元の水には還らず
先生は姐さんと目を合わせる。
姐さんは元々吉原から早く抜け出したかった人だ。だからこそ、火事で機会ができたからこそ逃げ出そうとした。
でも。
着物は上質でも、姐さんから精気らしきものが抜け落ちてしまっていた。
たしか荒木屋は大見世の中でも一番芸に特化している場所だから、そこまで遊女がひどい目に合っているという話は聞き及んではいないけれど。
先生は姐さんに尋ねる。
『お前さんの名前は?』
『あたしは……
姐さんは私の知らない名前を名乗るのに、俯く。
見かねたのか
「大丈夫か? いきなり泣き出してさ」
「……姐さん、記憶喪失だとは聞いてたけど、名前も変わってた」
「見世に出すんだったら、名前を付けないとどうにもならないだろ」
「そうなんだけど……なにがあったのか、目が死んでて」
「ん-……慣れないことをしていたから、どんどん弱ったとかは?」
「そうなのかな。たしかに私がいた見世は、荒木屋ほど芸に特化している見世ではなかった。大きくもなかったけど、芸だけしていた場所でもないし」
「色を売らずに芸だけをして稼ぐっていうのも、結構大変らしいぞ?」
「裏吉原にだってさ、その手の師範がいるけど、どのひともまあ厳しいんだよ。こんなんちまいガキとかに言ったら、家出すんじゃねえかってくらいに厳しい。舞は立ち方歩き方手の動き方まで全部矯正されるし、楽器も音ひとつ外したら師範の怒鳴り声がすごいんだよな……お使いで近くを通り過ぎるだけで身も竦むくらい」
「……そうなんだ」
「自分の足元がたしかでない中で、怒鳴られ続けて平然と立ってられるひとはそうそういねえよ。オマエの姐さんだって、どれだけ気丈なひとだったかは知らねえけど、不安な中怒鳴られ続けて、弱ったんだろうな」
「そんな……」
「でも変な話もあるな。裏吉原に死んだからって連れてこられた遊女はたくさんいるけど、そんな記憶喪失なんて聞いたことないぞ」
ありえないことがたくさん続いたという話だ。
その中でも、先生は姐さんに言葉を重ねる。
『店主から依頼があってね、お前さんの記憶を取り戻すように言われたんだよ……芸はいいのに、これだけ脅えられたらなかなか見世に揚げられない。記憶を取り戻してしゃっきりしてほしいってな。どうする?』
『……っ!』
そこで姐さんの虚ろな瞳が一瞬ギラッと光ったと思ったら、垂れた前髪を揺らして拒絶した。
『嫌ですっ! 記憶を取り戻すのだけは……どうか……どうかお願いします……記憶だけはいらない。本当にいらないんだ……お願いします、お願いします……あたしに記憶を返さないで』
姐さんは絞り出すようにそう告げると、とうとう床に額を擦り付けて懇願しはじめた。
……姐さん? どういうこと?
私は困惑して、
「ん、どうした?」
「姐さん、先生に記憶を取り戻すよう依頼を受けたと伝えた途端に、土下座して懇願しはじめたの……記憶はいらないって……たしかに、姐さんは吉原にいた頃、あまりいい思いをしてなかったけれど」
私は火傷のせいで免れただけで、吉原に売り飛ばされて遊女になった人の人生は大概悲惨だ。
親兄弟に売り飛ばされた。人さらいに合って売り飛ばされた。誰かに借金を押し付けられた末に売り飛ばされた。吉原に来るまでに大概ひどい目に合っている。
「……そんな記憶、多分ないほうがいいけど、でも……」
「難しい話だよな、それは」
「俺にはその辺全部はわかんねえけどさ。表面上はわかんねえかもしれないけど、中に染みついているものって、案外なくなんねえもんだと思うけど」
「え……?」
「俺たちは師匠から魔法を習っているけど、魔法陣の描き方は記憶喪失になったら忘れてるかもしれない。でも、一緒に習った独逸語って忘れられるのか?」
「ああ……」
「もしオマエの姐さんが記憶を取り戻したくないって言い張ってるんだったら、オマエが言うような、吉原での生活が嫌だったとかじゃない気がするんだよな」
「……そうだといいな」
「でもどうすんだろうな、師匠は」
「えっ?」
「店主からの依頼だから、オマエの姐さんの記憶を取り戻さないといけないんだけど。あの店主、典型的な遊女を道具だと思っている奴だから、依頼を断るとなったら癇癪起こしたり、万屋に圧力かけてきそうなんだよな」
「そ、そんな横暴な……」
そう声を上げるものの、店主のたちの悪さは裏も表も関係ないんだろう。
先生どうするんだろう。そうハラハラとしていたら、先生は土下座している姐さんの耳元まで腰を屈めると、耳元で囁く。
『だろうね、お前さんだったらそう答えると思っていたよ。おそらく、ここでお前さんの記憶を取り戻すように依頼が来るだろうってこともね』
『……どうして』
『あたしはね、既に依頼を受けてるんだよ……あんたからね』
「えっ」
私が悲鳴を上げる。それにまたも
「どうした?」
「……先生、姐さんから依頼を受けたって。ちょっと待って、先生が、姐さんから依頼を受けて記憶を消したの!?」
「いや、それっておかしくないか?」
「へっ?」
「師匠はそもそも、依頼を受ける時は絶対に徳を請求する。裏吉原に来たばかりのときなんて、徳なんかないだろ。徳のない状態で依頼なんか、どうやって受けるんだよ」
……裏吉原だったら、徳が通貨代わりだ。それがないとしたら……姐さんは記憶喪失になったのって。
先生は姐さんに尋ねる。
『あたしはね、あんたに記憶を徳の代わりにいただいて、あんたの依頼を引き受けた。もしあんたの記憶を返すとなったら、あんたの依頼を取り消さないといけないと思っていたから、そのほうがいいんだけどね』
『嫌だ……それだけは。どうか、それだけは』
『記憶に残ってなくても、気持ちだけは残ってるんだね。わかった』
先生はそのまま、姐さんの肩を叩くと、そのまま蔵を出て行ってしまった。
そこからは先生は魔法を解いてしまったのだろう。なにも映らなくなってしまった。
私は和紙を剥がして、困惑したまま
先生と姐さんのやり取りを見てから、息が苦しいし、頭の中がぐしゃんぐしゃんになる。
「……これ、どういうこと? 私と姐さんは同じ時期に裏吉原に到着したはずなのに、姐さんの依頼の対価に姐さんの記憶を奪って……私はここにいて。どういうことなの?」
「これなあ……」
「俺は先生がなんの依頼を受けたのか気付いたけどさ、先生がどうしてオマエを拾ったのかっていうのは、依頼内容の一部だったんじゃねえの?」
「……どうして、先生は今まで姐さんのことも、私の前に出会ったことも、黙ってたの?」
「そりゃさあ。オマエに傷ついて欲しくなかったからじゃねえの? 先生もだけどさ。姐さんも」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます