裏吉原に住まう魔女

 しゅーしゅーと湯気の立ち昇る音を耳にした。


「……ん」


 ヒクリ、と最初に鼻を通っていったのは紫煙の香り。

 働いていた見世でも、姐さんたちがよく煙管をくゆらせていた。だとしたら、ここは吉原なんだろうか。

 結局私は、苦界から逃げ出すことはできなかったんだろうか。

 そう思ったのも束の間、自分の着ている着物の肌触りがおかしいことに気付いた。私が普段下働きとして着ていた着物は、姐さんたちの古着をもらって繕って着ていたもので、すり切れたぼろぼろの麻布だったはずだ。でもどう考えても肌触りはよく、この肌触りは間違いなく綿だ。

 私がガバリと起き上がった途端、「あっ、起きた」と金色を目にした。それに私は目を奪われる。

 異人でなかったら、こんな透けるような金色の髪なんてないはずなのに、私と同い年くらいの男の子が、金色の髪をひとつにまとめて、火鉢で鉄瓶のお湯を沸かしていた。湯気の立ち昇る音は、ここからだったようだ。

 そして私は思わず着物を見る……茜色の布地に金色のすすきとトンボを描いた私が着ていたものとは比べものにならないくらいにいい着物だった。私は思わずばっと胸元を抑える。


「なななななななな…………」

「なんだい?」

「わ、たしを、助けて、着替えさせたのは、あなた……ですか?」

「いーや、違うよ、師匠だよ」

「し……しょ?」


 彼の着ているのは作務衣で、筒袖で動きやすい格好をしている。職人なんだろうか。だが。私は再び鼻を動かす。

 目の前の彼はお湯を沸かしているだけで煙管なんて吹かせちゃいないのに、この匂いはどこから来るんだろう。私はヒクヒクと匂いを嗅いでいるのに、彼はとうとう呆れて声を上げた。


「師匠ー、こいつ起きたよー。どうするー?」

「なんだい、ようやく起きたか」


 そう言ってこちらに歩いてきた人に、私は目を奪われた。

 さらりとした銀色の髪は短く、着流しを着ている。その姿は気怠げで、手に煙管を持たせている姿が異様に色っぽい。しかしその色香は男娼の持つものではない。

 口調といい格好といい噺家っぽいのに、どうもこの人からはそういう雰囲気を感じない。彼は私のほうに屈み込んで、まじまじとこちらを見つめた。

 この人に私……。思わず視線をうろうろとさまよわせると、あからさまに呆れたような溜息をつかれてしまった。


「おぼこの服の着せ替えでどうこうするような質じゃないんでね、あたしも。勘違いするんじゃねえわ」

「ご、ごめんなさい……」

「謝る必要もないんだけどね。お前さん、川に流されてここまで来たんだよ。どうせ表のほうで、遊女たちが好き勝手言ってんだろう? 裏吉原は極楽浄土とかなんとかってさあ」

「……あ、裏吉原。裏吉原!? ここがですか!?」


 私は立ち上がると、こちらを少年と男性がまじまじと見上げながらも頷いた。

 本当に……裏吉原に着いたんだ。私は思わず障子に手をかけて窓を開け放つと、むわりと漂うおしろいの匂いにくらくらと目眩を覚えた。

 外は極彩色だった。

 派手な着物の花魁、連れ立って歩いている禿たち、どうにか見世に人を呼ぼうとする男衆。これだけだと、私が今までいた苦界となんら替わりはないけれど、なにかが違った。

 なにが違うんだろうと目を凝らしていて、気が付いた。


「……ええ?」


 カロンカロンと下駄を転がす足音のほうに視線を向ければ、そこには下駄だけが音を立てて飛び回っていたり。提灯だけがぷーかぷーかと浮いていたり。

 かと思いきや、皆に傘を差されて見惚れられている花魁の首が、突然みょーんと伸びる。さすがにそれを見た途端私は「ひいっ!?」と尻餅をついてしまった。


「表じゃ噂になってんだろう? 裏吉原の話は。吉原の裏側に存在する、この世のものとは思えない場所って。いつの間にやら、ここは極楽浄土だとかなんとか言われるようになったけどね、ここはそんな仏様がおわすようなとこじゃあないよ」


 男性は噺家口調の割には冷めた声で言う。彼は髪の色だけでなく、瞳も碧くて、とてもじゃないが人とは思えない。

 そして裏吉原の人たちもまた……どう見繕っても人とは思えなかった。


「あ、あのう……ここはいったい?」

「ここかい? 裏吉原。本当だったら人間は絶対に迷い込むことのできない、あやかしが暮らし、あやかしを癒やす花街さ」


 あっさりと言われて、私は途方に暮れてしまった。そして私はキョロキョロと辺りを見回す。私と一緒に姐さんも堀に飛び込んだというのに、姿がどこにも見当たらない。


「……あのう、私と一緒に姐さん……遊女の姐さんも一緒にここに来たはずなんですけど……見当たりませんが」

不明門あけず、いたかい?」


 男性に不明門あけずと呼ばれた少年は、きょとんとしながら、金色の髪を横に振った。


「見ちゃいないよ。そもそも表からこっちに流れてくる人間って珍しいんだ。それにさあ、オマエ」

「……なんですか」

「人間がこんなとこに来て、無事で済むと思ってんの?」


 不明門あけずくんは、じぃーっとこっちを見るのに、私はたじろいだ。

 ……そうだ、裏吉原は私が聞いていた話とは全然勝手が違う。ここは極楽浄土とは程遠い。だって、こんなに紫煙や酒気、おしろいの匂いでむせかえるような場所が、平和で幸せに暮らせる場所とは思えない。


「……人間はもしかして……あやかしに食べられるんですか……?」

「ぷっ」


 いきなり不明門あけずくんは噴き出すと、そのまんま笑い転げてしまった。途方に暮れた顔で、私は男性を見る。男性は相変わらず煙管をくゆらせながら腕を組みつつこちらを見て、「違うよ」と教えてくれた。


「ここを訪れた人間はね、徳を積まないといけないのさ」

「……徳、ですか?」

「そう徳。徳がない人間から順番に、裏吉原ではぞんざいに扱ってもいいって、あやかしたちに目を付けられる。あやかしたちに目を付けられて弄ばれたくなかったら徳を積みな。あやかしだって馬鹿じゃない。徳を積んでる人間に手出しはしないはずさね」


 徳を積めと言われても。そもそも、姐さんだってどうなったのかがこれだけではわからない。ただ、このまんまただここにいるだけじゃ、あやかしたちに好き勝手されるということだけは理解できた。

 ……私が吉原でへろへろになっても、なんとか生きられたのは。火傷を負っている醜女でも仕事ができたのは、ただ運がよかっただけだ。

 裏吉原では、いったいどうしたらいいんだろう。


「……教えてください。徳の積み方を」


 そう尋ねると、男性は煙管を再びくゆらせ、紫煙が立ち昇るのを眺めながら答えた。


「あたしは柊野ひらぎの。裏吉原で万屋を営んでいる魔女さ」

「……魔女?」

「そう。異国で魔法を学んだ魔女さ。あんたがあたしの弟子になり、そこの不明門あけずとあたしの仕事を手伝うってえなら、考えてやってもいい。ここで人の依頼を受けながら、徳を積むといいさ」


 そう言って、にやりと笑った。

 私はおろおろする。

 そして、自分が名乗っていないことに気付いた。


「私は、音羽おとわです……魔女の弟子って、なにをすればいいんですか?」

「いい心がけだ。裏吉原は吉原とは少々勝手が違うからね。不明門あけず、音羽と一緒に葉煙草を買ってきな。買い物がてら、裏吉原を案内してやりな」

「へいへい……おい、音羽」

「は、はい」


 彼は私の隣に立つ。身長は不明門あけずくんのほうが少しだけ高い。


「言っとくけど、俺はオマエの兄弟子だからな。そこんとこ、絶対に忘れるなよ」

「えっと……はい」


 私はそう言いながら、彼に着いていくことにしたのだ。

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