育霊ーいくりょう・丑三つ時

popurinn

第1話

 額から流れた汗が、首筋を伝ってに落ちる。

 床の上に膝をついてひざまずいた由香里は、雑巾を持つ手に力を込めた。

 ぎゅう、ぎゅう。

 ビニール手袋が床の表面をこすって、嫌な音を立てる。


 こすってもこすっても、取れない。

 灰色のクッションフロアに広がった真っ赤な液体は、定着が良いと評判の油性塗料だ。


 楕円形にゆるりとひろがった赤い液体は、まるで老人がこぼした尿のようだ。脳裏に、二か月前まで働いていた老人施設が蘇る。世話をしていた高齢の老爺の無表情な顔が浮かんでは消える。


 今は、七月の真夜中。フロアの冷房が営業中よりも設定温度を上げげられたせいで、もわっとする熱気がこもっている。カタカタと音をさせているのは、清掃業者用の大型扇風機。届いてくる風は生ぬるい。


 ここは、ホームセンター。日用品からプロ仕様の道具も扱う大型店。

 油性塗料がこぼれているのは、一五番通路の端。水道配管用品が並んでいる場所だ。三段あるスチール製の棚に、様々な形の蛇口が置かれ、中段の抽斗には大小のナット、そして下段には、大きさの違う蛇腹配管ホースが束ねられている。


 赤い塗料は、その配管ホースのすぐ下にこぼれている。


 なぜ、こんな場所に。


 理由を考えるのはやめようと自分に言い聞かせる。誰かが故意に、いや、誰かじゃない。ぶちまけた犯人はわかっている。


 零時近く清掃作業が終わり、片付けを済ませてロッカールームに向かっていたとき、コツンと何かが落ちる音を聞いた。古い塗料の缶が落ちたとわかったのは、赤い液体を目にしたとき。由香里の担当した通路だった。


「あんた、やり直し」

 すぐさま、チーフの志穂美の声が響いた。何も言い返せなかった。言い返したところで事態は変わらないと、この仕事に就き、志穂美の下で働き始めてから身にしみていたからだ。

 由香里は雑巾と洗剤を入れたバケツを持ち、由香里は黙々と作業を始めた。せっかく翌日のために洗い、硬く絞った雑巾だったが、元の木阿弥だった。

 フロアの床にひざまずいて、表面をこすり始めたとき、

「そんなやり方じゃあ取れないわよぉ」

と、志穂美の背後から調子の外れた声がした。志穂美の舎弟の千佳だった。こちらを覗き込む目が意地悪そうに笑っていた。

 その横に立つ聖子も、同じ目をしていた。二人はいつも決まって、志穂美に便乗してくる。


 蘇ってきた三人の目を振り払ってから、由香里は上半身を使って、ふたたび腕に力を込めた。塗料が染みた雑巾は、ビニール手袋を真っ赤に染める。

 次々と雑巾を真っ赤にし、それをゴミ袋に捨て、それから由香里は剥離剤を手に取った。油性塗料を剥がずには、結局シンナーが入った薬剤を使わなくてはならない。薬剤の缶を開け、液体を雑巾に落とすと、刺激臭が立ち上がり、瞬間くらっとする。


と、目の前に、ピンク色のサンダルが現れた。


「だいじょうぶ?」

 顔を上げると、同僚の萌(もえ)が着替えを済ませて立っていた。

 水色の袖なしワンピース。お椀のように膨れた胸が強調されるデザインだった。

 売り場の店員が表舞台に立っているとすれば、自分たちは黒子のような存在だ。そのせいか、この仕事をする女たちは、一人としてメイクをして来ない。そんな中、萌だけはいつもフルメイクだ。その場違いなほどきれいな顔を、萌は心配そうに歪めた。二十代と聞かされた記憶があるが、ほんとうのところはわからない。二十代なら、これよりもっとてっとり早く稼げる仕事があるだろうから。


「ひどいよね、志穂美チーフ。仕事が終わったあとに、こんなものぶちまけるなんて」

 萌は床のシミに目をやる。

 誰もが、志穂美の仕業ととわかっているのだ。だが、誰も口に出さない。志穂美はこの現場での唯一の正社員。ここをまかされている三十八歳のベテラン清掃員だ。


 志穂美は、アルバイトたちの人事権を握っているらしい。気に入らない者は、志穂美によって本部へ告げ口されるという。

 この職場は、川で言えば、河口のようなもの。誰もが働き口を失ってここに流れ着いている。


 たとえば、萌。

 同僚のおばちゃんたちの噂では、萌はこの仕事をするまで、隣のの県の繁華街にある風俗店にいたらしい。萌はそこで、多額の借金を踏み倒したという。それから逃げるようにこの町へやって来て、生きていくためにここで働いているという。


 千佳の噂も耳に入っている。

 姑との折り合いが悪く、離婚の末実家に戻ったが、一時期、心身に支障をきたし病院にいたらしい。猜疑心が強く、人間関係が築けない。そのせいで何度も仕事を変わり、ここで拾われたという。

 聖子やほかの者たちも似たり寄ったりだ。そんなあぶれ者以外は地元の婆さんたちで、年齢が理由で解雇を恐れながら働いている。


 要するに、志穂美に楯突ける者はいないのだ。


「なんで志穂美チーフ、由香里にばっか意地悪するんだろ」

 萌の問いに、由香里はため息で答えた。辛く当たられる理由は、由香里自身にもよくわからない。

 この仕事に採用されたのは、二か月前の五月はじめ。町の中心部にある本部事務所で面接を受けた。

 その夜から働けるかときかれて、

「はい」

と返事をすると、すぐに郊外のホームセンターに連れていかれた。店には志穂美が待っていた。

 明るい感じの中年女性という印象だった。あのとき、志穂美は、事務的ではあったものの、感じよく接してくれたのに。



 敵意を持たれている。

 そうはっきりと感じたのは、働きはじめてから三日ぐらいたった頃さろうか。挨拶をしても視線を合わせてみらえない。ほかのアルバイトたちんはかけられる支持もしてもらえない。

 由香里はきにしないよう努めてきた。無視されるだけなら、そう害はない。だが、明らかな攻撃と思える嫌がらせが、日に日にひどくなった。

「あの人、誰かをターゲットにしていじめるのが趣味なんだと思う。自分のストレス発散のためだろね。前にもいじめられてたおばさんがいたんだよ。とにかくその人にばっか辛くあたるの。すぐ辞めちゃったけどさ、そのおばさんは」


 そう。志穂美のような人間は、どこの職場にもいるのだ。それはよく承知している。そしてどこの職場にも、他人事として関わらず、見て見ぬふりをする者たちがいるということも。


「なんか、手伝う?」

「いい、いい」

 由香里は首を振った。

「それより急いでるんでしょ」

 萌の服装から、今夜これから、例のカレに会うのだとわかった。いつか話してくれた、イケメンのホスト、光くん。二百万という大金を貢ぎ、それでもしあわせだという萌。

 萌がどんな生活をしていようと、由香里は気にならない。

 日々、何事もなく平穏に過ぎてくれればいい。


 自分が抜け殻だ。真行寺由香里という人間の抜け殻。四十六歳にして、由香里はすべてを諦めている。

「じゃ、帰るね。光くんが外で待ってるから」

 萌は顔の前で手を合わせると、ぽったりとマスカラの塗られた目を瞬いた。

「行って」

 由香里は笑顔で応え、ふたたび床に顔を戻した。

 

 



 

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