた棚が見えてきた。夜のプールのようだった。夜、誰もいないプールに沈んだなら、こんな光景が広がってるんじゃないか。
棚の横に吊るされた番号札が、迷路の唯一の手がかりのように続く。フロアの通路は、1番から50番まで。7番は釘。16番は収納用品。22番は木材。
天井が普段よりも高く見えた。こんなに広い場所だったのだ。仕事中は足元の床しか目に入らない。こんなふうに売り場を見渡すのは初めてかもしれない。
ふいに、辺りの静寂がまとわりついてきた。静けさが身体に染み込んでくる。
かすかに、クラクションの音がした。ホームセンターが面している国道を車が通って行ったのだろう。国道は田舎町の幹線道路だが、夜ともなれば車の通りは少ない。
クラクションが、潮が引くように遠ざかっていく。
「だいじょうぶ」
自分を励ますつもりで、口に出した。誰もいない真夜中のホームセンター。だだっ広い空間。もし、何者かに襲われたら、叫んでもすぐに助けは来てくれない。
そんなふうに思うのは、半年ほど前、夜間に泥棒が入ったと噂で聞いたからだ。犯人は外国人だったらしい。なぜか、数十本の鉄パイプを盗んでいったという。
知らず知らず唇を噛みながら、掃除道具を持ち上げたとき、硬い音が響いた。
「何?」
身体中に緊張が走った。
音は、フロアの向こうのほうから聞こえた。由香里のいる15番通路から遠くなるに連れて番号は若くなる。
気のせいだ。
朝八時半から営業を始める売り場は、夜の八時には終業となる。従業員たちが残業する日もあるが、せいぜい一時間だと聞いている。
売り場に人がいるはずはない。この建物に、今、自分は一人のはず。
ーーカタン
ふたたび響いた音。
今度の音ははっきり聞こえた。何かが落ちた音だ。金属製の物だと思う。
泥棒?
めまぐるしく視線を走らせて、逃走通路を確認する。従業員用のバックスペースまで走り抜ければ、なんとかなる。
由香里はバックスペースと売り場を隔てる観音開きのドアを見つめた。
そのとき。
ガタタッ。
はっきりと物音が響いた。
カン、コココーン。
何かが転がったのだ。
誰か、いる。
由香里は棒立ちのまま、恐怖に固まった。
逃げなくては。
息をつめて、足を前へ運んだ。すぐに走り出すよりも、そっと動いたほうがいい。
掃除道具を床に下ろした。あとで志穂美に何を言われてもいい。とにかく逃げ出したい。
一歩、二歩。スニーカーの足先を踏み出す。
47番通路まで進んだ。バックスペースに通じるドアまでは、あと少し。
と。
声が聞こえてきた。
うえん、ぇん。
それはあまりにも、この場にそぐわない声だった。
うう、えん。うえぇん。
子どもの声?
信じられない思いで、由香里は思わず立ち止まって耳をすました。
ふたたび、切ないような泣き声。
子どもがいる?
この真夜中のホームセンターに?
有り得ない。
きっとシンナーでぼんやりした頭のせいだ。そう思いながら、由香里はゆっくり歩き出した。さっきまでの恐怖とは種類の違う恐怖に襲われている。心臓がドクンドクンと音を立てた。まるで、心臓が耳の横にあるかのよう。
心が逸って小走りになる。41番通路までたどり着いたとき、声がふたたび静寂を破った。
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