第17話 羽と爪
ホルスはじっと、周囲の気配が消えるのを待っていた。とてつもなく長い時間のようで、けれど、あっという間に声も足音も遠ざかり、そこは森のざわめきとホルスだけになっていた。
一挙に罪悪感と後悔が押し寄せてきた。メイジーを、ヒューを、エマを、ラースを、見捨てたんだ……。ホルスは、寝床へ必要なものを取りに帰り、それからすぐに大きく羽ばたいた。彼らを追ったのだ。母は少し前に亡くなり、祖母は姿をくらませていた。ホルスが一人で助けに行くしかない。彼は、見つからずに追いつくための、最後の飛行と決意していた。上空から彼らの姿を捕らえ、ついて行った。そうして辿り着いた。地面へ大きな影を引く、覆いかぶさらん程の迫力を持つ建物に。入口と思しき物々しい門の上には、『アームリムカーク研究所』の名が掲げられている。
ホルスは建物の周りを囲む木々に身を隠し、手近なところにあった太い枝を口に咥えた。そうして、右翼へ手をかけて折る。激痛が走った。脳天に突き抜けてくるような、鮮明な痛みだ。けれど、ぐっと噛み込んだ歯がしっかり痛みを捕まえて、何とか耐えることができた。よし、次は左だ。同じようにして左翼に手をかけ、力を込める。嫌な音が骨を通して耳に響いた。先ほどと同じような痛みが来たけれど、今度は枝を咥えた歯がおかしな具合にそれを捕らえ損ねた。行き場のなくなった苦痛に、全身が支配され、気がつくとホルスは体を折り曲げて身を捩り、声を殺して泣いていた。
少しずつ、少しずつ痛みが鈍くなっていき、思考が働きだす。厚ぼったさの残る目をそのままに、彼は立ち上がった。そして、持ってきた荷物の中から、母や祖母がいざと言う時のために用意していた人間の服を取り出し、身にまとった。
どうしてこんなことをしたのか。それは彼らの母親が、常々言って聞かせていたからだ。獣人として人間に捕えられようものなら、牢獄に閉じこめられ、それは酷い仕打ちを受けるのだと。そうならないためには、人間になるしかないと。だからこそ、母はホルスたちきょうだいに人語を教えた。人のように言葉を操り、読み書きもできるよう教育をほどこしたのだ。それらは全て彼女の母、つまりホルスたちの祖母の影響によるものだった。人間になりたい、人間になりたい。祖母はうわ言のように繰り返した。捕らえた獲物をむさぼりながら、空の飛行を楽しみながら、娘とおしゃべりに興じながら、人間になりたい、人間になりたいと、折に触れて口にした。そして、いかにハーピーイーグルの獣人が醜い存在かを語った。
『いいかい、アタシたちは、神話に登場するハーピーって化け物と同じ生き物なのさ。意地汚く食糧を食い漁り、残飯の上には糞尿まで撒き散らす。おまけに酷い臭いで、常に耳障りな声で騒ぎ立てる化け物さ。人間はアタシたちがそういう醜い生き物だって知っている。いくら見目よく生まれようが、本性は醜いハーピーなのさ。だからね、アタシは人間になって奴らを見返してやりたい。どんな手を使ってでも』
その言葉の毒は祖母から母へ、そのまた子へと伝わって、ホルスに自身の翼を、爪を、折らせたのだ。そして、こうも思わせた。人間の振りさえすれば、きっと何もかも上手くいく、と。だから彼は、怯えながら、翼を失った背と心の痛みに苛まれながら、それでもアームリムカークの門を叩いた。すみません、職を探しているんです。どうか雇っては頂けないでしょうか?
しかし、結局は何もかも上手くは行かなかった。ホルスにとっても、きょうだいたちにとっても、そして、彼らをはめて人を連れ込んだハーピーにとっても。
暗い迷路のごとき木目調の天井を見ているうちに、つい過去のことに思いを馳せていた。心の底に埋めて忘れようとしていたはずなのに、時折、こうして自ら掘り起こし、古傷をまた痛めてしまう。もう天井は見ないようにしようと思い、ホルスは頭から布団を被って目を閉じた
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