第27話「竜人、ジェナ」

 真正面の穴の向こう、暗がりを見る。イリルがいなくなったせいで、ぽつんとこの部屋の中央に一人でいることが急に寂しくなった。イリルの視線だけを感じ、自分の呼吸する音がはっきりと聞こえてくる。


 ――僕がそれを避けれたのは偶然だった。見えた瞬間に反射的に顔を避けたおかげで、こぶし大の大きさの岩が耳を掠め、背後で大きな音を立てた。さすがに見えてなければ避けれないので、穴を見ていなければ危なかった。


〈よく避けれたね、アラン〉


「ジェナよりは遅いから……」


 彼女の動きよりは圧倒的に遅い。ほとんど毎日彼女に殴られていたのだから、その速さは身体が覚えている。


 それにしても、こんなものが飛んでくるってことは、すぐ近くまで来てるんだろうな。でも、一向に姿が見えないし、石も飛んでこない。別に狙ってやったわけじゃないのか?


 だが、僕が考えている間にも静かな空間に異音が混ざり始めた。


 初め、それが何の音なのか分からなかった。隙間風のような、細く、長い音。次第にそれは大きくなり、人の息の音だと分かる。いや、竜人の――ジェナだ。こんな所まで普通の冒険者は来れないし、イリルが誘導したはず。


 歪な呼吸音に混じって、ずるずると何かを引きずるような音もしている。暗がりの向こう、まだジェナの姿は見えない。すぐに分かるだろうと思って、ジェナがどれだけ怪我しているのかをイリルに訊かなかったが、少し後悔する。彼女がどう出てくるのか分からない。やぶれかぶれに突然出てきたら対処に困る。ジェナの通常時でもバカ力なのに、追い詰められた彼女の力などどうなるのか想像もつかない。


 音はだんだんと近付いてくる。やがて暗がりから赤い魔物が現れた。


「違う……」


 僕は思わずそう呟いた。魔物なんかじゃない。いや、頭では分かってたけど、一瞬本当に魔物に見えた。魔物だと思ったものは、僕の思い違いだった。


 赤い。真っ赤な両角が威嚇するように僕に向けられている。


 赤い。ジェナ自身なのか鱗も相まって、彼女の全身真っ赤に染められている。破れかぶれの初めて見る羽も真っ赤だ。


 赤い。ひゅーひゅーと音を立てているジェナの口からは、たらたらと赤黒い血が垂れ、ぽたぽたと地面を汚していた。


 そんな中で、金色の瞳だけはギラギラと輝き、僕を睨んでいる。


「見つけたぁ。てめえ、なんで死んでねえんだぁ?」


 顎を上げ、僕を見てジェナはニタァっと笑った。口から血が流れているのもまるで気にした様子はない。


「遅いよ、ジェナ」


「あ゛? 生意気な口利いてんじゃねえぞ。クソ坊主が」


 ジェナはイリルの用意したダンジョンの罠に相当やられたようだった。僕に凄むものの、咳き込んで苦しそうに呻く。僕にはこれだけでも、かなり愉快だった。この時点でいつもとは逆だ。


「だって、ボロボロじゃないか。そんなんで僕と闘うこと出来るの?」


 僕は嘲笑うように、わざと彼女を挑発する。いくらボロボロだろうが、死にかけだろうが、本気で来てもらわないと困る。


 僕の言葉を聞いたジェナはぽかん、とした顔を見せ――びりびりと空気を震わせるほどの大声で笑った。顔を上に向け、やかましい。血濡れた竜となっている手で自身の顔を叩く。


 彼女の笑いは長く続いた。本気でジェナがトチ狂ったのかと、僕が疑い始めた頃、彼女は長く息を吐いてようやく笑うのを止めた。


 悔しいが僕は完全に彼女から感じる恐怖を克服できていなかった。全身が血塗れになるほど、ダンジョンにズタボロにされ、しかも死んだはずの人間が目の前にいるというのに、まるで恐れていない。僕を怖がっているどころか、変化を楽しんでいるようにすら見える。


「はーっ、……久々に笑わせてもらったぜ。こりゃあ、死人に感謝しねえとなっ」


 前触れは一切なかった。多少は話すつもりで、身体を変化させていなかったけどそうもいかなくなった。


 目は完全に追えており、異常とも言える速さで殴りかかって来た彼女に、一瞬で変化を遂げた身体を使って後ろへ飛び、避ける。僕が居た場所に盛大に穴が空けられた。


 しばらくすると、砂埃が消え、地面が割られているのが見えてくる。真っ赤なジェナも。


「今のを避けられるか……。ちったあ、マシになったのか? ええ、死人野郎?」


「まあ、色々変わりはしたね」


 さっきと同じ距離の分だけ僕は離れていた。油断も隙も無い。いくらこの身体でもあの力で殴られたら、結構ヤバいんじゃないだろうか。


「ああ゛? なんだ、その格好。アタシの真似か? ふははっ」


「お前ごとき真似するわけないだろう。……さっさと死ね」


〈アラン、やるなら手加減はなしね。死ぬわよ〉


〈分かってる〉


 足に力を込め、今度は僕から仕掛ける。一瞬して肉迫したジェナの身体に、さっき彼女がやった要領で殴った。


 ジェナの呻き声が聞こえ、彼女の身体が吹っ飛ぶ。手は堅い鱗にぶつかったらしくし痺れるような感触が残る。僕が強くなったからなのか、弱っているからなのかは分からないが、ジェナは避けきれなかったようだった。


 吹っ飛んだジェナの身体を追い掛け、僕はすぐに走った。ジェナは吹っ飛びながらも体勢を整えたようで、地面に手を付くと、すぐに着地の体勢に入り――僕の方へ向かってきた。


「はははっ」


 僕かジェナの笑い声か。どっちか分からなかった。どっちもかもしれない。でも、彼女の顔は確かに笑っていた。


 近距離まで近付き、ジェナが殴る。僕がそれに耐え、彼女の横っ腹、鱗が割れて肌が出ている部分に蹴りを入れる。今度はジェナは吹っ飛ぶことなく、僕の蹴りに堪え、同じ様に蹴ってくる。鈍い音を響かせ、鱗も割れているというのに、まるで怯む様子がない。


 殴り、殴られ、ジェナの攻撃は意外と耐えることが出来た。だが、何発も食らっていれば、さすがに体の芯に響いてくる。


 くそっ、埒が明かないっ!


 とっくに弱り切っているはずなのに、いつまでも殴り合いに応じてくるジェナに苛つき、僕は彼女の腹を蹴って自身を遠ざけた。このままでも死ぬはずだが、まったくそんな感じしなかった。それどころか、不意の油断で自分の方がやられてしまうような気がしてならない。


「なんだぁ、もうしまいか?」


 低い声で笑いながら、ジェナが僕を見る。金色の瞳。竜の眼。本当にこいつ死にかけか?


 僕の攻撃は確かに効いているはずだった。彼女の全身を纏っている鱗があちこちが剥がれ、鉤爪も割れている箇所がある。背中から生えている羽だって穴が空きボロボロだ。なにより、血が出ている。呼吸音もおかしい。なのに、まったく怯まない上に僕を見る瞳は嗜虐心に溢れている。この期に及んで、まだ僕で遊んでいるようにしか見えない。


 後ろに下がり距離を取った僕に、ジェナは追い掛けてこない。余裕をかましているのか、そんな余力はないのか。分からない。


「……ジェナ、死ぬぞ。いつまで、そんな手加減してるんだ? その羽はただの飾りか?」


「気安く名前呼んでんじゃねぇよっ!」


 ジェナの口が光った。カッと真っ白に光り、僕に向かって一直線に何かが飛んでくる。僕は手で受け止めようと考え――


〈アラン、ダメッ、避けてっ!〉


 リリーの声で、脇に転んで飛んできたものを避けた。すぐに僕が居た地面を見ると黒焦げになっていた。こんなことも出来るのか。


「ハハっ、クソ坊主がっ! てめぇごとき、手加減していても余裕だけどなぁ、いいぜぇ、本気でやってやる」


 手負いの獣。今の彼女はまさしくそれだった。バサッ、と今までまったく動かなかった羽が動き、彼女が宙に浮く。


「本気で――遊んでやるよ」


 ジェナは空中に浮きながら、口を大きく開けた。また、さっきの攻撃か?


〈下にいると不利ね。……アラン、空は飛べる?〉


〈飛ぶ。飛ぶようにする〉


〈なんだか、不安になる返しね。まあ、死にかけても、身体が粉々にならない限りは完全に復活させてあげるから〉


 ありがとう……、でいいのか、これは。そんな風になる気はさらさらないのだけど。


 一方的に空中から竜のブレス? のようなものを受けるのが僕にとって不利になるのは僕も分かっていた。僕にはジェナのような遠距離で攻撃できるものがない。近付けないことにはどうしようもなかった。


 まったく飛べないわけではない。しかし、空中戦などしたことないのだから、なるべく彼女よりも早く移動しなければ。


 僕がそう思い、狙いを定めてくるジェナのいる空中に向かって飛ぼうとすると――突然、耳をつんざくような音が僕を襲った。


 飛ぼうと足に込めた力が雲散する。思わず耳を覆うが、まるで意味を成さない。まるで、イリルの用意したあの人魚の出す声のようだった。だが、こっちの方が数倍耳に刺さる。


 飛ぶこともできず、その場に立ち止まっていると、ふっと金切り声のような音圧が消えた。いつまにか息を止めていたらしい。喘ぐように呼吸を繰り返す。

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