大見世の奥座敷
「私のお客様なんだけれど、当然ながら普段は大見世から出られませんの」
「あのう……そうだったらどうして
「私が彼女の部屋に通ってますからねえ」
それに私はますますもって息を飲んだ。
要はあれだ。
江戸時代には遊女にも位があったし、一番上の太夫には別名傾国とも呼ばれ、大名ですらそう簡単に会えないほどの身分と価値があったらしいけれど。明治時代の娼芸妓解放令のせいで、太夫の位は消えてしまい、発言力も下がってしまった。
神がつくった裏吉原においても、いちいち発言力の高い遊女は生意気だと思われたんだろう、太夫の位は存在しておらず、部屋持ちの遊女も、神にとやかく言えるような立場のひとは存在しない。
喜多さんは
「それで……あたしはいったいなにをすれば?」
「ええ。その方が近々神に身請けされますから、その方のために神が与えた着物を繕ってあげてほしいんです」
それを聞いた瞬間、喜多さんはガタガタと震えはじめた。
身請けとは、つまりはいきなり遊郭に入れられた際に抱えさせられた借金である徳を一切合切支払って自分の手元に連れ帰るということだ。
これが表の吉原であったら、遊郭から出られることは自由を得ることと同義語だけれど……神のつくった遊郭から神に身請けされたところで、それは新しい籠の中に引っ越すことと同義語で、自由からは程遠い。
……身請けするための一張羅の調整なんて言われて、震えないほうがおかしい。ましてや、相手は神なんだから余計にだ。
私は思わず「喜多さん? 喜多さん?」と慌てて彼女をさすっている中、依頼をしたほうの
喜多さんは震えながら頷いた。
「よろしかったらどうぞ……」
「ありがとう……うん。おいしい。よく漬かっている」
そう楽しげに甘露梅をコリコリと噛み締めていた。
私はそれを眺めながら、「あのう……」と
「仕立て直す着物はいったい?」
「取りに行って欲しいんです。部屋まで」
「……あのう、それって私も着いていってもかまいませんか? ここで依頼内容も聞いてしまいましたし、もしこの内容を他言無用とおっしゃるのならば、そうします。先生にも
万屋の仕事で、「他言無用」と指示が入った場合は、先生や
「ええ、よろしかったらどうぞ……あなたの探し人、見つかるといいですわね?」
それだけ言い残し「先に仕立て直す着物を取りに行ってもらう分」と徳を喜多さんの瓶に移し替えると、
「喜多さん? 喜多さん? 立てますか? 仕事受けられますか?」
「え、ええ……ええ。ごめんなさい。大丈夫です、多分」
それは本当に大丈夫なんだろうか。そうは言っても、この依頼は本来は喜多さんのものだし、私も手伝いまでしかできない。ひとの仕事を勝手に取ったりすることは、どこでだって嫌がられる。特に裏吉原みたいに、徳がないとなにもできないような場所でだったら、徳を積む機会をひとつ失うと次稼げる機会がいつになるかはわからないのだから、ひとの仕事を無理矢理奪ったりはしない。徳がすっからかんになってしまったら消滅してしまうというのは、前に駆け落ちの捜索をした際にわかりきった話なのだから。
私たちは、どうにか火の始末をし、少し冷めた玄米茶と甘露梅を食べて気合いを入れ直すと、急いで目的の大見世、観世屋へと出かけることにした。
****
裏吉原は、私の知っている吉原よりも極彩色で華やかだ。それは神のつくった遊郭だからという意味もあるのかもしれないし、あちこちを歩き回るあやかしたちの持つ人間の吉原住まいの人では出せないような奔放さがそう思わせるのかもしれない。
とにかく、私は初めて立ち寄った大見世の観世屋の建物を見た瞬間に、馬鹿みたいにポカンと口を開いてしまった。
朱色の柱、つるんと磨き抜かれた廊下、ツンと香るい草の青々しい匂い。煮炊きの豊かな匂いと一緒に、まだ営業時間ではないはずにもかかわらず匂うおしろいと紫煙のにおいに、めまいを覚えた。
今まで通った見世だって、どこもかしこも綺麗で磨き抜かれていて、なるほど主立った客は神だからおもてなしをするためなんだなと、私の知っている吉原よりも綺麗だなと感心していたけれど。大見世はそれどころじゃない。
歩くだけで、この世とあの世の境がぐしゃぐしゃになる。どこかで蓮がぷかぷか浮いていてもおかしくないほどに、見世の中の香りと視界が神々しくて、訳がわからない。
喜多さんは震えながらも依頼だからと己を奮い立たせて、裏口から男衆に声をかけた。
「すみません、ここの身請けの方のために、着物の修繕の依頼を受けた繕い屋ですが」
「ああ。話は伺っております。おいでください」
男衆はのっそりとしていて、彼の背中を見ながら歩きはじめた。遊郭にいる男衆は、基本的に動きづらい遊女の着物の帯を締めたり、花魁道中で傘を持ったり、遊女たちを依頼された見世に送り迎えするのが仕事だ。下働きとして見世の食事を用意しているひとたちも中にはいるけれど、見世の食事ははっきり言ってあまりおいしくないから、外の仕出し屋で買ったほうがおいしいので、見世の食事は専ら男衆と下働きたちだけでいただく。
よくこのめまいするような場所で、男衆のひとは平気で歩けるな。私は怖々としながら、喜多さんと出かけていった。喜多さんもまた、大きな仕事のせいでずっと震えているものの、それでも立派に歩いている。
これは繕い屋としての矜持だろう。
やがて、階段を三階ほど登っていった先で、男衆の方は座った。
「それでは、ここにおられますので。なにかあったらいつでもこちらにお声をかけてくださいませ」
「ありがとうございます……すみません。依頼を受けました、繕い屋です」
「どうぞ」
こちらへの返事と一緒に、シャランと音がした。
簪の音だ。その音に緊張しながらも、私は喜多さんと一緒に座って戸を開けた。
「失礼します。ご依頼の着物はどちらになりますか」
「はい、そちらにかけていますので、お取りくださいませ」
こちらに振り返ったひとは、それはそれは綺麗なひとだった。
まだ化粧もしてないというのに、黒真珠のような目、玉のような肌、ぷっくりと熟れた唇……神に身請けされてもなんら遜色のない美女だった。
びっくりしながらも、私は喜多さんと一緒に彼女の部屋へと入れてもらった。
彼女の部屋は、遊女の部屋とは思えないほどに物が多かった。たしかに私も部屋持ちの姐さんたちの世話にはなっていたけれど、ここまで贈り物が積まれた部屋はなかったと思う。これが大見世の部屋持ち遊女なんだ……。
私が思わず部屋を見回している中、ゴツンと肘で突かれた。
喜多さんはじっと私を見る。「聞かなくていいのか」と。
私は、この美女にいったいどう切り出すべきか。この綺麗なひとにおいそれと「私の探し人を知りませんか?」と聞いてしまっていいのか。
綺麗過ぎるひとは、どうしても人を萎縮させる。私は彼女を前にして、せっかくの聞き出せる情報を口にできずにいた。
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