お兄様は大馬鹿者ですわ!
胡蝶夢
1話目
ローザンヌ王国第一王女、フランセット・ド・ローザンヌは憤っていた。
事の発端は、彼女の兄、王太子エルネストの起こした、とある事件である。
「アリエノール、私は君との婚約を解消し、ボアルネ伯爵令嬢と婚約しようと思っている。」
それは、よく晴れた日の昼下がり、婚約者同士の交流を目的に設けられた茶会の席でのことだった。
両親である国王夫妻に何の前触れもなく、エルネストが唐突に自らの婚約者に告げたその言葉に、その場にいた誰もが耳を疑った。
オルレアン侯爵令嬢アリエノールは、エルネストと同年に生まれ、家格の釣り合いと本人の素養が考慮された結果、当人同士が僅か6歳の時に婚約が結ばれた。
それからというもの、アリエノールは毎日毎日厳しい王太子妃教育に耐え、今では誰もが認める完璧な淑女となっているばかりか、自らの公務に加えてエルネストの公務の手伝いまでをもこなしている。
誰もが、王太子妃に相応しいのは彼女だと信じて疑わず、フランセットも彼女を姉と慕っていた。
アリエノールとエルネストは、約12年に及ぶ婚約期間を経て、来春の学院卒業に伴って婚姻する予定であった。
卒業を半年後に控えた中での、突然の婚約解消宣言。
アリエノールの長年の努力を無に帰すその発言に、その場にいた使用人たちは騒然となった。
一方で当事者のアリエノールはというと、恋に溺れた婚約者の言葉を粛々と受け止め、速やかに国王並びに実父たるオルレアン侯爵に報告をあげた。
そのことで初めて今回の件が明るみとなり、フランセットも知るところとなったのだ。
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「お兄様は大馬鹿者ですわ!」
事の一部始終を聞いたフランセットは、そう叫ばずにはいられなかった。
長年自らに尽くしてきた婚約者を、準王族としての努力を惜しむ事がなかった婚約者を、一体なんだと思っているのか。
王族の妃に必要なのは、夫婦間の愛情よりも、自らが王族となることの意味を理解し、また王族の義務や責任を理解していることだ。
王族の婚約者は、ほぼ確実に国王によって定められる。
そこに愛がなかったとしても、婚約者は王命なのだ。
つまりエルネストは王命に背き、燃え上がった自らの一時的な恋愛感情を優先したのである。
それは到底、看過できるものではないはずだ。
そんなことにすら考えが及ばぬほど、フランセットの兄は愚かだっただろうか。
さらに言えば、エルネストがアリエノールを捨ててまで選んだ伯爵令嬢ミラは、外見は確かに可愛らしいが、王族の責務を理解しているとは到底思えない、少しばかり――いや、かなり頭の足りない女性だ。
現在はボアルネ伯爵令嬢という身分ではあるが、その実態は伯爵が昔手を出したメイドを孕ませた結果産まれた庶子である。
昨年彼女の母親が病死し、伯爵が夫人の養女として迎え入れたことで、彼女は伯爵令嬢の地位を得、アリエノールやエルネストが通う学園に転入した。
それからの1年間で貴族としての教育は受けたようだが、幼い頃から貴族社会に馴染んでいたわけではない彼女の礼儀作法は付け焼き刃にも程があった。
上流階級においては最も重要視される身分というものに意識が向いていないからこそ、王太子にすら馴れ馴れしく接することができたのだろうが、一般的には眉を顰められるその行為は、幼少から王族として周囲に畏まった態度ばかり取られる人生を送ってきたエルネストには新鮮に映ったのだろう。
生まれて初めて恋というものを経験したエルネストは、彼女の教養の足りなさですら、愛らしいと言ってしまうほど彼女に惚れ込んでいた。
フランセットの心中に、兄への失望と義姉となるはずだったアリエノールへの心配、兄の恋人ミラへの疑惑が入り乱れる中、父である国王も、とある決断を下した。
『第一王子エルネストと、オルレアン侯爵令嬢アリエノールの婚約を解消する。又、上記に伴い、第一王子エルネストの王太子位を剥奪し、その後一年の期間をかけ再度王太子選定を行う』
フランセットは、王命である婚約を勝手に破棄し、己の感情を優先したエルネストには、甘すぎる決定だと憤った。
王太子選定を再び行うということは、エルネストにもまだ返り咲くチャンスが残されているということだ。
そんなにあの伯爵令嬢と結婚したいのならば、王族の籍から追い出してでも結婚すれば良いのに。
そう憤慨するフランセットだったが、国王の決定はそのまま国全土に通達され、王太子選定のやり直しが行われることとなった。
王太子選定の対象者となるのは、第一王子エルネストの他、第二王女シャルリーヌと、王弟レアンドルの計3名だった。
フランセットにも権利は与えられていたが、彼女は既に隣国の王太子と婚約を結んでいるため、自国の王になることはできないと辞退した。
とはいえ、第二王女シャルリーヌはまだ6歳と幼く、王太子としての資質を示す様な功績を残すとは思えない。
この王太子選定は、実質第一王子エルネストと王弟レアンドルの2名による一騎打ちなのだ。
王弟レアンドルは、文字通り現国王の弟であり、つまりフランセットたち兄妹にとっては叔父にあたる人物だ。
しかし、彼が生まれたのは現国王が結婚するわずか2年前であり、現在は20歳。
17歳のエルネストとは3歳しか歳の差がない。
フランセットにとっても、歳の近い叔父は、叔父というよりも、もう一人の兄のような存在だった。
婚約解消を言い出すまでは、エルネストは王太子として大きな不足がある人物ではなかった。
そのため、レアンドルは王位継承に無駄な争いを生まぬよう、婚約者も置かず、王族を退いて近々臣籍に下る予定を立てていたことを、フランセットは知っている。
しかし、状況は一変した。
長年の婚約者を蔑ろにしたエルネストに、レアンドルも大いに憤っていた。
そのため、王太子選定の権利を放棄することなく、王位争いに参戦することとなったのだ。
人々にとって驚きだったのは、第一王子エルネストとボアルネ伯爵令嬢ミラの婚約が認められたことだけではなかった。
なんと王弟レアンドルが、エルネストの元婚約者となったオルレアン侯爵令嬢アリエノールと婚約したのである。
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1年の間に挙げた功績は、エルネストとレアンドルに大差はなかった。
エルネストは長年の課題だった治水事業と森林保護、レアンドルは貧民救済措置としての労働提供と医療制度の整備を主に行い、それぞれ別の方向性から国の課題を快方へと向かわせることに成功した。
取った政策の内容がより民に寄り添ったものであったことからレアンドルに対する支持の方が上回っていたが、それでもエルネストにも可能性は残されている状態だった。
最終的な命運を分けたのは、各々の婚約者の素養であった。
エルネストの婚約者となったミラは、一年の間も変わらず遊び呆け、エルネストに強請ってはドレスや宝石で身を着飾り、王子妃教育もまともに受けていなかった。
エルネストの政策に対して提案も助言も行わず、そもそも彼が何を行なっているのかすら知ろうともしなかった。
一方でレアンドルの婚約者となったアリエノールは、元より10年以上にわたる王太子妃教育を真面目に受けていただけでなく、この一年の間も慈善事業や教育の普及など、レアンドルの補佐に加えて自らの功績もしっかりと残していた。
どちらが王太子妃に相応しいかは、火を見るよりも明らかだった。
たとえエルネストがレアンドルよりも優秀だったとしても、妃の責務を理解していない者を配偶者とするエルネストに、この国の未来を背負わせるわけにはいかなかったのだ。
「どうして!エルネスト様は王太子に戻れるのではなかったの!?」
新たな王太子選定の結果が発表された時、ミラは狂ったように叫んでいた。
「国王陛下も本心ではエルネスト様を王太子から退けたくなかったのです」「ですが、王命である婚約を一方的に解消したことの責任は取らせなければならなかったのです」「王太子選定のやり直しは、エルネスト様を王太子に戻すための出来レースなのですわ」
などとほざく取り巻きの言葉を、まさか本気にしていたのか。
フランセットは扇で口元を隠しながらため息をつき、ミラに冷たい視線を向ける。
「エルネストお兄様が王太子の座を逃したのはあなたの所為だと言いますのに、随分とご不満なようですわね。ミラ・ボアルネ伯爵令嬢。」
「どういうことですか!?」
「まだ理解しておりませんでしたのね。この一年の王太子選定には、王太子としての本人の資質はもちろんのこと、王太子妃となる人物の見極めも同時に行われていたのですわ。
エルネストお兄様の婚約者である貴女と、レアンドルおにい様の婚約者であるアリエノール様。
王太子選定の結果には、それぞれの評価も反映されております。」
こともなげにそう言ったフランセットに、ミラは訳がわからない、と言った表情を浮かべる。
「何を言ってらっしゃるの? 妃は美しくあり、夫を癒し支えることが仕事でしょう?」
「たったそれだけでいいのなら、娼婦にだってできますわ。」
「なっ…!」
絶句するミラを冷ややかに見つめながら、フランセットはお気に入りの扇をパタン、と閉じる。
「王族の妃として求められる素養は、美しさなどではないわ。
国内の貴族のみならず、他国の王族とも良好な関係を築くための社交は必須。
そして社交はただのお喋りであってはならない。
まず必要な知識と言語の習得、マナーの勉強、芸術への知見、領地の特産物や気候特性などの把握、エトセトラ。
社交に必要な要素だけでもこれだけあるのです。
それに加えて、聞き出した情報を適切に活用する能力、王族として裁かなければならない書類の管理、そして万が一、夫たる人物が不在となった場合、代理として国をまとめるだけの手腕。国民一人一人の命を背負う覚悟。それら全てが必要とされますのよ。
妃はお飾りの妻ではない。国を背負う一角を担う人物なのです。
あなたに、それだけの力と覚悟があると言えて?」
「あ、あ…」
フランセットがミラを鋭く見つめると、ミラは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる。
彼女が自国の言葉しか話せず、自領の特産物も把握せず、マナーも最低限しか身についておらず、書類仕事などは特に苦手としていることは調べがついている。
ミラは自分のことについて反論しても無駄だと悟ったのか、その視線を彷徨わせた結果、静かに自分を見つめるアリエノールを視界に入れた。
「あっ、アリエノール様は!アリエノール様は、美しいからエルネスト様の婚約者に選ばれていたんですよね!レアンドル様だって、アリエノール様が美人だから自分の婚約者に…」
「不愉快だ。」
アリエノールへと話題をすり替えたミラの発言を、底冷えするような冷たい声で遮ったのは、他でもないレアンドルだった。
「アリエノールが美しいから、私はアリエノールを婚約者にしたと?
確かにアリエノールは美しい。それは事実だ。
だが私が彼女の美しさにのみ心を奪われていると、そう思っているのか?」
鋭い眼光で睨め付けるように自分を見るレアンドルに、ミラはがくがくと震え始めた。
「言っておくが、フランセットが言った妃に必要な要素など、アリエノールはとっくに身につけている。
それは12年間も王太子妃教育を受けてきたアリエノールが、血の滲むような努力の末に手にしたものだ。
私はアリエノールの美しさももちろん愛しているが、それ以上に彼女の、目標に向かい努力ができ、己の為すべきことをしっかり見据えられている、そんな姿勢を愛しているのだ。
一年間をかけた王太子選定の間にも何の努力もしなかった貴様と、積極的に事業に取り組み更なる努力を惜しまなかったアリエノールを一緒にするな!」
響いた怒号にミラはびくりと身をすくめ、縋るようにレアンドルを見つめる。
「れ、レアンドル様、私はただ…」
「ボアルネ伯爵令嬢。誰が貴女に、私を名前で呼ぶ事を許可した?」
言い訳の隙すら与えず一字一字を強調するように発言するレアンドルの威圧感に、ミラはその場にへたり込んだ。
横に立ちながらも、事の成り行きに言葉を挟むこともできずただ静観するしかなかったエルネストに、弱々しく視線を送る。
「え、エルネストさま…」
「ミラ。僕が再び王太子の座を手に入れるチャンスを逃したのは、僕の力不足だ。だから…」
「君は悪くない、だなんて、そんなこと仰いませんわよね、お兄様?」
兄の言葉を先読みし、フランセットはその続きを遮った。
だいたい、エルネストが愛する
エルネストもミラも、いい加減現実を見なければならない時だ。
「確かにお兄様が王太子の座を逃したのは、お兄様の力不足ですわ。何せ、ミラ嬢を管理しきれなかったのですから。」
「フランセット、これ以上彼女を責めるのは…」
「いいえお兄様、これははっきりさせておかなければならぬことなのです。
この一年の期間は、彼女が王族の妃として相応しい人物へと成長できるか否かを試す期間でもあったのですわ。
例えアリエノールおねえ様には届かずとも、ミラ嬢が王族の責務を理解し、その妃として相応しい人物になる努力ができるか。
その姿勢を見るために、お父様は一年という期間を設けたのです。」
フランセットにすら理解できるのだ。
もともとは優秀な後継者として教育されてきたエルネストに、想像がつかなかったはずがない。
わかっていてミラに強く言えなかったのであれば、それはエルネストの怠慢であり甘さだ。
わかっていなかったのであれば、恋に溺れて正常な判断ができなかっただけのこと。
いずれにせよ、王族として好ましいこととは到底言えなかった。
「王族の妃になるということは、少なからず国の顔として活動すること。そのために必要なことを成し遂げられる者のみが、妃と認められるのです。
王族の恋愛結婚が認められるのは、当事者の選んだ方が相応しいと判断される場合のみ。即ち恋愛相手の方が妃と認められなければ、王族を降りるか、愛する者を妾とし正妃を別に迎えるかの2択しかないのですわ。
国民の血税で生活している私たち王族にとって、国益のための結婚は当然。本来ならアリエノールおねえ様との婚約を勝手に破棄すると宣言した時点で王位継承権を剥奪されてもおかしくありませんでした。
挽回の機会が与えられていただけでも、お兄様は恵まれていたのです。」
フランセットに完膚なきまでに論破され、エルネストはぎゅっと唇を引き結んで下を向いてしまった。
それまで黙って成り行きを見守っていたアリエノールが、重々しく口を開く。
「ボアルネ伯爵令嬢。私は貴女がこの一年で変わってくださると信じていました。王族の妃としての責務を理解し、王子殿下の隣に立つに相応しい人物になってくださると。ですが貴女は、一年もの時間を、ただ無駄に過ごしただけでした。」
反論する箇所が思いつきすらしないのか、ミラはギリギリと歯を食いしばってアリエノールを睨みつける。
アリエノールは、睨まれていることを気にもしない様子でミラからふっと視線を外し、
「…王子殿下。私は貴方が、私という長年の婚約者を捨ててまで選んだ彼女を、相応の人物に導いてくださる事も信じていたのです。結果的に、それは誤りでしたが。」
「…すまない、アリエノール」
「名前で呼ぶことはお控えください。今はお互い、別に婚約者のある身です。それから、謝られるようなことはございません。私は今、レアンドル様の隣に立つことができて幸せなのです。過去のことはもう終わったことです。」
毅然とした態度で幸せだと言い切るアリエノールの肩を、傍に立つレアンドルが抱き寄せる。
アリエノールは愛する婚約者を見上げて少し微笑み、視線を再びエルネストへと戻す。
「殿下。殿下の優しさは、美徳でもありますが、それは甘さであり弱点です。国を統べる者は、時には残酷な選択もしなければなりません。ですが殿下は、弱者に寄り添い、どうにか恩情をかけようとしたがるきらいがございます。それが例え、相手のことを思うからこそ厳しく諌めなければならない場面だとしても。私は殿下の婚約者であった頃、ずっとそのことが気がかりでした。」
「…オルレアン侯爵令嬢。君は、私のことを、私よりもずっと理解してくれていたのだな。」
エルネストはぽつんと呟いた。
盲目的な愛に溺れ、王族としての立場を忘れ、婚約者を蔑ろにした彼は、一年間の時を経て今漸く、己に課せられていた責務を思い出したかのような顔をしていた。
アリエノールが語ったエルネストの優しさは、臣下に対しても婚約者に対しても、同様に注がれていた。
アリエノールがまだエルネストの婚約者だった頃、2人の間に恋愛感情はなくとも、エルネストはアリエノールに優しかった。
婚約破棄にしろ、アリエノールの過失をでっち上げて、一方的に断罪することも不可能ではなかったのだ。
それを馬鹿正直に真実を告げ、エルネスト有責の婚約破棄という形にしたことも、婚約者を持ちながら別の女性に恋をしてしまったからこそ、アリエノールに対してせめて誠実に終わりを迎えたいと思った故の行動だったのだ。
「…私は、最初から間違っていたのだな。責任よりも愛を選んでも、この一年の間に王太子として相応しい資質を見せられれば、父上も認めてくれると…」
「もう18年間も王族をやってらっしゃるのに、そんな当たり前のことを忘れていただなんて、心底呆れますわ。」
フランセットはふんっ、と鼻を鳴らし、項垂れる兄に追撃を浴びせる。
それまで静かに見守っていた父国王は、やり取りがひと段落したことを見越し、漸く口を開いた。
「フランセット、そのくらいにしておきなさい。
王太子選定の結果は決した。次期国王の立場はレアンドル、おまえに任せることにする。
…さて、エルネスト。この一年を無駄に過ごした婚約者を持つお前を、このままの立場に置いておくことはできない。わかるな?」
「…はい、父上。」
エルネストはギュッと唇を噛み締めた。
「選びなさい。
その娘と婚姻を結び、王籍を抜けて臣下に下るか…
もしくは、その娘との婚約を破棄し、レアンドルの片腕となって国を支えるか。」
いわば、王族としての責任から逃げ真実の愛とやらを貫くのか、はたまた王族としての立場を自覚し真に王族として生き抜くのか。
それはエルネストにとって、最も残酷な選択だった。
どちらを選んでも、何かを失う。
前者なら、エルネストは王族の責任を放り出して愚かな元王族だと蔑まれながら生きることになるだろう。
後者を選べば、無論エルネストは、一度はすべてを捧げようとした初恋を捨てることになるのだ。
こんな選択を迫られるくらいなら、初めから初恋を胸に秘め、アリエノールと何事もなく婚姻を結んだ方がよっぽどマシだったはずだ。
「い、いやよ!私はエルネスト様の妃になるの!」
「それは無理よ。結婚するのならお兄様は王族を抜けることになる。お兄様の妃には、どう頑張ってもなれないわ。」
ミラが焦ったように喚く声を、フランセットはあっさりとぶった斬る。
「往生際が悪いわね。この期に及んで自分の心配をするなんて。」
「わ、私は自分の心配なんて」
「しているでしょう?
…ねえ、ミラ嬢。貴方が欲していたのは『エルネストとの愛』なの?それとも『王子様との結婚』?」
「ッ…それ、は、もちろんエルネスト様と愛し合えることで…」
鋭くねめつけるフランセットに、ミラは慌てたように愛を主張する。しかしその前に、一瞬の躊躇があったことは否定できなかった。
フランセットは、彼女の答えなどどうでも良いと思っていた。
だから、彼女のことは一瞥しただけで、ただ兄の出す答えを待っていた。
「…僕は、ミラを愛しているよ。」
エルネストがポツンと呟く。
「君を愛してた。たとえ君がそうではなくてもね。君は僕に、知らない世界を見せてくれた。ありのままの自分でいればいいのだと、僕を受け入れてくれた。王族としては間違いだったけど、僕が君に救われたことは紛れもない事実だ。…だから、僕は君と結婚するよ。王族でなくなることになっても。」
エルネストの決断を聞き、ミラは肩を震わせた。
それが何故の震えだったのかは、その場では判断がつかなかった。
「それでよいのだな?」
「…はい、父上。不出来な息子で…最後までご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」
「よかろう。これをもって、第一王子エルネストの王籍を剥奪し、ミラ・ボアルネ伯爵令嬢との婚姻により、ボアルネ伯爵の位を与えることとする!」
国王の宣言によって、王太子選定は終幕を迎えた。
翌日の早朝、エルネストはミラとともにひっそりと王城を去り、それ以降王族を名乗ることは二度と許されなかった。
ーーーーーーーーーーーー
フランセットは、自室のソファに座りぼんやりと窓を眺めていた。
視線の先には、彼女の兄を乗せた馬車があった。
出発時から眺め続けたその馬車はどんどん小さくなっていき、今では豆粒ほどの大きさになっていた。
「…お兄様は大馬鹿者ですわ。」
フランセットは、誰にも聞こえないほど小さな声で、ポツリとつぶやく。
エルネストが王族籍を捨てミラとの婚姻を選んだのは、ミラに対する温情に他ならないと、フランセットは気がついていた。
あの場で正しい選択は、ミラとの婚約を破棄し、王族としての責務を全うすることだった。
それがエルネストの名誉のためでもあり、王族として生を受けた者の務めだった。
エルネストも、理解していなかったわけではないはずだ。
それでもあの選択をしたのは、自分の名誉を守ることよりも、ミラの尊厳を傷つけないことを重視しようとしたためだった。
エルネストがミラとの婚約を解消し王族のままいれば、ミラは『元婚約者から王子を奪い、さらに王子に捨てられた愚かな令嬢』というレッテルを貼られる。
そうなってしまえば、特に大きな力を持つわけでもないボアルネ伯爵家の令嬢が、いい縁談に恵まれる可能性は限りなく低いだろう。
それを避けるために、エルネストはあえて茨の道を進むことにしたのである。
「本当に…」
フランセットにとっても優しい兄だったエルネストは、もう簡単に会うことのできない場所へと旅立ってしまった。
フランセットは、2年後には隣国へ嫁ぐことが決まっている。
王族のままでいてくれたならば、嫁いだとしても、せめて顔を合わせ話をすることくらいはできたのに。
エルネストの選択は、王族の責任を捨てると同時に、家族を切り捨てる行為でもあったのだ。
そしてそれは、彼を慕う妹との別れも、同時に意味していた。
「本当に、お兄様は大馬鹿者ですわ」
フランセットはもう一度そう呟き、窓の外から視線を逸らす。
エルネストを乗せた馬車は、もう見えなくなっていた。
お兄様は大馬鹿者ですわ! 胡蝶夢 @yumereve
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