裏吉原あやかし語り
石田空
裏吉原と火事
「裏吉原ってえのがあるんだって」
その日も、私はくたくたに疲れていた。疲れ過ぎると、体は睡眠を求めているのに、頭が冴えてちっとも眠れない。
そういうとき、姐さんの語る話を耳にするのが好きだった。私は薄っぺらい布団を被って「裏吉原って?」と尋ねた。
「裏吉原は、吉原の向こう側にある場所なんだって。そこは煌びやかで、豪奢で、男も女も痛い思いせず暮らせる、極楽浄土みたいな場所なんだってさ。ここだと足抜けするために、男も女も川で溺れて死んじまうけれど、ときどき死体の数が合わないんだって。だから、どちらかが、ううん。どちらもが、裏吉原に迷い込んだんじゃねえかって言われてるんだよ」
「そうなんだ……そこだったら、痛い想いも悲しい想いも、お腹が空いてひもじい想いもしなくっていいのかなあ……」
「
姐さんに心底憐れまれてしまった。
実際に、私は部屋持ちの姐さんからお菓子や食事を分けてもらい、風がぴゅーぴゅー吹き抜ける雑魚寝部屋から、姐さんの部屋の片付けって名目で泊めてもらわなかったら、寝食もまともに取れない現状だった。
だからこそ、私は姐さんの近くで丸まった。
部屋持ちの姐さんの部屋は、うちの見世でも一番豪奢な部屋だ。今日は姐さんの旦那は仕事で来ない。もうすぐ姐さんは年季が明けて、旦那と一緒に吉原を去る。
姐さんは私の頭を撫でた。
「どうか……私がここを去ってからも、頑張って生きてな。本当にどうしようもなくなったら裏吉原に行ってもいい。でも……自分から裏吉原に行こうなんて思ったらいかんよ?」
姐さんはそう言いながら私を抱き締めた。
その体温で、私もやっと眠れそうだった。
****
大正の時代においても、苦界が消えることはなかった。
芸娼妓解放令の名の下、表向きこそ女が売られていくという形は目立たなくなったが、それでも貧乏になれば女は売られ、そこで自分がしてもいない借金を背負わされ、それを完済しなければ見世から出ることはできなかった。
私もそのひとりだった。父が夜逃げし、借金取りに連れさらわれ、吉原に売り飛ばされたが。売り飛ばされた先で、大変に嫌なものを見る目で見られてしまった。
「……なんだい、この醜女は。こんなの売り物になる訳ないじゃないか」
「化粧しても消えないよ、これは……ああ、ひどいもんを掴まされた」
遣り手には心底嫌味を言われ、私は背中を丸めた。
夜逃げした父は商売に失敗し、やけ酒をしては母に八つ当たりするようになった。私は母をかばい、時には殴られていたが、ある日火鉢の炭を投げつけられたのだ。
赤々と燃えた炭を顔で受けてしまったのだ。おかげで左半分には、ひどい火傷跡ができてしまい、化粧でも消すことはできなくなった。
見世に出せない女の使い道はふたつ。
ひとつ、もっと質の悪い女郎屋に売り飛ばし、体だけで奉仕させる。
ひとつ、下働きとして扱き使う。下働きの場合給金は少なく、遊女の稼ぎには遠く及ばず、どれだけ稼いだら借金が完済できるのかがわからない。
遣り手は考えあぐねた末、「買っちまったもんは仕方ない。元手を取るよ」と、下働きとして扱き使いはじめた。
掃除、洗濯、物置部屋の整理、繕い物。特に遊女は私のようにそこそこ年を食って売り飛ばされた娘はほとんどおらず、繕い物ができないのがほとんどだった。
「ねえ音羽。この着物を頼みたいんだけれど」
「はい……」
「はい、お駄賃……助かるわ」
着物のほつれの修繕は、本来ならば外注するものらしいけれど、私に頼んだほうが安い上に早いらしい。私は物置部屋に店の遊女の姐さんたちから預かった着物を持ち帰ると、裁縫道具を引っ張り出して、作業を開始した。
つい先日、うちの見世で一番売れていた遊女の姐さんが無事に年季が明けて出て行った。おかげで遣り手は姐さんの抜けた穴を埋めようと躍起になって客を集めている。
私はせっせと縫い物をはじめた。洗濯も掃除も、手が水で荒れ、指先がささくれだって夏場だってひび割れて痛い。その点縫い物だったら、指先を針で突き刺さない限りは痛くないのだから、できる限り姐さんたちから「安く請け負う」と言い張って仕事をもらっていれば、遣り手だってそこまでとやかく言ってこない。
……もっとも、私のことを一番心配してくれていた姐さんは「自分を安売りしたらいかんよ?」と言っていたが。拭き掃除は腰が痛く、洗濯物は重い。それを考えたらましなんだ。
一枚、二枚と仕事を仕上げていき、残りの枚数を考えながら、次の着物に袖を通そうとしたとき。
鼻をふいに焦げたにおいが通っていった。
……なに? 私は顔を上げる。
気付けば辺りが騒然としているのだ。ドタドタドタと大きな足音が走る……まだ見世を開ける時間ではないとはいえど、この騒々しさは異様だった。
「火事だ!!」
誰かの怒声が響き、私は身が竦んだ。
姐さん曰く、昔は吉原でも火事が頻発したらしい。まだ瓦斯灯や電気も通ってなかった時代だし、明かりはほぼ蝋燭だったのだから。でも吉原で最後に大火事になったのは、たしか明治だったはず。
大正の世では、普通に電気が通り、よっぽどのことがない限りは火事になりようがなかったのだけれど。
皆一斉に逃げはじめたが。
……でも。遊女の姐さんたちのほとんどは、重い着物を着て、足の長い下駄を履いている。とてもじゃないが走りようがないのだ。私は着物を一旦捨てると「姐さん!!」と走って行った。
でも廊下に出た途端、私は顔を袖で押さえた……黒いぶすつく臭いと煙で充満してしまっている。これではどこから逃げればいいかわからないし、重い着物では逃げられない。
私はなんとか視界が明るい床に這いつくばると、四つん這いになって廊下を歩きはじめた。この数年で見世の中は全て知っていたと思うが、視界が低くなると、頭の中にそれぞれの場所がすぐには思いつかない。
「姐さんー、皆ー、どこー」
私は四つん這いになりながら、うろうろとさまよっていたら、同じく着物を脱いで、襦袢姿になった姐さんに会った。ほっとしたら、姐さんは目を吊り上げる。
「あんた! ちゃんと逃げんと駄目でしょ! なにこんなところに来てるの!?」
「で、でも……姐さんたちは……」
「逃げてるに決まってるでしょ! むしろこれは、遣り手の目を盗んで逃げるいい機会じゃない!」
「あ、そういえば……」
そこまで思い至らず、私ははっとした。姐さんは「ほら、来な」と言いながら、四つん這いになってなんとか見世の外まで逃げはじめた。
既に空は茜色に染まり、もうすぐ夜になる。それだというのに、私たちの暮らしていたはずの見世はごうごうと音を立てて燃え、黒い煙をもうもうと上げ続けている。
見世の店主は睨みを利かせて、どうにかこの見世の姐さんたちが逃げないよう見張っているらしかったが、消防隊や軍がやってきて、「どいてください! 火が消えません!」と、路地の反対側まで追いやられているせいで、裏口から逃げ出した私たちには気付かなかったようだ。
それに「よし」と姐さんは言う。姐さんは煤に塗れて顔が真っ黒だというのに、目だけは爛々と輝いている。逃げる気満々なんだ。
「ほら音羽、行くよ」
「は、はい……!」
私たちは必死に走るものの、どこからか悲鳴が上がった。
どうも火が隣見世まで巻き込んで広がっているらしく、その上に道が狭いせいか、追加の消防隊も遅れているらしかった。
私たちは必死で走ったところで、大きな堀が見えてきた。
この堀を越えなければ、吉原から逃げ切ることはできない。片や薄っぺらい下働きの着物。片やそこそこ見栄えのする襦袢姿。今は夏なのだから、ここで濡れても問題はなさそうだが。
私は泳げない。
「姐さん……私泳げないんですけど、堀越えられますか?」
「あ……あんたも? 私も……」
「……」
見世に戻るしかないんだろうか。そう思ったが、姐さんは「ねえ、裏吉原って知ってる?」と唐突に言い出したのだ。
この間出て行った姐さんも言っていた話だ。
「川の向こう、堀の向こう、吉原の裏っ側にあるんだってさ。行けたらいいよね……柳の下の幽霊になるなんて、ごめんだから」
そう言いながら、姐さんは堀と堀の間の溝……流れる水の中に飛び降りたのだ。それに私は悲鳴すら上げられず、息を飲む。
私は……姐さんのことを思い返す。
吉原に売られる前の私は、父と母の間に挟まって、必死に母を庇っていた。父に売り飛ばされてからも、毎日毎日疲れても眠れない日々を送っていた。
……裏吉原なんて、ある訳ないけれど。
私は身を投じた。
もしあるんだったら、今よりもマシな人生を、期待してもいいんだろうか。
ぽちゃん、と水音を耳にした。
それが現世との最後の別れだった。
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