第24話 ラース(2)
「ラース……!」
なんとか声を押し殺して、名前を呼ぶ。
「ラース……ごめん、本当にごめん……。でも、ありがとう。生きててくれて、ありがとう。すぐ助けるよ」
縋るような気持ちで話しかけた。けれど、この時のラースの姿には、到底助かる可能性など見い出せなかった。羽は引きちぎられ、両の足は途中でおかしな方へ曲がり、ホルスの掴んだのと逆の方の手には、爪どころか指が一本もない。うつ伏せになっているため顔は見えなかったが、いつもなら僅かな光にさえ輝いて暗がりを照らさんばかりだった銀と黒の混じった溌剌とした髪は、今や赤く濡れて床に血溜まりを作っている。けれど、髪の下、それに手には包帯が巻いてあり、腕や足にはガーゼも貼り付けてある。さっきの男に施されたらしい手当てのあとは確かに見られた。その効果の方は、皆目、見られなかったが。
ラースをここから出してやらなきゃ。ホルスは鉄格子を掴んだ。これが本当にただの鉄でできているなら、少し本気を出せば手の力だけで砕ける。ホルスたちは世界随一の握力を誇るとされてきたハーピーイーグルの血を受け継いでいるのだから。普通の鳥の姿であっても世界一と謳われるだけの力だ。もっと大きな体躯を持つ獣人となれば、さらに強い握力がある。けれど、砕ける時に大きな音がしてはまずい。ホルスは羽織っていたジャケットを脱いで格子を包み、その上から握り直した。深く息を吐き、手にありったけの気合を込める。バキッ。布越しに伝わってきた感触と共に、硬い棒の形が崩れた。よし。同じようにして五、六本の格子を折ると、ラースがくぐれるだけのスペースが空いた。
「よし、ラース、行こう」
急いで服を着て言う。そっと彼を支え起こす。けれど、ラースは首を横に振った。
「ラース、苦しいだろうけど、行かなくちゃ。さ、俺の肩に掴まって」
ホルスが優しく言っても、やはりラースは首を振るばかりだ。
「ラース」
言葉を真綿に包むように、尖ったところが一つもないように気をつけて声を出す。でも、ラースは決して、うんとは言わなかった。
「俺は……も、無理だ。でも、お前は、大、じょぶ、なんだから……一人で逃げろ」
「そんなこと、できるわけないだろ!」
大きさは抑えたものの、その声には尖りが出てしまった。いけない、と思いつつも、喋り出すと言葉の当たりが強くなりそうで、何も言えなくなった。代わりに目の中へ涙が溢れてくる。その目元へ、ラースの手がゆっくり、力なく伸びてきた。
「お前は、こんなに弱虫の、癖に……俺たちのこと、助けに、来て、くれたんだな……。ありがと、な……」
「ラース……」
彼の名を口にし、彼の差し出してくれた手を握った。けれど、それ以上、何も言葉がなかった。言わなければならないことも、言いたいことも、たくさん、たくさんあったのに、それらはみんな、あらゆるものを呑み込む津波みたいな感情の中で迷子になってしまった。言葉になど到底固まらない大きくてグチャグチャごちゃ混ぜの気持ちが、ただ、ただ、涙になって零れていく。けれど、ラースはホルスと違って、ちゃんと言うべきことが分かっていた。ホルスの握ったその手へ、最後に残されたものだろう力を込めて言葉をくれた。
「お前に、会えて……よ、かた、よ……。無事、て、分かって、安心、した……嬉しい、でも……」
ラースの言葉はそこで途切れ、目から涙が溢れた。
なんか、わ、るい、なぁ……ヒューと、メイジーと、エマに……悪い、なぁ……。みんな、お前に、会いたか、たはず、なのに、俺だけ、最後、こんな、幸せで、悪いなぁ……。
ホルスの胸へ、これまでよりも、さらに大きな大きな大きな気持ちが突き上げてきた。
「ラース」
再び名前を呼んで、ぐったりした体を抱きしめた。腕の中のラースは苦しそうで、弱々しくて、それでも小さく確かに鳴る鼓動が、彼が今、精一杯、命を全うしようとしていることを示していた。
「ありがと、な。あったかいよ、すごく、あ、たかい。けど、早く、逃げなきゃ、駄目だ……。お前まで、つかま、ちまう。俺は、も、だいじょ、ぶ、だから。お前、こ、してくれた、から、俺はもう、いっぱい幸せ、だから。早く、逃げんだぞ」
ラースが一言紡ぐごとに、ここを離れたくないという気持ちと、ここを離れなくちゃという理性とが、どちらも大きく膨れ上がり、頭の中でせめぎ合った。けれど、ラースの最後の言葉が、「早く、逃げんだぞ」という言葉に込められた優しさが、ホルスを突き動かした。ラースの体を横たえ、自分の手を服の中に入れて背中へ回し、そこにある折られた羽の付け根を探る。そうして、未だそこに引っ付いている羽毛をむしり取って、爪を折られた力ない手に、そっと握らせた。自分の残せるものが、それしかないことが悔しかった。
「ありがとう、ラース。ありがとう。ごめんね……」
そう言って、檻を後にした。
獣人たちの檻の並んだ通路を早足で進む。みんな、ちゃんと生きているか心配になる程、静かだった。けれど、その通路を抜けようかというところで、突然、一つの檻から手が伸びてきて、ホルスの腕を掴んだ。あ、と思った時には剛力に引き寄せられてガシャンと格子にぶつかっていた。
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