第22話 ハーブとプレゼント(2)

「俺、約束守らない人、嫌いなんですよね」

 ハッとホルスを見た象牙色の顔が、みるみる恐怖に歪んでいく。ホルスはハーブを掴む手に力を込めた。声を低め、ハーブの耳元で言う。

「通信機の相手に『退職金が少なすぎるから、交渉したい。後でまたかける』と言え」

 ハーブは、皿のようになった目でホルスを見て、口をパクパクと動かすばかりだった。

「早く言え」

 ギュッと手を握り込む。ハーブはうぅっ……と苦しげな声を漏らし、観念したように口を開いた。

「退職金が少なすぎる、ジマーマン所長に交渉したい。後でまたかける」

 彼が言い切るや、ホルスは通信機を取りあげてグシャッと握り潰した。ヒッとハーブが小さな悲鳴を上げた。

「アームリムカークと今でも繋がってるなら、あんたを放ってはおけない」

 目の前の顔はさらに歪み、蒼褪め、呼吸が荒くなっていった。その苦しげな息の下から、震える声が言う。

「待ってくれ、孫娘のジェイダにこれを届けさせてくれ。ずっと欲しがってた物なんだ」

 ハーブの声の悲痛さに、つい手が緩んだ。今、ここで彼を放してはいけないことは分かっていたが、しかし、どうしてもホルスはこの男に同情してしまうのだ。ハーブの内に巣食っている醜さや狡さ、劣等感を自分と重ねてしまうから。

「分かった。でも、その子にそれを渡したら、言う通りにしてもらう。あなたの自宅までは、俺たちもついて行く。嫌だって言うなら――」

「ああ、分かった。それでいい」

 耐えきれず声を上げた様子のハーブは、続けて媚びるような笑みを口元に浮かべた。

「それで、この手を放してもらえないか? ほら、荷物を上手く持てないだろう?」

「俺が持つ」

 無機質な返事が、さらにハーブを怯ませたようだった。すっかり青くなった顔へ、さらに陰が差す。

「分かった。言う通りにするよ」

 小声でそう言い、ボストンバッグを差し出してくる。

 しかし、ホルスがバッグへ手を伸ばした時、キリキリという不思議な音が聞こえた。そして、その直後だ。ハーブのコートの広い袖口から黒い物体が飛び出したのは。真っ黒く、まん丸い口を向けてきている。拳銃だ。

 ホルスが気づいたのとほぼ同時に、殺気が真横を掠めていった。帽子の下からはみ出した白銀色の髪が見え、続けて蹴り上げられた拳銃が宙に投げ出される。それを掴んだトドゥルユルは、ポンとホルスへ投げて寄こした。

「あんた、口の割に結構油断するよな」

 そうして、くるりとハーブの方を向く。

「これ、どうなってんの?」

 彼は躊躇いなく、地面へへたり込んで怯えるハーブへ近寄った。拳銃の飛び出した方の腕を掴んで袖を捲り上げる。中には金属の棒が仕込まれていた。

「へえ、これ、カーテンレールか? この溝を銃にくっつけた車輪が滑って飛び出すのか。面白いな」

「お、お前……俺をどうするつもりだ……!」

「どうするって、まあ、放っちゃおけないし、とりあえず通信手段絶って傍に置いとくのがいいと思ってるけど」

 震え切ったハーブの口調とは対照的に、トドゥルユルの声は落ち着き払っている。ホルスには彼の背中しか見えないが、きっと目をまん丸くしているのだろう。

「あんた、どう思う?」

 声が飛んできた。ホルスは返すべき言葉を探したが、一度危機を感じて強ばった心や思考は簡単には解れない。トドゥルユルの楽観さと柔軟さに任せてみても、いいかもしれない。

「君が決めて」

「いいのか?」

 驚きを含んだ高い声が返ってきた。けれど、その目はハーブへ向けられたままだ。なるほど、彼は油断はしていないのだ。

「うん、まずいと思ったら、俺も意見出すけどね」

「分かった」

 そうして、トドゥルユルの声は平坦な調子に戻った。

「じゃあ、まずはこいつを宿に連れて行って――」

「うわぁぁあぁぁぁッ!!」

 話をぶった切り、ハーブが絶叫しながらトドゥルユルへ突進した。びっくりしたらしいトドゥルユルの髪がブワッと広がる。しかし、彼は瞬時に身をひるがえして躱した。飛びつく先を失ったハーブの体は宙へ放り出され、階段のステップへ激突。一番下まで、急な傾斜を転がり落ちていった。

 ホルスはトドゥルユルを見た。息を詰めた様子で、カッ見開いたままの目をハーブから離せないでいる。凍りついた彼は、けれど、数秒のうちに階段を駆け下りていった。

「おい」

 トドゥルユルの声。ハーブは応じない。ホルスも小走りに近寄ると、仰向けで四肢を投げ出したハーブの姿が目に飛び込んできた。頭を中心に地面へ赤黒い血溜まりが広がっており、胸には運悪く落ちていたのだろう太い木の枝が突き刺さっていた。それでも、手にはしっかりと袋が握られている。四角い何かが入った、あの袋が。

 ハーブの状態を目にすると、ホルスの胸でゾッと恐怖が突き上げてきた。しかし、下ろされた瞼がピクと動き、その恐怖はくるりと別の緊張へ変わった。

「俺は……お前らが、大嫌いだ」

 喉から血を流しながら、なんとか出したような、そんな声でハーブは言った。

「人間様でも、ねえくせに……汚ねえ爪や耳を隠して、俺より……上等な振りしやがって……」

 そこで言葉は途切れた。ゴホゴホと血の絡みついた咳。一通り噎せ終わると、ハーブは今にも命の灯火を失いそうな目を、それでもギョロリと剥いて声を絞り出した。

「特に、お前だよ、ホルス。俺ぁ、ずっと知ってた。てめえが醜いハーピーだって。いや……みんな、同僚も、お偉方も、みんな、知ってる。俺が直訴した時……ジマーマンは、そんなこたぁ初めから知ってると、言いやがった。……知ってるが、逃げも、しねぇから、放っといてるとな。でも、逃げ出したからには、違うぞ。俺がいなくたって……お前らは、いつか、捕まる。逃げた時点で……詰んでんだよ、だから――」

「黙れ」

 隣から、声が上がった。トドゥルユルは、まっさらな紙のような感情の読めない顔をして、ハーブを見つめていた。それから、ゆっくり身を屈め、ハーブの持つ、あの袋へ手をかける。ハーブの力ない顔に、戦慄が走った。

「何する……!」

「これじゃ、もうあんたは渡せないだろ」

 トドゥルユルの口調は相変わらず平坦だったが、声はいつもよりずっと低く、小さかった。

「大丈夫だ。ちゃんと届けてやるよ」

 言い切るや、トドゥルユルはハーブの頭を両手で掴み、捻った。ボキッという鈍い音が空気を震わせ、同時にハーブの両腕は突っ張った。が、すぐにだらしなく地面へへたって動かなくなった。

 カラカラと、空き缶の転がる音が、いやに響いた。

 トドゥルユルは立ち上がり、ホルスへ振り向いた。手にしっかりと、あの四角い箱の入った袋を握って。

「これ、届けに行こう」


 ハーブの亡骸を近くの林へ入って埋めてから、ホルスとトドゥルユルは先程止まってしまった道のりに戻った。傾斜はスキャブの住宅街へ入っても、尚、急だ。この辺りが山を切り開いて作った土地であることを物語っている。坂道と階段ばかりの地面を踏みしめて、ホルスは考えていた。ハーブさんのファミリーネームは、確かサリバーニだった。それを手掛かりに家を探せるだろうか。思案していると、トドゥルユルが口を開いた。ハーブが事切れるのを待たずに首をへし折って以降、黙りっぱなしだった彼が。

「ハーブのやつ、きっと自分で渡したかったよな」

 言葉に滲む悲しさが、ホルスの胸も痛めた。

「そうだね……」

 奇妙にあいてしまった間の後に、当たり障りない返事をしてから、声の調子を明るくする。

「とにかく、ちゃんと届けてあげるためには、ハーブさんの家を見つけないとね」

「ああ、たぶん、あいつ、舗装されてないぬかるみやすいところに住んでるよな」

 え? と目を丸くしたホルスにトドゥルユルの方もきょとんとした。

「気づいてなかったのかよ? あいつの靴の底、泥でめちゃくちゃ汚れてただろ。普段からぬかるみやすいところを歩いてるからだ。この町、土っぽいところ少ないし、そういう珍しい場所に住んでんだよ」

 聞きながら、ホルスはパチクリ瞬きばかりしていた。目敏いという自覚のある自分が全く気づかなかったことに、この子は当然のごとく目をとめていたのだ。

「君は本当に……怖いね」

「え? なんで?」

 眉を寄せた顔が、少しおかしい。ホルスは笑って、いつものようにトドゥルユルの頭をポンポン叩いた。

「じゃあ、君の言う通り、ぬかるみやすそうな場所にある家を探していこうか」

 トドゥルユルの言う通りに探すと、ハーブの家はすぐに見つかった。土が剥き出しになった場所に建つ長屋の一戸に「サリバーニ」のファミリーネームが示されていたのだ。呼び鈴が見当たらず、コンコンと軽くノックする。しばらく待つと、ドアの向こうから慌ただしく動く音がした。気配がすぐそこまで来ると、勢いよく扉が開き、転がるように女の子が飛び出してきた。ハーブと同じ、象牙色の肌をしている。

「おかえ――」

 り、を口にする前に、少女は声を呑み込んだ。大きく開いた瞼が下がってくるにしたがい、その顔には不安の色が差していく。

「あの、ごめんなさい。おじいちゃんも、お母さんも、今、いなくて……。お金なら、おじいちゃんが、今日なんとかするからって……」

 元々、痛んでいた胸が、さらに深く抉られた。ホルスは引きつりそうな頬をどうにか持ち上げ、屈んで目線を少女と同じ高さにした。

「お金を取り立てに来たんじゃないよ。俺たちはハーブさんの知り合いなんだ。彼に頼まれて二つの物を届けに来た。まずは、これ」

 そう言い、手に持っていたボストンバッグを差し出し、中を開ける。少女は目を輝かせた。

「こんなにたくさんのお金、私、見たことない。おじいちゃんって、すごいんだぁ」

「うん、そうだね」

 応じてから、トドゥルユルへ目配せする。彼はコクンと頷いて、少女に四角い箱の入った袋を手渡した。上から中を覗いた途端、象牙色の肌が真っ赤に紅潮した。

「着せ替えマリーちゃんだ! どうして? おじいちゃん、買えないって言ってたのに!」

 喜びが弾けるような口調だった。言葉だけでは収まらないというように、ピョンピョン小さく跳ねる姿がかわいらしい。

「ありがとう! おじいちゃん、早く帰ってこないかなぁ。一緒にマリーちゃんで遊んでくれるかなぁ?」

 少女の嬉しそうな一言一言が、心をジクジクさせる。

 ごめんね。そう胸の内だけで言葉にし、ホルスは嘘の説明をした。

「実は、ハーブさんは、また遠くに働きに行かなきゃならなくなったんだ。これから就く仕事の給料を前払いしてもらったんだよ。だから、すぐには帰って来られないんだ」

 少女の顔は、見る間に力なくなった。そうなの……と呟くような声で言う。けれど、視線が『着せ替えマリーちゃん』に向かうと、その瞳に再び喜びが宿った。

「おじいちゃんに、お礼言いたいな」

「伝えておくよ」

 笑って言ったホルスへ、少女も満面の笑みを返した。

「うん、ありがとう!」


 ハーブの家を出て、先程通った道を逆に辿る。辺りには、いつの間にか夕暮れの気配が立ちこめている。頬を撫でる空気も冷たい。ホー、ホーと、どこかで鳴くフクロウの声以外、鼓膜を震わせるものはない。

「良いおじいちゃんだったんだな」

 トドゥルユルが口を切った。そうだね、と返せば、つい先刻、少女と話していた時の胸の痛みが戻ってくる。ハーブは狡くて、臆病で、残酷で、そして家族思いの人間だった。そうして、ホルスの胸には、こんな思いがよぎった。俺のおばあちゃんも、ハーブさんみたいだったら少しは良かったかもしれないのに。

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