魔女の事情

 体が温かくなると、少しだけ心もほっとする。

 帰りに皆で湯屋に寄り、お風呂を借りてから帰ることにした。こんなに毎晩きちんと湯屋に寄ってお風呂に入れるようになったのも、裏吉原に来てからだったなとぼんやりと思いながら、髪をよく拭いた。私は元々あんまり髪をきちんと結う性格ではなかったし、裏吉原に来てからも遊郭で仕事の手伝いをするとき以外は髪を油で固めることもないから楽だ。

 ほこほこと手拭いを首にかけて待ち合わせしていた場所にいると、既に先生が煙管を噴かせて待っているのが見えた。どうも不明門あけずくんはまだのようだった。


「お待たせしました……不明門あけずくんはまだなんですね?」

「化け狐ってもんは難儀でねえ。耳や尻尾を乾かすのが大変なんだよ。今は湯屋の女中に頼んで乾かしてもらっている最中さね」

「わあ……」


 普段は髪に引っ込めている狐の尻尾や耳も、やはり定期的には洗って乾かさないと駄目らしい。

 私はなんの気なしに先生の隣に座ると、先生は煙管を噴かせたまま、ちらりとこちらを見た。


「なんだかお前さん、あたしになにか話したそうにしてたけどいいのかい?」

「え……?」

「今日は死神の依頼のおかげで、お前さんの話は聞けなかったからね。なんだいと思ってね」


 そう先生が言うので、私は少しだけ手遊びをする。


「……先生は、元々表から人間、なんですよね」

「そうだね。たまたま裏吉原で暮らす適性があったから、このまんま定住しているだけでね」

「あの……先生はそもそも、日本人ですら……ないですよね?」


 思わず滑ってしまった口を、私は手で押さえる。いくらなんでも走り過ぎだ。

 しゅんと頭を下げて「すみません……」と言うと、先生は煙管に蓋を付けて火を消した。


「そうだね……人間は裏吉原でも稀少価値が高いから、人間がどうしてここにいるかはお前さんも気になるか。ましてや魔女だからねえ」

「先生は……本当に」

「あんたも言っただろうが。あたしは元々、日本にやって来た英吉利いぎりすじんだったんだよ。今の名前はそうだねえ……号みたいなもんさ」

「号……ですか?」

「芸名とか源氏名とかだったら、お前さんでもわかるかい?」

「それならば……でも、どうして?」


 先生が英吉利人だということはわかったものの、裏吉原にいる説明が付かない。

 しかし先生はいつもの調子で淡々と語る。まるで万屋にやって来た人々と対応するかのように淡々と。隠すほどのことではないらしい。


「元々、日本には逃げてきたんだよ」

「……ええ、逃げて、ですか?」

「当時の英吉利は産業革命の真っ只中でね。はっきり言って都心部から離れた郊外に住んでいた魔女たちが隠れ住める場所が減っていた」

「……先生の力は、国だと隠さないと駄目だったんですか?」

「元々祖国もね、代々魔女の力を危険だと言って迫害し続けていたからね。だから隠れ住んでいたけれど、それすらできなくなったから、海の向こうに逃げることになった。それであたしが辿り着いたのは日本だった訳さ。商人の中に混ざって、東京にやってきた。そこはいい街だったよ」


 そう言いながら、先生はしみじみとした顔をしていた。

 でも……私はまだ納得ができなかった。

 日本に着いた事情は話してくれたけれど、裏吉原に流れ着いた理由については説明が付かなかった。

 私が釈然としないでいるのに気付いたのか、先生はこちらを見下ろしながら言う。


「浅草に行って面白かったのは、寄席よせだったね」

「……寄席、ですか?」

「ああ。面白かった」


 それに私はようやっと納得いった。

 浅草の寄席と吉原の妓楼は切っても切れない関係にある。寄席を行う座敷には、吉原の遊女たちも呼ばれて一緒に見世物をすることはある。

 そして先生の流暢な噺家風の口調も、寄席を見て学んだとなったら納得だ。

 先生は遠くを見た。


「せっかく東京に来たんだから、このまんま次の人生を生きてみたいと思ったけどね。あたしはどれだけ日本語を学んでも、この土地じゃ異人だからね。なかなか受け入れてもらえなかった。それでも一時期は噺家の元に弟子入りだって考えたんだよ。なかなか受け入れてはもらえなかったけれど、寄席に顔見せするようになったら、あたしのことを見に地元の女学生が寄席に集まるようになったからね。面白がって一件だけ弟子入りを考えてくれたところもあったさ」

「ああ……」


 たしかに年若い女の子だったら、先生を見たらそのまんま浮かれて近付きたくなる子だっているだろう。


「そのまんま弟子入りして、ここに根を下ろそうとしたんだけどね。弟子入りの決まったその日、吉原の座敷で一席披露しようとしたところで、火事に当たってそのまんま皆逃げるしかなくなったんだよ。着物も燃えちまったから、そのまんまドボンと堀に落ちたら、気付けばここだったって寸法さ。せっかく生き直せそうだったのに」


 先生は本当に珍しく、拗ねたような声を上げた。

 この人の人生は、私が思っていたよりも壮絶なものだった。

 祖国に住むことができなくなったから、海を渡るしかなかった。海を渡った先で、やりたいことができたし、時間をかけてやっと受け入れてもらえる場所を見つけたのに、火事で裏吉原に流れ着いてしまった。

 先生が棚いっぱいに徳を溜め込んで、それを使いながら生活しているのは、また理不尽に居場所を奪われないようにするための備えだろう。

 きっと理不尽に居場所を奪われ続けたことは、先生が思っているよりもずっと心に深く傷を負っている。


「……そうでしたか。すみません。変なことを聞いてしまって」

「別に? 裏吉原だと、あたしのまだ全然なってないような寄席よりも面白いのをするのが大勢いるからね。仕事さえしてれば寄席を見放題な現状は、意外と悪くないよ。お前さんも」

「あ、はい」


 先生は私のほうに手を伸ばすと、ぐりぐりと撫で回してきた。先生の手は骨ばっていて大きく、なよやかな見た目に反して力強い。


「……探し物が見つかるといいね。すまないね。遊郭の中を許可なく調べるような真似をしたら、遊郭の店主がなにかとうるさいんだよ」

「……私、言いましたっけか。探し物をしていることを」

「あれだけお使いに外を出して、なにかに付けて遊郭の番頭に声をかけているようじゃね」


 先生には、私が姐さんを探しているのをお見通しだったらしい。私は小さく頷いた。


「……姐さんは見つけ出したいです。でも……私も表には戻りたくないです。ここで生きていけるだけの徳を溜めたいです」

「そうかい。あたしの弟子はどちらも自立精神が旺盛でいいことだ」

「……不明門あけずくんもなんですか?」

「あの子は魔女が物珍しかったからね、魔法をどうにか習得して化け狐の力を復権させたいらしいよ。あたしには壮大過ぎてよくわからないがね」


 そう先生が言ったところで、「おーい!!」と手を振って走って来る足音が近付いてきた。ようやっと不明門あけずくんの尻尾と耳を乾かすのが終わったらしい。

 それに先生は目を細めた。


「騒がしいのが帰って来たね。それじゃ行こうか」

「はっ、はいっ」


 私がぺこりと会釈をしながら、先生の後についていく。追いついた不明門あけずくんはきょとんとしている。


「なんだ? 師匠となんか話?」

「ええっと……世間話?」

「ふーん」


 彼は性格上細かいことは聞かなかった。そのことに、私たちはきっと救われている。

 裏吉原だって、全部が全部いいことばかりじゃない。はみ出し者にはちょっとだけ住みやすいだけで、住みやすいだけでそれなりに規則があり、それに沿ってじゃなければい続けることだけだって難しい。

 姐さんを見つけ出したい。私のことは、そのあとだ。

 未だにここにはいないと確証が持てないことが、これだけ歯がゆいとは思わなかった。

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