初めましてこんにちは

 先生が姐さんの身請けに向かう中、私に和紙で視界を貸してくれたので、それを見ながらどきどきして待っている。

 不明門あけずくんは私に気遣ってか、お茶を淹れて茶菓子に琥珀糖をじゃらじゃらと並べてくれる。


「落ち着けって。先生が身請けするって言ってんだからどうにかなるだろ。さすがに強欲な店主だって、身請けするって奴にどうこうできねえよ」

「でも……裏吉原ではそうなの? 徳を積んだら身請けできるって……」


 身請けというのは、基本的に遊女に背負わされている借金を全部肩代わりして一括で支払うことで、遊女の身元を引き受けることになる。

 ただ少なくとも大正の吉原において、一回来ただけの人間が遊女を身請けするのは禁止されている……もしそんな簡単に売れっ子遊女が買い取られてしまったら、広告塔がいなくなるんだから、商売あがったりだ。

 遊女を身請けするには、何度も通って遊女の許可を得ること、店主や遣り手に顔を覚えてもらうことで、やっと身請けの許可を得る。

 特に大見世の場合は、遊女にかけるお金が桁が違うから、そう簡単に手放せないはずなんだけれど。

 私がそう恐々と尋ねるけれど、それに不明門あけずくんは「ふーん?」と首を捻った。


「裏吉原の場合、徳を積んでいるのが一番偉いからなあ。それが神が取り決めた規律だし」

「そうなんだけど……でも徳って、基本的に表で言うところの通貨だし……」

「そりゃ通貨代わりに使ってるけど、それ以外の方法でも使ってるだろうが」

「う、うん?」


 たしかに先生は魔法を使うのにためらいなく溜め込んでいる徳を使っているけれど。

 不明門あけずくんは頷いた。


「徳を積むっていうのはさあ、物々交換みたいに見返りのために使うってだけじゃないんだよ。見返りなしで徳を使うっていうのが、一番徳を積む。師匠は徳をためらいなく誰かのために使うことでさらに徳を積んでいる」

「ええっと……つまりは……」

「見返りなく身請けするって言っているのを止めるってことは、徳を積んだ奴が一番偉いって規則がある裏吉原では不可能なんだよ。それこそ神が定めた規則だからな」

「あ、ああ……」


 どうやって先生があれだけの徳を積んでいるのか、やっと理解できた。あの人は、魔法を使う際にためらいなく徳を使っていることで、さらに徳を積んでいたんだ。

 つまり身請けをするときも、徳を積んだひとが更に人助けしようとしてるとなって、拒否できないと。


「まさか……そんなからくりがあるなんて思ってなかった……」

「普通は溜め込んだものを誰かのために見返りなしになんて使えないからな。師匠はそこらへん躊躇なかったから。俺は師匠のそういうところ、本当に尊敬している」


 不明門あけずくんは余計な嘘を付かない。きっとその通りなんだろう。

 そうこうしている内に、先生が荒木屋に辿り着いた。


『先日お会いした泉水せんすいの身請けに来ました』

『正気かい? 記憶喪失を直しもせずに、身請けすると?』


 私が気を揉んだ通り、店主は顔を引きつらせて渋っている。姐さんが荒木屋に来てから、どれだけ芸を仕込むために徳を流したかわからない。それを取り戻せない内に身請けを持ちかけてきたから渋っているんだろう。

 ……姐さんの場合、記憶喪失のせいで見世に出してもそこまで大掛かりなことにはならなかったみたいだけれど。

 それでも先生は引かなかった。


『無理に記憶を戻したら、あの子が壊れてしまうかもしれませんからねえ。そうなったら店主がせっかくあの子に積んだ徳が全部消し飛びます』

『脅迫かい? 万屋風情が』

『はい、その万屋風情が、どうにか荒木屋さんに迷惑をかけない程度に徳を積んで彼女を引き取りたいと願っておりますよ』


 そう言いながら、先生は持ってきていた風呂敷を広げた……先生、いったいどれだけの徳を今まで積んできたんだろう。あとあの風呂敷にも魔法の仕掛けでも施していたんだろうか。私たちが風呂敷に入れているのを見かけたときよりも、墨色の徳を占めた瓶の並びが増えていた。焼酎瓶のような大きさの徳が並んでいるのを、店主は何度目かわからない顔の引きつらせ方をして見下ろしていた。


『あんた……本当に正気かい? これだけの徳を、たったひとりの娘を身請けするためだけに……』

『荒木屋さんからしてみれば、神に見染められた訳でもなく、上客を得ている訳でもない、価値が不確かな娘さんかもしれませんけどねえ』


 先生は笑っていた。いつものように煙管を加える訳でもないし、私からだと先生の表情は読めないけれど。おそらくけざやかに笑っていることだろう。


『……あたしにとっては価値があるんです。どうします? もし駄目なら、これは全て……』

『……っ、たしかにあれは神にも目をかけられてないし、上客を得てない。あと数年かければ話は違うかもしれないが……数年経ってもあんたがこれだけ徳を積んだままかわからないからね』


 とうとう店主は根負けしたように、風呂敷を包み直して急いで持って行くと、遣り手に声をかけた。


泉水せんすいを連れておいで』

『……わかりました』


 遣り手もあからさまになにか言いたげな顔をしていたものの、先生が積んだ徳の重みに負けて、せかせかと蔵まで行ってしまった。そして、地味な着物を着た姐さんを連れ帰ってきた。

 しばらく蔵に入れられていたせいだろう。姐さんはあからさまにぐったりしていた。

 姐さんはとまどった顔で先生を見上げている。


『どうして? どうしてあたしを助けてくれたんで?』

『いろいろあるんだよ。おいで。万屋も最近は人手不足がひどくてね。大きな仕事から小さな仕事まで舞い込んでくるけど、それを仕分けしてくれるひとが欲しいんだけれど、どうだい?』


 先生の言葉に姐さんは困惑したまま見上げてから、やがてコクリと頷いた。


『……よろしくお願いします』


 そう言って頭を下げたのを見届けてから、私はとうとうベソをかきはじめた。

 ごめんなさい。姐さんごめんなさい。私のせいで、ごめんなさい……先生ありがとう。本当にありがとう。私、先生には全然返せそうにない恩ができてしまった。

 見かねたのか、不明門あけずくんはまたしても私の頭を撫でてきた。


「オマエまたすぐ泣くからぁ……」

「……先生に全然返せない恩ができちゃったから……本当にありがたくって、申し訳なくって……」

「俺は何度もおんなじこと言わないぞ。それにさあ、オマエの姐さんが来るんだったら、もっと万屋綺麗にしないと駄目だろ」

「あっ……」


 思わず見回した。

 万屋に使っている家屋は、一応私は三階の物置部屋で寝させてもらい、着替えもそこで行っている。姐さんが来るってことは、物置部屋ももっと綺麗にしないといけない。

 私は慌てて客用布団を引っ張り出してきて、それを屋根に乗せて干しはじめた。

 布団を干している間に、箒で掃き掃除をしてから、雑巾がけをはじめる。私が慌てて体を動かしはじめたのを、不明門あけずくんは呆れた顔で階下から私の掃除風景を眺めてくる。


「俺手伝うことある?」

「今はない! 下で店番してて!」

「へいへい」


 不明門あけずくんが店番している間に、私は一生懸命掃除した。

 もっとも、ここは私が普段寝泊まりしているせいで、比較的綺麗だ。もっとも、物置は板張りだから、畳張りの部屋に比べれば普通に寒い。

 そうは言っても他に敷けるものもないから、後で床に敷く布でも買うべきかと考えている間に、「ただいま」と声が聞こえた。


「お帰りなさいませ!」


 私が慌てて雑巾を持ったまま店まで降りてきたのに、先生はくすくすと笑った。


「頑張っていたようだね」

「……はい。初めまして」


 記憶を覚えていない姐さんは、私の様子をキョトンとしていたものの、私はただしゃべった。


「私は音羽と申します。あなたは?」

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