風花の舞姫 鬼篝り

百舌

風花の舞姫 鬼篝り

 夏は嫌い。

 以前は、私の居場所がどこにも見つからなかった。

 寄る辺を失った私は旅を続け、辿り着いた居場所。

 そこは滝壺からの水音が響く、古びた神社だった。

 森の梢が集まっている奥深い場所なので、穂高も燕岳さえも見えない。

 檜の香りが宙を流れていて、主家から預かっているお社だけが陽を受けている。

 そのお社の側には江戸時代、文久年間からの石仏群がその空気に立ち続けている。木漏れ日の切れ切れの光を受けて、それぞれが苔むした柔和なお顔で変わらずにあるのを、私は知っている。

 そこは夏の日差しはあっても、微小な水煙に包まれて柔らかい光になってて快適だった。何よりも遠く水流が岩肌を打つ響きが、血脈のように絶えずある。

 夏はしたたる水の音さえも、耳に伝わる。

 冬は降り積もる雪を、眺めて楽しむ。

 四季の移ろいで色を変えてゆく森林。

 奥山の庵はそれで私の棲家となった。


 ここも飛騨山脈の一角の山深い場所だ。

 標高も高いので、夏でもかなり涼しい。

 有明岳の中腹には、地熱利用の温泉がある。

 山肌の県道は意外にも車列がそこそこある。

 その中房線に並走して流れる急流は、道筋から大きくのたくって流れている。その脇道を折れると遊歩道があり、それがお社まで繋がっている。

 けれでもやっぱり肌が合わないというのかな。外出も極力避けて、買い物も宅配便をよく使っている。業者さんは右手に石仏群のある遊歩道を進み、沢にかかる丸木橋を渡ってくることになるので、多少は申し訳ないのだけど。

 運転免許はなかった。

 というか持てなかった。

 見よう見まねでハンドルを取ったこともあるけど、それは山村だから出来ることでもあるし、特別に免許は必要なものには思えなかった。

 だから依頼はアナログな黒電話で受けるし、ご相談についてはこの神社まで申し訳ないけど、依頼者にここまでご足労を頂くことにしている。そんな上げ膳据え膳の依頼人任せの経営方針だけど、月に数件はお願い事を受けている。

「ようこそいらっしゃいました」

 私は生成りのワンピースに素足のまま出迎えた。

 陽が高い中で、蝉しぐれが喧しい午後の日和だった。

 普段は使う必要のないエアコンをかけると、小さな機械音と振動が外の喧騒を覆い隠して、室内の空気の密度が高くなったような気になる。

 疲労の色の濃い、下界からの埃を皮脂にこびりつかせたような匂いがするご主人と、彼の背中に圧を掛けながらその背中に隠れようとしている奥さまが訪うてきた。

「すぐにお判りになりましたか?」と私は聞いた。

 本堂の脇にある執務所の文机で相対して座っていた。

 ご主人は眼鏡の皮脂をクロスで拭って続けた。

「ええ、お電話でお聴きしたとおりに、橙色の胸当てを付けたお地蔵さんの脇道から上って来ました。とても空気が綺麗でいい所ですね」

 それはお地蔵さんではなく石仏だし、かつて私が掛けてあげたときは、草木染めで深紅にしたはず。だけどもう経る年月のうちに褪せてしまったのね。

 奥さまがもじもじと何か言いたげだったので、「こちらに」とご不浄に案内した。用心のための熊鈴を付けたままで、立ち上がりさまに盛大に鳴ったので、苦笑を浮かべていた。

 廻り廊下から執務所に戻ると、もうご主人は足を崩していたので、私の顔をみて居住いを正そうとしたが、「どうぞお楽に」と制した。

 私は正座に慣れているけど、下界ではもうその習慣はない。奥さまには座椅子を出すことにした。

「お願いしたいのはこれなんです」

 改まって奥さまが正絹の帛紗ふくさから一冊のノートを出した。この依頼を言い出したのは奥さまだと分かって、正面に向かいノートに向き合った。

「拝見しても」と小首を傾けて了解を待った。

 それまでには薄々と彼女から立ち昇る気に違和感があったので、その正体がこれかと思った。

 帛紗で封じられていた場から放たれて、瘴気しょうきがむっと溢れてきている。その帛紗は長いこと慶事、法事で鍛えられ代々愛用されてきた逸品のようだ。

「去年に亡くした娘のものです」

 開くと漢字の練習をしたらしい、幼く筆圧の強い文字が並ぶ。

 漢字のレベルから見てまだ低学年だったろう。

 しかしその上から明らかに字体の違う文字や、猥褻な女性器の絵が書き殴ってあった。そればかりか英文もあれば、ラテン語系の文字すらある。ぱらぱらとめくっていくと、家族の絵らしき可愛い絵の、顔の部分だけが乱暴に鉛筆で塗り潰してあった。

「娘は、交通事故でした。あの子の部屋はそのままにしてきました。一周忌を迎えて、なんとか現実に立ち帰ろうと・・・それで荷物の整理を始めたのですが、こんなノートが引き出しから出てきたのです」

 そしてちびた鉛筆が帛紗のなかに転がっていた。芯が斜めに擦り減っていて、この芯で顔を塗り潰したように思われた。

「轢き逃げだったのです。相手は会社員の若い男で、すぐに捕まりました。酒気帯び運転で、ブレーキを踏み間違えたということでした」

 そうご主人が苦々しげに補足を加えた。その言葉に相槌を打って、じっと奥様の額に視線を向けて、よい帛紗をお持ちでしたねと言った。

「この帛紗でなければ、ここに来るまでに何事か異変があなた方に降ってきたでしょう」

「お祓い頂きますか」と奥さまが絞りだすように言った。

「やらせて頂きます。では準備がありますので、しばらくこちらでお休み下さい」

 私は席を立ち身支度を整えるために、隣室の本殿へあがった。

 後ろ手に襖が閉まる音に、奥さまの安堵の声が混じっていた。


 下着は普段から付けてない。

 お祓い事が本業なので依頼の執務中は、脱衣が簡単なワンピースを選ぶことが多い。着替えに時間と手間を取られたくないのだ。

 肉体を縛るようなぴったりとした服も嫌い。

 特に金属芯を感じるような下着なんて、ひとつも持っていない。

 長襦袢を着て、緋色の袴を履き、雁が描かれた千早ちはやを羽織り、帯を締める。長い髪を後頭部から一本に束ねて、半紙で巻いて鳶色の紐で括った。最後に髪飾りを被り、珊瑚のかんざしまとめた。

 祭壇のお道具から、選んだのは娘時代から使っている小太刀だ。白鞘の懐刀の誂えをしているが、ずっしりとした量感がある。

 それを帯にさして、本堂に縄を四方に張って結界を作った。一辺が二間ほどの正方形の結界に、一尺おきに紙垂れを掛けておいた。

 さあ、お勤めを始めるわ。


 緋扇を手に取って、執務所の夫妻を誘った。

 結界の中央に五寸三宝を二台置いて、左側にお嬢さまのノート、反対側に半紙を四つ折りにして、御神籤おみくじのように結んだものを二つ置いた。

 巫女舞の儀。

 神楽の囃子はやしもなく、千早の衣擦れの音と板間に響く白足袋の音に、朗々と謡う私の祝詞だけが舞っていた。太鼓の代わりに、踵でとんと床が鳴る。薄暗い天井から何者かが応えるように響く。

 緋扇で空を掴む。

 はらはらと湖面に桜花が散るように。

 きらきらと川面に夕映えが映えるように。

 ゆらゆらと滝壺に秋茜が浮かぶように。

 そして。

 しんしんと全てを覆い尽くす雪。

 茫漠たる宙を飛んでいる、重さすらないようなそれが、湖面を固め、川面を埋ずめ、滝壺でさえ堰き止めてしまう重圧を得る。

 その情景を緋扇が蝶のように戯れながら、描いていく。

 とん、と床が鳴る。

 私は本殿の方を向き、緋扇を畳み帯に一旦留め置く。そして小太刀を出して、ゆっくりと抜く。蝋燭の火を映してぎらりと輝く。鞘を帯に置いて、また緋扇を左手に、右手で抜き身の小刀を持ち、また床を蹴り出す。

 この小太刀は娘時代から鍛えてきている。

 しっかりと刃が入っていて、よく斬れる。

 とてもよく、斬れる。

 本来であれば右手には鈴を持っている。

 しかしながらこれは鬼祓い。大きな円弧を繋ぎながら、その弧を断ち切るように白刃が踊る。

 見るものを戦慄させるような鬼気迫る儀式でもある。

 鬼とはひとの意識が、凝り固まったもの。

 鬼とは自然の摂理が、我が意を得たもの。

 それに力を貸す動物霊もいる。

 緋扇を掴みにくるものがある。

 手応えでそれがわかる。体をひるがえしてそれを受け流す。腰を屈めて剣先が鋭くそれを撃ちにいく。交わされた。刀身を疾ってくるものがある。千早が風を孕む。跳躍して後退すれば、それは左耳を掠めていく。

 ざあっ、と黒髪が広がる。数本はもぎ取られた。後ろに纏めた紐を両断されて半紙も消し飛ばされた。

「ひっ」とくぐもった奥さまの悲鳴も遠い。 

 しかし捉えた。念を切っ先に籠めて、しばらくしてすっと手応えが消える。私は本殿を向き、小刀を鞘に収め、緋扇を畳み帯に収める。

 ニ礼ニ拍手一礼。

 肌に汗が滴っている。

 私は三宝からお嬢さまのノートを拝領して、結界を抜けてご夫妻に一礼して奉じた。


 社に戻り打合せの際の普段着に着替えた。

 それから本殿に上がった。

 結界もそのままにしてある。黒々とした瘴気が、そこに凝っている。

 結界の中央部分に五寸三宝がそのまま二台立っている。右側の台の結ばれた半紙が小刻みに震えている。

「お改めください」

 ご主人が胡座からよろよろと身を起こし、震える手でそれを受け取った。ページを捲りざまに絶句して取り落とした。傍から奪い取るように奥さまが拾い上げて、溜め息をついて低く呟いた。

「・・・全部、全部、消えてしまった」

 鉛筆で書かれたものは全て消去されて、鉛筆芯がなぞった溝が残っているはずだ。私は結界へと戻り、もう一方の三宝から半紙の包みのひとつを取り上げて、再びご夫妻に向かい合った。

 ゆっくりと半紙を開くと、その折り目に微細な芯の粉が溜まっている。

「これがお嬢様が書かれていたもの、文字や絵の元です。ただ厄払いにお家の神棚で払い清めてください。ご自宅の方がお嬢様も喜びます。その後はご近所の神社でお焚き上げして頂いて構いません」

「・・娘は、娘は成仏しているのでしょうか?」

「ご成仏されています。この字にはお嬢さまの魂が封じられていました。一生懸命に書かれていて、その念の残りかすが残っていました。悪いものはそれが好物で憑依していました。残念ながらノートの紙片から、不浄なものだけを取り分けることができません。静謐なものはこちらに、そして不浄なものはあれに封じています」

 ご夫妻の眼が、三宝に残るもう一つの包みに飛んだ。それが呪いの本体と知り、怖気が背を這ったようだ。

「あれは私がお焚き上げしておきます」

 ご主人はきちんと正座をして平伏し、言葉にならない歓喜の声で御礼を述べてから汗ばむ手で懐から包みを出した。

「どうぞお受け取りください」と呂律ろれつの廻らぬ声で続けた。

 銀行の封筒とは無粋だが、封印帯を解いていない硬質な感触があったので、有り難く頂戴することにした。ここでの生活には不要なものだけれども、下界に行くときには必要なものだ。

 私は袂からとび色の小袋を取り出した。

「私が育てたお米です。このお米は少しづつ毎日神棚にあげてください。下げたら一緒にご飯に炊いて召し上がってください。この袋いっぱいをあげた頃合いでお焚き上げしてくださいね」

 それは嘘だ。

 お米を育ててはいないし、ただの貰い物のお米。

 私には、そもそも食べ物は必要ない。


 物心がついたのは天正年間だった。

 四世紀は生きてきたことになる。生まれは堺だった。当時は下り酒の樽廻船で大坂は賑わいを見せていたが、そこからあらゆる地域を巡ってきたことになる。

 この樽沢の神社に棲むようになって、もう20年にはなる。

 歳を取らない巫女として噂になることを避けてきたし、今では「先代の姪」という名乗りで通している。

「鳴神さま、鳴神六花なるかみ りっかさま。ぜひまたこちらに参ります。お焚き上げもこちらにお願いいたします」

 奥さまは花咲くような笑顔を、車窓から覗かせて去っていった。出不精の私でも、駐車してある場所まではお見送りした。

 先刻に祓ったときは、刃の姿で切りつけてきた。まとめた髪の結い紐を断たれた時だ。今度は形状を変えてくるのだろうか。鉛筆の芯の炭素組成もダイヤモンドのもそう変わらないので、注意しないと。

 お嬢さまのノートから分離するのは、炭素と紙面を密着させている水分を、超寒気で分子的に断てばいい。

 

 あの交差点にいたのは、動物霊だった。

 車に撥ねられて死んだ動物の地縛霊で、数体が集まってそれなりの能力を得ていた。見通しのいい交差点であるものの、目眩しで幻惑して、運転者には虚像を見せていた。事故が絶えない交差点になったのはそういう理由だった。運転者の足首に憑依して操ることさえ可能だったかもしれない。

 あの子が交通事故死したのは、そんな吹き溜まりの霊場だ。


 なんかね、たくさんいたの。猫が多かったかな。お腹がすいていて、琴乃がなんか持ってないかって。それで誘われたの。でも学校だったし、あげる

ものなんてなかったの。

 ずっと一緒にいたよ。

 でもよく噛んでくるし、引っかくし。遠くでじっとみていたよ。


 彼女のノートから鉛筆芯の成分を引きはがすときに語ってくれた。

 文字の悪戯書きは別人の手に依るもので、そこまでは見えている。

 それがもうひとつの半紙に封じてある。

 ここからが私の食餌だ。

 壁にもらせていた緋扇を手に、本殿の結界に入った。

 ただ祓うだけなら、こんな舞台装置も装束も本当は必要がなかった。ただの演出だけど、尤もらしく依頼人に観せる必要があった。

 半紙がふるふると蠢いている。

 僅かな変化を見誤らないように近づいた。暫く時間を置いたので、解凍されてしまったようだ。

 やはり。

 しゅん、と空気が鳴って針が眼を突いてきた。

 甘い。読めているわ、それくらい。

 私の呼気が空中に幾つも冷気溜りを作っている。超寒気の地雷のようなものだ。その針は宙を疾走しながら先端から分子的に崩されていく。

 もちろんそれを搔かい潜る針もある。

 緋扇を一閃させて、宙で叩き落とし、かつ扇面で受けた。左右から同時に突いてきもしたが攻撃に工夫も練達もない。

 そして相手には物理的な限界がある。

 最後に襲ってきた一本に。手を唇に翳かざして、呼気を放った。

 周囲の空気ごと氷結し、ぱあっと霧散して、消えた。

 そう。私は雪女なのだ。


 私の食餌は人間の生気だった。

 江戸期から大正年間までは、森や山里での行方不明は、神隠しと言われていた。皮肉にも私は神になり損ねた身ではあるけれど。

 当時から食餌は月にひとり程度だったので、無難にこなせてきた。勿論ながら山狩りの捜索もあったけど、ひと通りすれば詮索もしてはならない穢れとなり、噂にも上らなくなっていた。

 最近は違う。草の根一本までの緻密な捜査が行われる。生きにくい世の中になった。それで私が思いついたのは、お祓いを通じて持ち込まれた霊体の生気を喰べることだ。今回のもなかなか上物だ。

 ただ億劫になって数日はもじもじとしていた。

 下界は私の想像を超えて炎熱のようで、タブレットの気温変化ばかりを眺めていた。

 しかしながらその日が容赦なくやってきた。

 電動アシスト付きのマウンテンバイクを納屋から取り出して、下界に降りる決心をした。川の瀬音が届かない場所まで押して、雪女にとって外気温は只事ではないと痛感した。

 執務所に戻って黒電話でタクシーを予約した。

 人間の金銭には余裕があると気づいたからだ。

 タクシーで安曇野まで下り、JRに乗り換えた。

 ごく平凡な長椅子に向き合って座る車両で、夕日が山を茜色に染めて溶けかけていた。松本駅で乗り継いだ頃には紫色を尾を引いた雲が、天空にまたがっていた。

 目的地は韮崎にらさきという盆地の町のようだ。

 中央本線で2時間ほどだし、夜のとばりが下りたら少しは涼しくもなるだろう。それでも我が身の周囲には冷気を放出していた。制服を着た女子高生が、空調以上に効きすぎるらしく肩を抱いて座っていた。

 悪いことをしたな、と多少は思う。

 

 韮崎の市街を歩いていた。

 初めて来た場所ではあるが、琴乃の記憶を垣間見ているので、道の選び方にそう苦労はなかった。

 そこは住宅街であり、本道が脇道が交差する三叉路で、その奥に忌み深い鬼門があった。恐らくはそこに小さな祠があったはずだが、人の世の常で解体されて影も形もない。これでは霊の吹き溜りが生まれるはずだ。

 暑いので髪は上げて簪で留めている。

 その場所はすぐに分かった。

 鬼門から二間ほど離れた場所に、花束とお菓子のようなものや飲み物のパックが並んでいる。歩道の境としてコンクリートの車止めの帯がある。そしてそのお供えのある箇所には、黒々としたタイヤの跡が残っている。

 そのお供えには安倍川餅が多いのは、この地域の風習だろうか。

 手提げ袋から茄子を取り出して、髪の中からあの針を数本抜き取った。それを四肢に見立てて茄子に刺して、お供えの傍にそっと置いた。

 年経た雪女の髪に刺されて、生きた心地ではなかったろう。

 そこへ。

 闇を裂いて。

 人影が現れた。

 見覚えのある背格好。

 喪服のような服の色味が暗がりに溶けていて、その姿は沼から大鯰が魚影を現したかのように見えた。


 逢魔おうまときという時間がある。

 魔に邂逅かいこうする黄昏たそがれの時間だ。

 逢魔が辻という場所もある。

 魔が巣食う三叉路の袋小路。

 そこは旧甲州街道と河川に挟まれた住宅街の一角だ。

 そこへ。

 ひたひたと足音が響いてくる。

 その姿が、あらと声をかけてきた。

「六花さま、鳴神六花さまではありませんか?」

 ええ、と声を返した。

 その瞬間にひょろひょろと物悲しい音を引いて、大輪の花が空中に開いた。そして轟音が頭上から降り注いだ。

 釜無川の方角から歓声が響いている。

 今日は旧武田家臣の御魂みたまを慰める花火大会が催されているが、その三叉路は交通規制がかかっていて、車が行き交うことはない。

 しかも逢魔が刻の空洞の時間までは、浴衣を肩に引っ掛けた若者が騒々しく喋りながら歩いていたが、今は違う。

 数日前に逢ったはずの奥さまが、険相の上に微笑みを糊塗ことして、静かに嗤わらっていた。

「よくこの場所がお分かりで」

「ええ。教えて頂いたたんですよ。琴乃ちゃんに」

「まあ、それで・・・」

「まだありますよ。教えて頂いたこと」

 じわりとその眼が底光りをしていた。

 そう。あのノートを塗り潰した鉛筆。

 書きなぐった暴言、淫猥な女性器の絵、家族の顔を漆黒にした人物がそこにいた。おぞおぞと彼女に周囲に瘴気が立ち籠めてきた。

「まあまあ、お喋りな娘でしたから」

 また宙に火箭が飛んで、天空で炸裂して深紅の華が轟いた。

 しゅっっと口中から触手が飛んできて、お供えのなかに潜り込んだ。一間を超える長大な長さで、蟾蜍ひきがえるの蒼黒い舌のような触手だった。そうして私の供えた精霊馬しょうりょうまを摘まみだした。

 茄子にあの針を刺してお供えした精霊馬。

 それを巻き取って口に含んだ。

 そして奥様はそれをひと呑みに嚙み砕こうとした。

 彼女は、手持ちの刃物を取り返したかったのだろう。

 しかしその頬を貫いて、針が四方に飛び出した。鮮血が肌を伝わってまだらに滴っていく。それは意外だったのだろう。皺がれた悲鳴をあげていた。

「驚いた?私がそれを躾けたのよ。貴女のいうことは聞かないわ」

 その針に縫い留められた歪な顔で、凄絶な微笑で返した。

 

 ふわりと冷たいものが足首に触れている。

 スカートに中にも潜り込んでくる、不届きものもいる。

 肌に触れた瞬間には、それは冷凍破砕されていく。

 いけない、あまり調子に乗りすぎると、私の衣服の繊維まで破砕されて裸になってしまう。羞恥心などはないが、帰宅するまでにきっと困る。ひとの世はとかくやかましい。

 慰撫するような甘えた鳴き声がひたひたと地面を覆っている。

 感触は猫のそれだが、一匹としてのまとまった姿形はない。

 白いふよふよとした不定形の塊が地表を這いずり回っている。動物霊の混濁した意識は数百なのか、或いはそれが数千匹に達するのか。琴乃を引っ掻いたり噛んでいたのは、これだろう。

 少なくとも人間であれば、足を取られて転倒することもあろう。車を運転しているのであれば、ブレーキを踏み間違うこともあろう。

 ほら。

 奥さまはその意識の汚濁に四つん這いになっている。

 その手足に白い靄が蠢いている。

 ときに中から尾のようなものが現れて、彼女の頬を嬲る。

「ぎぃ・・貴様、おでに一体、何を・・」

 舌まで貫かれているのであろう、呂律が回らないが明らかに奥様の声音とは違う。幾ほどの年月を経た魍魎だろうか。

「動けないでしょ、それはね。凍傷というのよ。もう貴女の手脚は地面に固着しているわ」

 手足の血流は既に凍結させている。

 さあ、吐き出しなさい。

 溜まっているものを全部。


 そこに在ったのは水子地蔵であったろう。

 区画整理の際に、縁起でもないとでも地権者が考えたのだろう。

 その祠と地蔵を取り払い、しかも河原へと向かう私道まで塞いでしまった。元々の四辻が三叉路となり、それで霊道を塞いでしまった。

 そこに凝集したものが、いる。

 生まれ出でることのなかった魂が、いる。

 また光源が天を翔けて、茜色と藍色に天空が染め上げられている。それは黄昏時の色味、魔に出逢う狭間だ。

 藍色が深く闇に沈むときにそれが生まれ出でる。

 白霞の上に平伏するように、彼女が悶えている。

 唇を押し広げて透明な異物が吐き出されている。

 海月くらげのようなそれは、胎児のような姿形をしている。まず頭が出でてぬるりと肩が滑りだした。

 それが根であったということね。

 超寒気を圧縮させた。

 熱を奪い、水を奪い、分子運動を奪い、虚空に散らせる。

 それを喰べて私は命を繋いできた。

 

 重く大気を震わせる炸裂音がある。

 もうその辻は浄化された。

 ゆっくりと奥さまの背中に手を置いた。

「すみませんね。先にお話ししました通り、不浄なものだけを祓うことはできません。貴女自身も祓うことになります。もうその肉体はかなり穢れております」

 彼女は背中を震わせて、拒絶を示して嫌々をしていた。

「さあ、駄々っ子の真似はおよしなさい。あれを一時的にでも肉体に受け入れてしまったのです。そしてお嬢様との時間をも、あれの意識に乗って、その手で汚して消そうとしたのです」

 髪を振り上げて睨みつけた。その眼に冷徹に言った。

「あの男を同じ目に逢わせるまでは・・・堪忍して」

 頬を貫通していた針は、もう崩れて消えている。ただ鮮血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。復讐のための力を魍魎にたのんだのは愚かであった。

「そうそれが女なのです。幾つもの魂を、幾つもの命を宿すことが出来る。清濁を分けず飲み干すことができる。意識を完全に奪われる前に魍魎だけを祓い、琴乃さんを浄化しようとしたのでしょう。そんな都合の良いことは望めませんよ」

 その肩から寒気を送り、肉体ごとゆっくりと冷凍破砕した。

 粉々に散って、微細な粒子に消えていくのを見送った。

 それも私の食餌でしかない。

 立ち上がった。かの地で母娘が出逢うかはわからない。

 魔に呑まれたから、魔にすがり、魔に喰われるのよ。

 天空にまた大輪の華が咲いて、ようやく歓声が再び耳に届いた。

 今日は送り火の夜。

 琴乃ちゃんの初盆の夜だった。

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