失った女
荒木屋は、今まで見てきた大見世ふたつとは様相が異なっていた。
あからさまに煌びやかでこの世のものとは思えない……それこそ裏吉原の中でも異彩を放っていた……観世屋とも、気怠さの中にも美しさがあり、常時紫煙の香りを漂わせていた六道屋とも違った。
強いて言うならば、「ここは本当に見世なのか?」というくらいに、いぶし銀な雰囲気があった。建物も見世というよりも茶屋……それも江戸時代にあったような連れ込み茶屋みたいなものではなく、普通に食事とお茶を楽しむようなもの……であり、外連味の効いた色合いがひとつもない。
それでいて、吉原の中でもいちにを争う門構えと大きさなのは、どういった訳なんだろう。
私はそれを呆気に取られて眺めていたら、先生はすたすたと歩いた。
「ここは裏吉原でも一番歴史があるらしいよ」
「歴史……ですか?」
「神が吉原を見て、真似してつくった際に、初期につくられた見世のひとつさね。まだ当時は色合いや見世構えを真似るところまでいっていなかったから、とりあえず江戸の街並みにありそうなものをつくったんだと」
「あ、ああ……」
どう見ても極彩色じゃないし、吉原の見世にしても地味過ぎると思っていたけれど、そういう謂われだったんだ。
「音羽の姐ちゃん、どうするんだよ。俺たちが連れ戻せる訳もないし」
「まあ……本当にどうしようもなかったら、あたしの積んでいる徳で買い戻せるとは思うけど」
「さ、最終手段でお願いします! それは先生の徳ですし……でも、姐さんが徳を積みきれずに死神に連れ攫われそうだったら、そのときは」
私の情けない言葉に、先生は溜息をついて肩を叩いてきた。
「まずは荒木屋で話を聞く。そして
「は、はい……」
三人で裏口に回ると、そこに立っていたのは見世の主人のようだった。
見世の主人は常にいかつい。見世に入れている遊女たちに心を移してはいけないし、金勘定に敏感でなくてはいけない。その上世情も読まなくてはいけなく、遊郭を構える者たちの纏っている空気は、どう考えてもこの世の者とは思えない。
神に言われて見世の主人をしているそのひともまた、今まで裏吉原で会ってきたどのあやかしとも空気が違った。海千山千をかいくぐってきた、溝のように真っ黒な瞳のひとである。
「ああ、おいでなすったね。万屋」
「ええ。依頼を受けて来ました。記憶喪失の遊女をひとり、記憶を呼び戻したいと。しかし珍しいものもありますね」
先生が珍しく敬語を使っている。たしかに主人には有無を言わさぬ凄みがあるのだから、これくらいの口調でないといけないのかもしれない。
私は緊張しながら様子を窺っていたら、先生は主人を眺めながら言った。
「記憶がなくても、見世には揚げられるじゃないですか。どうしてまた?」
「そりゃうちとしてもね。稼ぎ頭に未練なくうちで働いて稼いで、見世を豊かに盛り立てて欲しいですがね。大神様から厳命がございましてね。『もし記憶を失っている者があれば、すぐに記憶を取り戻せ』と。あの方はこちらの苦労なんてわかりませんし」
大神様は大神様で、発情期に当てられて理性が飛び、気に入っている遊女を抱き潰してしまったことを思うところがなかった訳ではないんだろう。
あれを止めてくれたのは、同じく動物のあやかしだった
そう思いながらむずむずしていたら、先生が店主さんに尋ねる。
「それで、その問題の遊女はどちらで遭えますか?」
「ええ……今は蔵に入れておりますよ」
それに思わず唇を噛んだ。
……物置と蔵は、基本的に遊女の中でも病気になったか、仕置き中かのいずれかでしか入れない。日の光は当然届かない上、あんなところで寝起きしていたら体を壊す。
先生は顔をしかめた。
「それで自分が入って大丈夫で?」
「男衆を見張りに付けましょう。それで入ってくださればと」
「なるほど。わかりました」
先生は蔵へと向かおうとし、私と
「えっと?」
「ここに入るのは万屋だけだよ。お前さんたちはここで待ちな」
「……えっと困ります。大神様からはなんと……」
「記憶を取り戻せとの命を受けてるが、あれはうちの品だ。下手につつかれても困る」
「そんなっ」
「悪いね、音羽」
先生はすっと鶴を取り出すと、私の手に乗せた。そこには先生の徳の染み込んだ文字が書いてあることに気付き、私は先生を見つめる。
「ここで待っておきな。それじゃ、行きましょうか」
先生が店主と立ち去ったあと、私は慌てて先生の徳の染み込んだ鶴を広げはじめた。
何度もくじけかけた独逸語が書かれている。
「これは……多分視覚共有の魔法だ」
「それ、どういう魔法?」
「先生が見たものを直接、この魔法を渡された人間が見るやつだよ。オマエ、それとりあえず額に貼れ」
「えっと……こう?」
なんだか土葬の死体みたいで落ち着かないけれど、額に紙を貼った途端に、頭の中に暗い場所が浮かび上がってきた。多分、これが蔵だ。
『やあ、万屋で魔女をしている
先生が尋ねた先にいたのは。
虚ろな瞳に脅えたような表情。しかし着ている着物は上質で、ここで悪い扱いは受けてこなかったのだと見受けられる。
「……姐さん」
「おっ、本当にオマエの姐さんか?」
やっぱり、堀に落ちて姐さんは、死んでしまったんだ。
その事実が私の胸を突き刺した。
私だけ幸せになっても仕方ないのに。私だけ生き残っても仕方ないのに。私はただ、「ごめんなさい、ごめんなさい」とだけ言った。
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