第23話 ラース(1)

 高い天井を見上げる。薄茶色の木肌は今にも動き出しそうなくらい、くねくね曲がった木目を描いている。こうやって天井を眺めるのが癖になりつつあるのを感じながら、ホルスは半球型の椅子に預けた背を起こした。

 ちょうどその時、トドゥルユルが風呂から出てきた。入ったのは三十分も前だ。いつもは五分とかからないので、少し心配になった。

「大丈夫?」

 トドゥルユルは目を丸くした。

「何が?」

「いや、出てくるの、遅かったから」

「あー」

 納得したような声を出し、トドゥルユルは床に座った。

「考え事してた」

「ハーブさんのこと?」

「うん」

 いつもより、やや覇気のない声が返ってきた。

「でも、それだけじゃない。色々考えてた。あんたのことも」

 ギュッと、胸が握り潰されたように痛む。

『俺ぁ、ずっと知ってた。てめえが醜いハーピーだって。いや……みんな、同僚も、お偉方も、みんな、知ってる』

 脳裏に甦ったハーブの言葉。それに、トドゥルユルの声が重なった。

「みんな知ってるって、言ってたよな。あんた、背中の羽折ってまで隠してたのに……」

 先程よりも、さらに力なくなった声は、しかし、灰色の不安でいっぱいになりかけていたホルスの心の深くまで澄み通らせてくれた。口角が自然に上がる。

「気にしてくれて、ありがとう。でも、俺は大丈夫だよ」

 こちらを向いたトドゥルユルに向けて、笑みを深める。

「そっか」

 そっと顔を伏せて言った彼を見ると、ホルスは突然、ある感情に駆られた。この子に、ちゃんと話さなきゃ。それは、トドゥルユルに対して、ホルスが誠実でありたいからだった。思えば、トドゥルユルは自身が岩山で経験したことを素直に話してくれたのに、ホルスの方は何も明かしていない。彼よりも、遥かに秘密が多いのに。

「あのさ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど、いいかな?」

「え?」

 再び顔を上げたトドゥルユルと、視線が重なる。その目は瞳の輪郭が分かるくらい見開かれていた。

「別にいいけど、何だ?」

 珍しいなと言いたげな調子で訊ねてきた彼の頭へ、ポンと手を置く。

「これから先、またハーブさんみたいに俺たちを研究所へ連れ戻そうとする人も現れるかもしれない。だから、その時に備えて、知っておいてもらった方がいいと思うんだ。俺のこと」

 ホルスは語り始めた。自分がどうして深い森からアームリムカーク研究所へ向かうことになったのか。そして羽と爪を折り、そのままそこで働き続けるに至ったのか。


 研究所の門を叩いた十六歳のホルスは、捕えられたきょうだいたちの居所を突き止め、助けようと考えていた。研究所、ということならば、彼らは研究対象として連れてこられたのだ。生け捕りにされていることを考えても、十中八九、まだ生きているだろう。

「あの、ここには獣人が捕えられていますよね。俺、とても興味があるんです。見せてもらえませんか?」

 中に入れられ、どこから来たのか? 親はいるのか? などの質問を適当に誤魔化しながらやり過ごした後、ホルスは訊ねた。上からの指示で渋々彼を招き入れたらしい警備員は、机を挟んで向かい合うホルスを訝しむような目で見た。

「獣人が見たいって、まさか、お前、それが目的で来たのか?」

「そ、そうじゃないですけど。さっき話した通り、親が酒浸りで、殴られたり、まともに食べられなかったりして、逃げてきたんです。でも、少し前に鳥の獣人が何人か連れてこられてたから、気になって……」

 視線の先の男が立ち上がり、警棒を持つ手に力がこもったのが分かった。

 ガンッ! 鉄の塊は激しく壁を打ち、大きな音が室内に響く。余韻に震える空気が、肌をビリビリさせた。肩を縮めるホルスを見て、警備員の男は再び手をぐっと握り込んだ。

「鳥の獣人がどうなったか知りたいのか? じゃあ、教えてやるよ。こうなったんだよ!」

 今度は警備員とホルスの間にあるデスクへ警棒が振り下ろされた。ガッと、先程よりも軽めの音がする。体を強ばらせながらも、ホルスは怯みそうな心を奮い立たせた。

「叩いたんですか? 警棒で?」

「他にも色々だ」

 再び、男は椅子に座った。

「お前に当たってもしょうがないよな。悪い。ただ……胸くそ悪い仕事をさせられたんだよ。お偉いさんたちの話じゃ、猛禽類の獣人には高い再生能力を備えた個体がいるらしくてな、その研究をしたかったらしい」

「再生能力?」

「そうだ。実際、普通の猛禽類も失った嘴とか爪とか羽を、再生することがあるらしいんだよ。あいつらの説明によるとな」

 胸が、血が、ドクドクと脈打つのが分かった。再生する? それなら、自分の背中の羽は? 手の爪は? 震えだしてしまった手を後ろへ隠す。

「じゃあ、その獣人たちを叩いたりして怪我をさせて、どのくらい再生するかを調べたんですか?」

「ああ。だが、叩く程度じゃなかったぜ。お前にゃ、想像できねえ酷さだろうよ。だから胸くそ悪いんだよ……!」

 言い切るや、ガンッと机を蹴り、男は上へ向けた視線を下げて、ホルスを見据えた。

「お前が興味本位で見て楽しいもんじゃない。見なくていいもん、見るな。夢に出てくるぞ」

 今度は握った拳がゴツゴツ机を叩く。物に当たるその様子に先程までは怯んでいたホルスだが、この時、やっと気がついた。この男の振るう拳や警棒に込められているのは、怒りのような深い悲しさなのだと。彼への同情と少しの安堵と、そして大きな大きな不安がいっぺんに胸へ押し寄せた。

「あの、獣人たちはどうなったんですか? 怪我は治ったんですか?」

「治らねぇよ!」

 男は、ひっくり返るくらい声を荒らげた。自分を落ち着けるように、深く息をつく。

「治らねぇんだよ。あいつらは、一人も、そんな目ぇ見張る程の再生能力なんか持っちゃいなかった。ただ、とっ捕まえて、虐待して、死なせちまっただけだ」

「死なせた!?」

 引きつった声が出た。頬の筋肉が変に動く。表情が歪む。唇がわなつきそうなのを堪えて、訊ねた。

「みんなですか? みんな……死んじゃったんですか?」

 男は、また肩が上下するほど大きく息を吐き出した。

「三人は死んでたよ。一人はまだ息があったから手当したが、たぶん、助からねぇ」

 瞼が涙で膨れ上がり、目の縁へ熱さが溜まっていく。あの……と自分の声が聞こえた。

 獣人たちを叩いたのは、あなた一人ですか? いや、十人はいたよ。それじゃあ、十人で叩いたんですね、弱った四人を十人がかりで。

 ホルスの言葉は、男の心を抉ったらしい。さっきよりも遥かに強く、拳が机へ打ち付けられた。ドン、と一際激しい音がする。続けて、男は額を机へつけてすすり泣き始めた。

「やめろって、言うべきだったのに、言えなかった。やり過ぎだって、分かってたのに、みんなに気圧されて、雰囲気に呑まれて、言えなかった……。そのせいで死なせちまった……」

 クソ、クソと口から零しながら、ただただ、机を叩く男。ホルスの拳にも力が入り爪が、数時間前に自らへし折った爪が皮膚に食い込んだ。ヒューは、メイジーは、エマは、ラースは、人間の集団に殴り殺されたのだ。

 ――いや、違う。心の中で、そう言った。四人のうち、一人は生きている。その子だけでも、助けなくちゃ。ホルスは崩れそうな心に、なんとか意を固めた。絶対に救うんだ、と。

 男はしばらく落ち着きそうになかった。早くしなければ、まだ息があったというきょうだいのうちの一人を救えない。ホルスは泣き伏せる男に手洗いの場所を訊いて、部屋を出た。

 目を凝らし、暗い廊下の一本一本を確かめる。どれかが獣人たちの捕えられた場所に繋がっているはずだ。ちょうど真正面で縦に伸びる通路へ目をやると、はずれと思しき先の方から鈍く明かりが漏れ出している。人にとっては暗すぎるだろうその光に、賭けてみることにした。そっとした足取りで、けれどできるだけ早く進む。

 果たして、そこは獣人たちの檻の並んだ牢獄だった。鉄格子の向こには、様々な姿の獣人がいた。ホルスたちと同じく翼のある者、尻尾のある者、頭に獣の耳のある者。一つ一つ確認していると、鉄格子が赤黒く汚れた檻に行き当たった。心臓が、ドッと鳴る。中を覗けば、そこには黄色い手があった。か黒い闇の中から生えるように、黄色い手が一本突き出しているのだ。指先に備えられていたはずの黒い鉤爪は全て折られている。ホルスは、とっさにその手を掴んでいた。ギュッと握ると、僅かながら、その手にも力がこもった。生きている……! もう一方の手も添えて弱々しい黄色い手を包み、額を格子へつけて中をよく見る。すると、それが誰なのか、分かった。ホルスのすぐ上の兄、ラースだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る