第25話 ラース(3)

「ホルスじゃないか。お前、こんなところで何してるんだい?」

 黄色く濁った、けれど切りつけるような瞳の鋭さは失っていないその目は、よく知ったものだった。

「おばあちゃん……捕まってたの?」

 ヒャッ、ヒャッ、ヒャッと甲高く粘っこい声を立てて、その獣人は笑った。

「捕まった? ああ、捕まったってことになるんだろうねえ。でも、誰のせいで捕まったか、知ってるかい? あんただよ」

 ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ、と一際高く笑ったその獣人――ハーピーは、おかしくて仕方がないというように肩を震わせていた。

「あんたがいりゃあ、五匹全員引き渡せたのに、自分だけ逃げやがったからねぇ。そのせいでアタシは『約束が違う』と捕えられちまったのさ」

 言葉が出る度、信じられない現実が明らかになっていく。最後には、腹の底から殺意にも似た感情が吹き出していた。

「どうしてそんなことをしたんだ?」

 なんとか絞り出した声は、怒りで震えていた。しかし、目の前の老婆は殺気立つ程の様相に触れても、さも愉快そうに笑い続けていた。

「人間になるためさ! お前たちを捕らえる手引きをすれば、人間にしてやると言われたのさ! アタシみたいな老婆のハーピーじゃあ再生能力の実験にゃ、使えなかったんだろうねぇ。だから代わりに、あんたらが欲しかったのさ! アタシだって、ハーピーの癖に見目よく生まれたあんたらは、心底憎らしかったからねぇ。断る理由なんて、あるわけないよねぇ」

 ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ。喉の奥から込み上げるような笑い方だ。耳を塞ぎたくなる。けれど、この老婆は笑うことも、自身の欲を満たそうとすることもやめなかった。

「ハーピーがいるよォ! 残りの一匹が、ここにいるよォ! アタシは約束を守ったよォッ!」

 心臓が飛び上がった。怒りがグルンと恐怖に変わる。どうしよう、どうしよう、どうしよう。真っ白な頭の中で言葉だけが駆け巡った。けれど、

「ハーピーが、人を……襲ってる!」

 通路の奥からこちらへ声が響いてきた。ラースだ。ホルスの状況を察して、助けようとしてくれているのだ。声を張る力なんて無いに等しいはずなのに。

「違う! こいつは人間じゃない! ハーピーだ! アタシが捕まえてやったんだ!」

「早くしろ! そいつは……嘘つきの、ハーピーだ! 殺されるぞ! 早く!」

 涙が滲んできた。今だって酷い苦しみの中にいるはずのラースが、その体に鞭打ってまでホルスを助けようとしてくれているのだ。ホルスは意を決し、腹の底から声を出した。

「ハーピーが襲ってきた! 助けてください!」

 その叫びは、本当には助けを呼ぶものではなかった。ラースへの叫びだった。俺は、ちゃんと自分で窮地から脱せると、だから安心してくれと、そういう思いを込めた叫びだった。そうだ、もうラースは休んでいいんだ。安心して、少しでも心を安らかにして。そのために叫んだ。助けてくれ! 早く! ハーピーに殺される!

 声を聞きつけた警備員が走ってきてすぐ、ホルスはハーピーの檻から引き離され、再び警備室へ連れていかれた。そうして、もう一度、ここで働かせて欲しいと懇願した。この研究所で、働くしかないと、そう思っていた。


 そこまで話したホルスは、起こしていた背を、再び半球型の椅子に預けた。上を仰いでいなければ、涙が零れてしまいそうだったのだ。床の上の気配は、ホルスが言葉を止めても動かない。不安の霧が心を漂い始めた。大切なきょうだいを救えずに一人生き残ったホルスを、トドゥルユルは軽蔑しただろうか。目だけ動かして様子をうかがえば、片方しかない丸耳が前に垂れていた。

「ラースは、死んじゃったのか?」

「うん」

 答えた時、心が深くまで抉られた。ただ死んだのではない。彼は「どうして檻が壊れているんだ?」と詰問を受け、逃げようとしてやった、と答えたのだ。あの体で、そんなことできるはずがない。なのに警備員たちは彼の嘘を信じ込み、生意気だと言い、また殴った。三人の男たちが、既に命を失いかけているラースを暴行した。ホルスがそうと知ったのは、全てが終わった後だった。ハーピーイーグルの獣人の檻で起こっていることを耳にし、急いで駆けつけた時には、ラースは誰だか分からないくらいめちゃくちゃに殴られて事切れていた。ラースを見たのは、その時が最後だった。思い出し、また瞼が膨れ上がってくる。

「酷いよね。結局、俺はラースを置いて、自分だけ助か――」

「違うだろ」

 ホルスを遮った声には、諭すような重々しさがあった。思わず見れば、真剣な眼差しと視線がかち合う。

「あんたは、あの研究所から逃げなかった。ずっとずっと、あそこに居続けた。守ってくれてたんだろ? あんたのきょうだいみたいに獣人たちがいじめられないように。殺されないように。だから、俺のことも助けてくれたんだろう?」

 トドゥルユルの言葉は、傷ついた心を包む毛布のようだった。けれど、ホルスは言った。違うよ、と。そうじゃない。俺があそこに居続けたのは、それが一番安全だからだ。灯台は足元が暗いし、鼻の下の物は見えにくい。それと同じで、あの研究所は、一番正体を隠しやすい場所だった。

「そんな訳ないだろ」

 返ってきたのは、はっきりした調子の否定だった。

「仮にあそこが一番正体がバレにくいところだったとしても、そこに居続けるのは怖いに決まってる。自分のきょうだいをなぶり殺しにした奴らで溢れてる場所だぞ? 理屈の上で安全と思ったって、めちゃくちゃ怖かったろ? 他の獣人を助けんのなんて、もっと怖かったろ? そんなことしたら、獣人の仲間だって言われかねない。それでも、俺を助けてくれた。ずっとずっと獣人たちに優しくしてくれた。すごいことだ」

 トドゥルユルの発する一言一言は、不思議と心に馴染んだ。納得したからではない。その言葉の持つ温度が、胸を透き通らせてくれる透明度が、心の奥の柔らかなところへ触れてくる優しさが、そっくりだったのだ。ラースのくれた言葉に。いや、ラースだけではない。ヒューもメイジーもエマも、臆病なホルスが不安で心を曇らせている時、それをパッと晴らしてくれた。そんな彼らの言葉と似ているから、ホルスはいつも、この子の言葉に救われるのだ。

「すごいのは君の方だよ」

 ホルスが言うと、トドゥルユルは目をまん丸くした。ハハッと笑い、ポンと頭に手を置いてやる。

「きっとお互い、自分のすごいところは見えてないんだね」

 グリグリ頭を撫でると白銀色の髪が乱れた。ボサボサになった頭を、そっと引き寄せ胸に埋める。

「ありがとう」

 ホルスが言うと、トドゥルユルは、パッと顔を上げた。視線が重なる。

「ぶどう食べるか?」

「え……ぶどう?」

「うん、うまいよ。食べたら、元気出る」

 また、ハッと軽い笑いが出た。彼なりに、励ましてくれているのだろう。

「ありがとね。でも、いいんだ。前も言ったけど、俺、酸っぱいと食べれないから、君が食べてよ」

 トドゥルユルは、少し残念そうな顔をした。罪悪感で胸がチリチリする。けれど、トドゥルユルの前で酸っぱくて嫌そうな顔になってしまわないか、心配だったのだ。それならば、初めから食べない方が、まだマシだろう。一緒に食べて二人とも元気になれたらいいのにと思いながら、それでも、やはり手は伸びなかった。

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