魔女の真相

 その日は結局、「今、記憶を取り戻すのは彼女の体に悪い」と先生は押し切り、そのまま荒木屋を出て行った。

 私は先生の背中を必死で追いかける。それを不明門あけずくんは見守っていた。


「先生、さっき見せてくれたもの、どういうことですか!? 先生が姐さんの記憶を奪ったって!」

「そういう依頼だったからねえ。あれは自分の記憶以外に支払えるものがなかった。裏吉原に流されてきたばかりで、徳を積む素養もないし、命すらなかったんだから、もうあたしに差し出せるものが記憶しかなかったんだよ」

「だからって! だからって先生、どうして姐さんの記憶を……!」

「店に帰ったら話をしてやるから、今は怒鳴るのを辞めな。あたしだって死神に目を付けられる訳にはいかないんだよ」


 それに私は思わず言葉を詰まらせた。

 ……死神に目を付けられるようなことってなに。あのひとたちは、この裏吉原の警察官みたいな役割だと記憶していたけれど、そのひとたちに目を付けられるって。

 先生は大通りで並ぶ屋台で、私たちの昼食を買う。焼きめしを買って帰り、万屋に帰り着いた途端に、先生は黙って自分自身の墨色の徳を使って和紙になにかを書くと、それをペタンと戸に貼り付けた。

 独逸語で【立入禁止】と書いてある。


「さて、焼きめしを食べながらでいいから、どこまで知りたいか言いな、音羽」


 そう言われて、割り箸を割る。裏吉原にも中華料理はあるんだなと思いながら、焼きめしをひと口分頬張った。卵の味に少しだけ気持ちがほぐれて、ようやっと口を開いた。


「先生、姐さんと会ったのは、いったいいつなんですか? 私が裏吉原に流れ着いたときには、もう姐さんは……不明門あけずくんだって見てないんでしょう?」

「見てないっつうか。師匠がお使いで出かけたらから、店番してたら先生がオマエを連れて帰ってきたんだよ。あんまりにボロ着てたから、喜多の店まで行って着物買ってきてさ」

「ああ……」


 つまりは、先生は私が裏吉原で倒れていたときには、もう姐さんに会っていたんだ。

 私たちの会話を聞きながら、先生は焼きめしを食べつつ、小さく頷いた。


「そうさね。お前さんを拾った頃に、お前さんの姐さん……かがりに会った。そこで訴えられたのさ。お願いだから、自分の命をこの子にあげてって」

「…………!」


 息が止まるかと思った。

 前々から、人間が生きたまま裏吉原に来るのは珍しいとは聞いていた。裏吉原で過ごすようになってからそこそこ時間が経ったけれど、未だに私以外の人間は先生以外しか知らない。残りはあやかしか幽霊、神しか見たことがない。

 その中で……姐さん。あなたはいったいなんてことを。


「……どうして」

「仕事帰り。川辺に見知らぬ遺体が打ち上がっていた。裏吉原で遺体が浮かんでいたら、すぐに死神に報告しないといけないのさ。神が遊郭に遊びに来るまでに、汚いものは皆回収するのがあいつらの仕事のひとつさね。報告するかねとなんの気なしに覗き込んでいたら、死体を抱き締めて泣いている女に出会ったのさ。女はあたしに言ったのさ。『自分はこの子をそそのかした。この子は吉原の陰湿な部分を知らないのに、裏吉原に一緒に行こうと。そのせいでこの子を死なせてしまった。あなたが極楽浄土におわす仏様なら、どうかこの子を死なせないで。あたしの命はあげるから』とそう訴えたのさ」

「……死んでいたのは、私のほうだったのに……なのに、姐さんが私に命をくれたんですか!?」

「あたしも表の吉原にいたことがあるからね。あそこは、遊女であったら泳ぎ切ることのできることもあるだろうが、それ以外には厳しい。ましてや裏吉原は、遊郭に入れられたら最後、徳を一定数積むまでは出ることは許されないし、ある程度積まなかったら死神に間引かれる。真面目に働けば神に身請けされることもあるが、そこから先の話は裏吉原にいたんじゃ誰もわからない。八方塞がりさね。もっとも……かがりは裏吉原についたばかりで、当然ながら裏吉原のしきたりを知らなかった。あたしが説明したら、当然ながら声を荒げたんだ。『なおのこと、この子をここで死なせる訳にはいかない。助けて』と。だからあたしは記憶をいただいた。記憶さえいただいちまえば、あたしが音羽にしたこともかがりにしたことも死神は追求できないからね」

「……姐さん。ごめんなさい。私が弱かったばかりに、ごめんなさい……」


 私がしくしくと泣いている間、話を聞きながら焼きめしを平らげた不明門あけずくんは口を開いた。


「でもさ師匠。あのひとのことマジでどうすんの? このままじゃ店主も納得しないだろうし、記憶取り戻しちまったら、音羽のことがバレて死神が今度こそ飛んでくるんじゃねえの?」

「そうだろうねえ……死神は不正が嫌いだから。いくらかがりが自分の意思で自分の命を音羽にあげたとは言えど、納得しないだろうね」

「でも……そうなったら……姐さんはどうしましょう……」

「まあ、どうしようもないし」


 先生はあまりにも躊躇なく、箪笥に溜め込んでいた徳の詰まった瓶を取り出すと、躊躇なくそれを風呂敷に並べて包みはじめた。

 それは先生が万屋家業で溜め込んでいて……万が一先生が売り飛ばされそうになったときに、自分自身を買い取るための資金だ。


「あ、あの……これは私と姐さんの問題で、なにも先生にそこまでしてもらうのは……」

「どっちみちかがりの記憶が戻ってもらったら困るのはあたしだしねえ……あたしだって死神にしょっぴかれるのはごめんさね。せっかくここで生きながらえることができたんだ。あたしは死ぬまで裏吉原で過ごしていたいよ」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 私は、裏吉原に来てから、皆に助けてもらってばっかりだ。

 大見世に姐さんの手がかりを探しに行ったときだって、喜多さんや不明門あけずくん、先生がいなかったら、姐さんを探し出すこともできなかった。

 そしてその姐さんは、先生によって身請けされようとしている。


「私は……先生になにをすればいいですか? どうやったら……先生に恩を返せますか?」


 私はとうとうべそをかきはじめたのに、先生は焼きめしを食べ終え、煙管に手を伸ばした。葉たばこを入れ、火を点けると、嗅ぎ慣れた匂いが漂いはじめた。


「魔女に対価の支払いも求められてないのに、なんでもしますとばかりに自分を安売りするのはおやめ。ぼったくられるよ」

「すみません……でも、私の積んだ徳ですと、姐さんの身請けも賄えませんし」


 先生に買ってもらった瓶は、今までの万屋の仕事で積んだ徳で満たされているけれど、どう考えても先生の積んでいる風呂敷の中身には負ける。

 それに先生はけざやかに笑った。


「そんなの、あんたが普通に生きてりゃいくらでも支払えるさ」

「ええっと……」

「師匠からしてみてもさあ、音羽は珍しい人間じゃん。裏吉原にはあやかしか幽霊、神しかいないんだから、人間は稀少価値が高い」


 私と先生の会話に、ずっと話を聞いていた不明門あけずくんが口を挟んできた。そのざっくりとした回答に、私は口をもごもごと動かす。

 不明門あけずくんはいつものように、あっけらかんと言った。


「先生と音羽がそれなりに師弟関係築いてたら、そこそこいいんじゃねえの? 俺は師匠のことは好きだけど、師匠の表での出来事はさっぱりわからねえし。その辺りは音羽のほうがわかるんじゃね?」


 本当に。

 本当にそんな簡単なことでいいんだろうか。私はおずおずと先生に尋ねた。


「先生? 本当にそれで……それだけで」

「お前さんにとっちゃどうだかわからないけどね、異人ってぇのは不便なもんだよ。国には帰れないし、表だったらあれこれと見張られる……見張られずに片意地張らないで暮らせる場所ってぇのは貴重なんだよ。そこで人間の子供を拾ったとしても、誰もなんにも言わないさ。ほら、この回答で満足かい?」

「先生……」


 私はまたしても感激のあまりにボロッと涙を溢した。


「ありがとうございます」

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