第26話 犬の獣人レヴィと知能の話
ハーブの死を目の当たりにした、あの日から数日。ホルスとトドゥルユルは、それまでと変わらずに過ごしていた。けれど、映画に行く約束をすっぽかされたショーンは大きくヘソを曲げた様子だった。あれ以来、会えば必ず嫌味を言ってくる。
この日もまた、ショーンからああだこうだと文句をつけられていた。
「あんたらは、本当に約束を守らないな。この間はドタキャンするしさ」
「この間の件は、悪かったよ。でも、今日は風が強くて外で過ごすのは危ないでしょ」
ホルスは軽く笑って言った。ショーンは確かにあの件で機嫌を損ねたらしかったが、少し収まっては来ている様子だったので、気安い反応で大丈夫だろうと考えたのだ。案の定、ショーンは「まあな」と言って、冗談だと分かる飄々とした口振りで続けた。
「あーあ、それでも俺は、みんなで遊園地に行きたかったんだけどなぁ」
椅子の背もたれへ体を預け、斜め上を仰いだ彼に、低く落ち着いた声が言った。
「天気を彼らのせいにはできないよ。楽しみにしていたのは、みんな同じさ」
弦楽器の奏でる低音のような美しい声音に、ショーンはその主の方へちらりと目をやり、溜息をついた。
「分かってるよ、レヴィ。なんだか、獣人のお前の方が、しっかりしてるよな」
彼のおどけた調子に、ピンと立つ黒耳の青年は口元へ笑みを浮かべる。
「君もしっかりしてるよ」
ホルスとトドゥルユルはショーン、そして彼と同居する犬の獣人、レヴィと共に、遊園地へ行く予定だった。あの日、ショーンとレヴィは、二人で映画を見てしまったらしく、今度は映画ではないものが良いとのことで、遊園地に決まったのだ。けれど運悪く、約束の日は今年一番の強風に見舞われ、急遽、ショッピングモールへやって来た。ホルスとしては、何よりもトドゥルユルの帽子が風で飛ばされはしないかと、それが心配だったのだ。それで、獣人も入れるカフェで、休憩しているところだった。
「でも、レヴィは落ち着いてるし、人間以上に知的な感じだよね」
「それ、人間(俺)よりもって言いたいのか?」
言葉の割に、その口調は笑いを含んだ楽しげなものだった。ショーンは得意そうに続けた。
「まあ、レヴィは俺の親友みたいなモンだからな。小せぇ頃からずーっと一緒だし、人間より賢いなんてことは、誰より俺が分かってるよ」
「でも、人間より賢い獣人なんて、珍しいよ。犬の獣人が、そんなに頭が良いなんて全然知らなかった」
話している最中、ホルスの頭に浮かんでいたのはアームリムカークの光景だった。イヌ科の獣人は確かに他の獣人に比べれば賢く、人語を操る者もいない訳ではなかったが、それは犬の獣人と間違われて飼育された経験のある者に限られていた。それに、話せたところで人を凌ぐ知性など一切見られはしなかった。ペットとして人間社会で暮らす犬の獣人は環境に順応した結果知性を身につけた、ということかもしれないが、しかし、レヴィの博識さと聡明さは、それだけで説明がつくものではないように思えた。胸に疑念の靄を漂わせたまま、ホルスはピンと立った黒い耳を見た。
「俺の耳、気になる?」
目をやった途端に、声が飛んできた。ドキッとして、思わず顔を背ける。
「いや、ごめん。あんまり獣人を見る機会ってないから、目が行っちゃって……」
口をついて出た嘘は、穏やかな茶色い目に見透かされそうな気がした。何でも知っていそうな感じのする目だ。視線に耐えられず、再び「ごめん」と言うと、レヴィの目はホルスとは別の方を向いた。
「いいや、気にしないで。慣れてるから」
「本当にごめんね」
バツの悪さを誤魔化すためではない、本当の「ごめんね」だった。ホルスだってレヴィのことを疑っているのではないのだ。ただ、あの研究所で行われていた実験や研究を思い出すと、不安な気持ちがせり上がってくる。
「オヘは、あんはの耳、ふきはよ」
全く別のところから、やや掠れて高く、そして言葉の輪郭のはっきりしない声が上がった。見れば、レヴィとショーンの向こう、一番奥の席に座るトドゥルユルが、洋梨のタルトを頬張りながら喋っていた。
「ふごく、いいほほもう。あんははしい」
言葉が不明瞭すぎて、意味を理解するのに一瞬の間が必要だった。
『すごく、いいと思う。あんたらしい』
頭の中で輪郭が付いていくと、その言葉はずしりと心へ来た。この場で、彼の言った意味を本当に理解しているのは、きっとホルスだけだろう。でも、なぜだかレヴィはトドゥルユルへ優しい含みのある目を向け、帽子の上からトドゥルユルの頭を撫でた。
ホルスの背へ、緊張が走った。そこは、まだ残るトドゥルユルの片耳のあるところだ。「あのさ」と、とっさに話し出していた。
「もう休憩は十分でしょ。そろそろ出てショッピングしようよ」
カフェを出て、ゆっくり歩きながら連なる様々な店に視線を泳がせる。けれど、ホルスの頭には店の様子など、ほとんど入って来なかった。レヴィがトドゥルユルの頭へポンと手を置いた姿が、脳裏を離れない。彼が勘づいたのかどうか、確認した方がいいかもしれない。
「ねえ、ショーン」
声をかければ、前を歩くショーンは「んー?」と呑気な返事をして振り返った。ホルスはできるだけ何気ない感じの笑顔を作ろうと、軽く口角を上げた。
「俺、ちょっと探す物があるんだ。君は作業用のレインジャケットを探すんでしょ? 一旦、別行動をした方が時間がかからないんじゃないかな?」
「あー、俺の買い物に付き合わせちまうのも悪いしなぁ。じゃあ、レヴィと俺、あんたとトドゥルユルで分かれるか」
それなんだけど、と言おうとしたが、別の声の方が早かった。弦楽器を思わせる甘い声の方が。
「俺はホルスと一緒に回りたいな。初めて会ったんだ、親睦を深めたい」
ショーンと、それにホルスの隣にいるトドゥルユルはきょとんとした。
「なんでホルスと?」
小首を傾げるトドゥルユルに、なんで自分ではないのだ、などという不満の色は全くない。純粋に不思議に思っているのだろう。ショーンは、ハハッと笑った。
「大人同士で話したいんだってさ。いいよ。じゃあ、一時間後に、またここに集まろう。その間に、しっかり打ち解けとけよ」
ああ。レヴィは相変わらずの落ち着いた口調で返した。ホルスはトドゥルユルをじっと見て「良い子でね」と念を押した。そこにある真意を、賢いトドゥルユルならば汲み取るだろう。そうしてホルスとレヴィ、トドゥルユルとショーンの二手に分かれて行動することになった。
レヴィと二人きりになった。トドゥルユルとショーンがいなくなった途端、空気が少し緊張した。そっと横目でうかがうと、しかし、レヴィは鼻歌でも歌い出しそうな程、涼しげな表情をしている。少し、安心した。
「ねえ、ちょっと聞いてみて良いかな?」
話しかけると、レヴィは「もちろん」とホルスの顔をまっすぐに見た。やはりその目は、何でも見抜いてしまいそうな気がした。
「うん、あの、さっきの。どうして俺と二人で回りたいって言ったの?」
「親睦を深めたいんだよ」
先程の言葉を繰り返したレヴィは、そこで意味ありげに声を深めた。
「それに、君は何かを俺に言いたそうだったから」
ドキリと胸が鳴る。やはりバレているのだろうか。薄氷の上を歩くように、慎重に言葉を選ぶ。
「そうなんだ。カフェで話してた時に、ちょっと気になることがあって。少し聞にくいことなんだけど……」
ホルスの言葉が止まると、レヴィは続きを口にした。
「俺がどうして人並み以上の知能を持ってるかって?」
「へ?」
つい、調子外れな声が出たが、すぐに首を縦に振った。
「うん、そう。それ」
緊張の余韻で、心臓がバクバク鳴る。良かった。バレてる訳じゃなさそうだ。レヴィの口元へ柔らかな笑みの気配が差す。
「俺も自分で不思議だったんだ。それで、子どもの頃、調べてみたんだ。獣人が一般的なレベルを超えて賢くなることはあるのか。そうしたらね、びっくりすることが分かったんだ。獣人の知能を向上させる研究があるらしいんだ」
「研究?」
「そう。やっぱり知能の高い獣人の方が、共に暮らす人間にとっては何かと都合の良いケースが多かったみたいでね。それで、三十年以上前から研究施設での実験が行われてるらしい。治験の一般募集をする施設もあったみたいで、応募数は相当だったって話だよ」
レヴィは言葉を切って、宙を見つめた。軽く溜息をつく。
「俺は、たぶんそれだと思ったよ。他の獣人と違いすぎたからね。だから――」
そこで、ホルスの顔をまっすぐに見た茶色い目は、優しさと確信に満ちたものだった。
「君やトドゥルユルも同じみたいで、嬉しかったよ」
心臓がひっくり返った。この日、もう何度かこの心臓はドキドキ強く脈打っていたが、どの瞬間とも比べ物にならないほどの衝撃だった。一挙に全身が熱くなり、手にはじわりと汗が滲んだ。しかし、レヴィの口振りは軽いものだった。
「ごめんね。驚かせちゃって。とりあえず、ここでこの話はまずい。人の少ないところまで行こうか」
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