お礼の相談事
私に問いかけられて、姐さんは当然ながら困惑していた。
「
「ああ、すみません。ここ、元々は私が使っていた部屋なんですが、物置部屋は板張りですから夏は暑いし冬は寒いでしょう? これから板張りの上に布でも張ろうか考えていたところです。ああ、私は音羽と言います」
「音羽……さん?」
「音羽さんはくすぐったいです。呼び捨てで」
こうして、私は姐さんに万屋の仕事をいろいろと教えることになったのだ。
****
姐さんは記憶喪失になってはいたものの、元が中堅の見世でなんとか生き残っていた遊女だ。比較的になんでもできた。
髪結いが捕まらないという相談がやってきたら、姐さんは手早く髪を結い上げた。これが中堅以上の見世のひとであったら、もっと格の高い髪結いでなければいけないのだけれど、そこそこの見世ならば充分に見られるものだった。
禿の化粧も上手く、気付けば万屋の美容部門担当になっていた。基本的に買い出しやあやかしだと行きにくい場所に出かけたりと、それなりのことしかできない私とは大違いだ。
私は本当に、裏吉原に来てからというものの、いろんなことが足りない。
魔法は先生のほうが上手く使えるし、要領は
しばらく楽しく、時にはもやもやしているときだった。
唐突に姐さんに相談を受けたのは。
「あの、音羽?」
「はい?」
その日は近所の料亭の買い出しに出かけていた。普段だったら買い出しに行ってくれる見習いたちが料理の作業に追われているからと、代わりに必要なものを買いに行っていた。
帰ってきて先生に報告したあと、唐突に姐さんに手をちょいちょいと招かれた。
私は首を捻りながらも、姐さんの元へ寄っていった。
姐さんの記憶が全部先生に抜き取られた関係で全く戻らず、私との関係も、同じ部屋を使って寝泊まりしている、よくわからない同性の同居人、みたいなぎくしゃくした関係で治まっている。それでも波風が立っていなかったのは、私も姐さんも遊郭での雑魚寝に慣れていたせいだろう。おまけに遊郭での雑魚寝だと人が多過ぎて寝返りを打ったら誰かの肩とぶつかることもあったけれど、物置部屋だとその心配がない。その上、一日三食付きだったら喧嘩するほど心が磨り減ることもないのだ。
だからこそ、私は姐さんからの突然の相談に、うきうきしていた。
「なんですか? わからないこととか……」
「あのね、
「先生がどうかしましたか?」
「……なにが好きとか嫌いとかわかる?」
唐突に尋ねられて、私は首を傾げた。
先生が好きなもの。煙草。しょっちゅう煙管に入れる葉煙草を私たちに買いに行かせる程度には好き。お酒は飲んだり飲まなかったりだけれど、飲まなくっても平気なひと。食べ物も特に好物がある訳じゃない。裏吉原だと旬の食べ物がある訳じゃないから、季節感を大事に食事することもない。
「煙草以外でですか?」
私が尋ねると、姐さんは困った顔をした。
「そうね、
「ええっと。なにかしたいとかですかね?」
「ええ……あたしが身請けされて、ちょっと時間が経ったでしょう? ここで働かせてもらっているおかげで、あたしも徳が積める余裕ができたし。少しくらい徳を崩して、あのひとになにかお礼ができたらと思ったんだけれど……難しいかしら」
そう尋ねられて、私は考え込んだ。
思えば先生は趣味もせいぜい煙草くらいで、あとは落語だ。裏吉原だと、あんまり落語の面白い噺家はいない。あとは……あの人は表には帰れない上に、故郷にももう帰れないと聞いている。
「……先生の故郷の料理を出してあげるのはどうでしょうか?」
「故郷?
「たしかエゲレスと聞いていますけど。それとなく先生の好物聞いておきましょうか?」
「お願い」
そう拝まれてしまい、私は思わず笑った。
姐さんは先生に対して思うところがいろいろあるんだろう。たしかに、記憶が戻らないまま、腕があっても自信がないから困ると蔵に閉じ込められていたら、不安にだってなる。その上先生が身請けしても、ひどい扱いをする訳じゃなく、私たち弟子と同じように万屋として働かせている……ただ、先生は私や
そこだけがちょっと引っかかるけれど。私は先生のところに戻って、話を聞きに行くことにした。
今日の先生の依頼は人捜しだったらしく、さっさと魔法で見つけ出して徳を積んでいた。
「先生、少しだけお話いいですか?」
「なんだい? 最近はずいぶんと
「おかげさまで、仲良く過ごさせてもらってます……あのう、先生にちょっとだけお伺いがしたくて」
「なんだい。お前さんが唐突にこちらに話を聞きに来るのは珍しいじゃないか」
先生は煙管をくゆらせながら、私のほうをじっと見た。それを眺めながら、私は口に出してみる。
「先生の故郷について教えて欲しくって」
「まあ……もう帰ることのできないとこだけどねえ」
遠くを見るように、紫煙を立ち上らせた。それに私は「うっ」と詰まる。別に先生を郷愁病にしたい訳じゃない。私は内心あわあわしながら、言葉を続けた。
「いえ。私は表にいた頃から、海の向こうってものがピンと来ていなかったので、教えてもらえたら嬉しいなと……やっぱり駄目でしょうか」
「そうだねえ……強いて言うならば、古い歴史の国だったねえ。でも日本だったら浅草寺があるし、奈良にも大仏がある。あたしが住んでたところよりも更に古いものがあるから、古いから立派って訳でもないんだねとしみじみ思ったかね」
「故郷のもので……食べてみたいってものはありますか?」
「そうは言ってもね。この辺りだったら手に入らないものばかりだけど。ハギスなんて羊の内臓なんて裏吉原じゃ手に入らないだろ」
「……内蔵の料理なんですか?」
「ハギスは羊の心臓や肝臓を混ぜて蒸した料理だからね。日本だったらあまり馴染みがないし」
私はちらっと姐さんを見たら、さすがに姐さんも無理と思ったのか、小さく首を振っていた。やっぱりそうか。
「だったら……お菓子とかは?」
「ならショートブレッドかね」
「しょうとぶれっど?」
「日本だったらビスケットとかクッキーとか言われてるお菓子の一種だよ。うどん粉と砂糖とバターさえあればつくれるけど。そういえば。裏吉原に来てから、食べたことないね」
それだったら、なんとかなりそうだ。
クッキーもビスケットも見た目はわかるし、クッキーやビスケットのつくりかたさえわかったらつくれるだろう。
私は「そうなんですね」とあとは先生の故郷の話をいろいろ聞いてから、姐さんのほうに向かっていった。
「しょうとぶれっどなんて初めて聞いたけど……つくれるのかね」
「先生は材料は教えてくれましたし、多分クッキーの一種なんですよ。今日は午後から喜多さんの家に伺いますし、材料を持ってつくってみましょうよ」
クッキーをそれっぽくつくればなんとかなるだろうと、私は楽観的だったが、対して姐さんはずっとおろおろしていた。
姐さんは先生に対していろいろ思うところがあるんだろうな。かつての姐さんは、そんなものにうつつを抜かしている余裕がなかった。うつつを抜かしたら最後、生きて吉原を出られる算段が立たなくなるからだ。それが生まれたのは、きっといいことなんだろう。
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